19.やってみる。
午後の授業が始まる少し前。
エマは教室の前で立ち止まっていた。
「…………。」
扉は開いている。
中からは、いつもと変わらない生徒たちの話し声が聞こえてくる。
入ればいい、ただ、それだけだ。
そんなことはエマにも十分過ぎるくらいわかっている。
「…………。」
エマはそっと前髪へ手を伸ばした。
指先に、小さな髪留めが触れる。
(…顔が、見える。)
今までなら、長い前髪が目元まで隠してくれていた。
俯けば、誰かと目が合うことも少ない。
相手からも、自分の顔はよく見えない。
けれど今は違う。
(顔が……見える。)
当たり前のことなのに、急に心臓がうるさくなった。
(どうしよう。)
髪留めへ指を掛ける。
今ならまだ外せる…。
外してしまえば、いつも通りだ、そのまま教室へ入ればいい。
「……。」
——このまま、午後の授業を受けてみます。
ついさっき、自分でそう言った。
(でも……。)
エマは教室の中を覗く。
何人かの生徒がいる。
話している。
笑っている。
あそこへ、この顔で入る。
(……この顔って、私の顔なんだけど。)
自分で考えて、余計に緊張した。
(落ち着いて、私。)
別に何かをするわけではない。
ただ前髪を留めているだけ。
(大丈夫。)
(…何が大丈夫なの?)
(みんな見るかもしれない。)
(なんで最近急に前髪上げたのって思われるかもしれない。)
(似合ってないって思われるかも。)
(美人ならともかく。)
(やっぱり顔出さない方がいいって…。)
そこまで考えて。
「……。」
エマは一度、目を閉じた。
(午後だけ。)
嫌だったら外せばいい。
トマスさんとも、そう話した。
「……よし。」
小さく呟き、髪留めから手を離すと、意を決して教室へ入った。
「…………。」
一歩。
二歩。
自分の席へ向かう。
(見られてる。)
誰かと目が合った。
(見られた!)
慌てて目を逸らす。
(やっぱり変なのかしら。)
別の生徒の横を通る。
(今、こっち見た?)
心臓の音がうるさい。
(落ち着いて。)
(普通に。)
(普通に歩けばいいのよ。)
ようやく自分の席まで辿り着き、椅子へ座った。
(……座れた。)
それだけで、ものすごく疲れた。
「エマ。」
「!」
身体が跳ねた。
振り返ると、そこには午前中に話していた少女がいた。
「……な、なに?」
声が少し裏返った。
何を言われるのだろう。
髪留めのこと?顔のこと?
少女はエマの机へ一枚の紙を置いた。
「さっき先生がこれ配ってたよ。」
「……え?」
「エマいなかったから。」
エマは紙を見る。
それは授業で使う資料だった。
「あ……。」
慌てて受け取る。
「ありがとう。」
「うん。」
少女はそれだけ言うと、自分の席へ戻ろうとした。
「…………。」
エマは呆然とその背中を見る。
(……それだけ?)
その時、少女が振り返った。
「あ、そうだ。」
「!」
やっぱり何かある。
エマが身構える。
「今日も前髪、そのままなんだね。」
「……!」
髪留めへ手を伸ばしかける。
「あ……その。」
「昨日より見慣れた。」
少女は笑った。
「じゃ、あとでね。」
「……え?」
今度こそ、本当に行ってしまった。
「…………。」
エマはしばらく動かなかった。
恐る恐る周囲を見るが、誰もこちらを見ていない。
前では二人の少女が何かを話している。
後ろでは男子生徒が教科書を探している。
窓際の生徒は外を眺めていた。
いつもと同じ教室だった。
「……。」
エマは恐る恐る、自分の髪留めへ触れる。
(……何も、起きない。)
あれほど怖かったのに。
教室へ入る前は、全員が自分の顔を見るような気さえしていた。
けれど実際には、資料を渡されて。
前髪のことを少し言われて。
それだけだった。
(……。)
拍子抜けするくらい、何も起きなかった。
「……そっか。」
エマは小さく呟く。
まだ落ち着かない。
誰かと目が合えば、やっぱり少し怖い。
前髪を下ろしたくなる気持ちもある。
だけど、
(……もう少しだけ、このままでいよう。)
エマは髪留めから手を離し、机の上へ教科書を出した。
⸻
その頃トマスはグラウンドの端で、木剣を見つめていた。
「…………。」
目の前に差し出されている。
「ほら。」
男子生徒が木剣を少し揺らす。
「トマス。」
「……。」
「腕、もういいんだろ?」
「……うん。」
「じゃあ出るだろ?」
「…………。」
トマスは木剣を見る。
(どうしよう。)
さっきはエマさんに言った。
——一度くらい、試合やってみようかな。
確かに言った。
言ったけれど。
(……やっぱり怖い。)
自分の身体へ戻った途端、ものすごく怖い。
エマさんの話を聞いている時は、少しくらいなら自分にも出来るような気がしていた。
でも実際にここへ来て男子たちが木剣を持って、これから本当に試合をするのだと思うと。
(……やめようかな。)
別にやらなくてもいいじゃん。
エマさんとも話した。
嫌だったらやめるし無理ならやめる。
それでいい。
だから。
「……。」
トマスは木剣へ手を伸ばしかけて、止めた。
「トマス?」
男子生徒が不思議そうに首を傾げる。
「まだ痛い?」
「いや……。」
「じゃあどうした?」
「……。」
トマスは唾を飲み込んだ。
心臓がうるさい。
(やっぱり、僕には……。)
そう思った時、三日前の自分の姿が頭に浮かんだ。
いつもここで見学していた。
誘われても断っていたしそれが悪いとは思わない。
今日だって、本当に嫌なら断ればいい。
でも。
(……一回もやったことないんだよな。)
自分は、やってみて無理だったわけではない。
怖くて、最初からやらなかっただけだ。
「…………。」
だったら、本当に無理なのかどうか、一度くらい。
「……やる。」
トマスは木剣を受け取った。
「おう!」
男子生徒はあっさり笑った。
「じゃ、こっち。」
「……うん。」
トマスは木剣を握りしめた。
(……受け取っちゃった。)
急に帰りたくなった。
⸻
そして数分後。
「トマス! 右!」
「えっ!?」
言われた方向を見る。
「そっちじゃねえ!」
「えっ!?」
振り返った瞬間。
「うわっ!」
木剣が腕に当たった。
「いたっ!」
「前見ろ前!」
「見てるよ!」
「見てねえから食らってんだろ!」
周囲から笑い声が上がる。
「…………。」
トマスは顔が熱くなるのを感じた。
(恥ずかしい。)
やっぱり出なければよかった。
次にどこへ動けばいいのかも分からない。
周囲の声も一度に聞こえてきて、頭が混乱する。
「トマス! 来るぞ!」
「えっ。」
正面を見る。
相手が木剣を構えている。
(怖っ!)
反射的に木剣を上げる。
ガンッ!
「っ!」
腕が痺れた。
そのまま押される。
「うわ……!」
足がもつれて尻餅をつく。
「…………。」
一瞬、静かになった。
次の瞬間
「相変わらずトマスはどんくせぇなあ!」
笑い声が上がった。
「……っ。」
トマスは俯いた。
(ほら。)
やっぱり出たってこうなる。
出来なくて、笑われる。
(……やめればよかった。)
木剣を握ったまま立ち上がろうとすると。
「ほら。」
目の前へ手が差し出された。
「……え?」
顔を上げると先ほどの男子生徒だった。
「立てよ。」
「あ……うん。」
トマスはその手を掴んだ。
ぐっと引っ張られ、立ち上がる。
「お前さ。」
「……。」
また何か言われるのかとトマスは少しだけ身構えた。
「相手の剣ばっか見てるだろ。」
「……え?」
「だから遅れるんだよ。」
男子生徒は自分の肩を指差した。
「ここ。」
「……肩?」
「剣振る前に肩動くだろ。そこ見てた方が分かりやすい。」
「……。」
トマスは瞬きをする。
「あと。」
男子生徒がトマスの木剣を見る。
「握りすぎ。」
「え?」
「そんなガチガチに握ってたら動かしにくいだろ。」
「……そうなの?」
「そうなの。」
男子生徒が笑う。
「力抜けって。」
「……。」
トマスは自分の手を見る。
言われてみれば、指が痛くなるくらい強く握っていた。
少しだけ力を抜く。
「それくらい。」
「……。」
「ほら、もう一回。」
「えっ。」
トマスは顔を上げる。
「もう一回?」
「当たり前だろ。」
男子生徒はもう試合へ戻っている。
「早く来いよ!」
「……。」
トマスはその背中を見た。
(……終わりじゃないんだ。)
どんくさいと言われて笑われた。
恥ずかしかった、でもそれで終わりではなかった。
「トマス!」
「あっ。」
トマスは木剣を握り直した。
今度は、少しだけ力を抜く。
「……よし。」
そして走った。
⸻
結局トマスは最後まで、ほとんど活躍できなかった。
「はぁ……はぁ……。」
授業が終わる頃には、グラウンドの端へ座り込んでいた。
…疲れた。
腕も痛い。
脚も重い。
汗も気持ち悪い。
「……もう無理。」
思わず呟く。
「お前体力ねえなあ。」
「……。」
隣に男子生徒が座る。
「でも最初よりマシだったじゃん。」
「……本当?」
「最後、一回受けただろ。」
「……一回だけ。」
「最初は一回も出来なかったんだからマシだろ。」
「……。」
(マシ…)
「……そっか。」
トマスは自分の手を見る。
木剣を握っていたせいで、まだ少しじんじんしている。上手く出来たとは、とても言えない。
楽しかったのかと聞かれても、正直まだ分からない。
怖かったし。
恥ずかしかったし。
疲れた。
それでも。
(……やってみた。)
それだけは本当だった。
⸻
午後の授業が終わった。
エマは教科書を鞄へしまいながら、ふと窓へ映った自分を見る。
「……。」
髪留めは、まだついている。
結局、午後の間、一度も外さなかった。
何度も触った。
外そうかと思った。
でも、そのままだった。
「……。」
エマは小さく髪留めへ触れる。
明日もするかは分からない。
もしかしたら、明日の朝になったらやっぱり怖くなって、前髪を下ろすかもしれない。
それでも今日は、このまま一日を終えられた。
「……帰ろう。」
エマは鞄を持って立ち上がった。
⸻
同じ頃、トマスも重い身体を引きずるように、校舎へ戻っていた。
「……痛い。」
明日は間違いなく筋肉痛だ。
もう一度試合に出るかどうかは、まだ分からない。
今日やってみたからといって、これからずっとやらなければいけないわけでもない。
でも。
「……。」
トマスは少しだけ背筋を伸ばした。
——エマは髪留めを外さなかった。
——トマスは試合を途中でやめなかった。
ただ、それだけ。
二人の人生は、別に何も変わっていない。
けれど三日前までなら出来なかったことを、今日は自分の身体で、一度だけやってみた。




