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17/21

17.もうすぐ

学園へ着くと、トマスはいつものように教室へ向かった。

もう、エマの席がどこなのか確認する必要もない。

教室へ入り、そのまま席へ向かって鞄を置く。


「おはよう、エマ。」

「あ、おはよう。」


声を掛けられて、自然に返事をする。


「今日も前髪留めてるんだ。」

「うん。」

「やっぱそっちの方がいいじゃん。」

「……ありがとう。」


トマスは少しだけ笑った。


三日前なら、それだけの会話でも何を返せばいいのか分からなかっただろう。


いや、たとえ自分の身体だったとしても、反応はたぶん同じだっただろう。


けれど今は、エマさんとして変なことをしないように、という意識はもちろんあるものの、最初ほど一つ一つの言葉に怯えなくなっていた。


「昨日の課題さ。」

「うん。」

「結局、あのあと図書室でやったんだけど。」


少女がノートを開く。


「ここ、こうだった。」

「あ。」


トマスも覗き込む。


「そうやるんだ。」

「エマの途中式、ここまでは合ってたよ。」

「ほんと?」

「うん。だからあとちょっとだった。」

「……。」


なんでもない会話だ。


昨日の続きを今日もしている。

けれど、明日からこの席に座るのは自分ではない。


「……エマ?」

「あっ。」

「どうしたの?」

「いや……何でもない。」


トマスは慌てて首を振った。


少女は少し不思議そうな顔をしたが、


「じゃあ、これ写す?」

「うん。ありがとう。」


それ以上は何も聞かなかった。

トマスはノートを受け取る。


その時、ふと教室の時計が目に入った。


「……。」


まだ朝…昼休みまでは、何時間もある。


(あと数時間か。)


三日前、校舎裏で『相互理解術』を開いたのが、昼休みだった。

正確な時刻までは覚えていないけれど、二人で本を開いて、魔法陣へ手を置いて。


そして、目を開けた時には、こうなっていた。


(……本当に戻るよね。)


急に不安になった。

本には三日間と書かれていた。

だから、戻るはずだ。


戻る……はず。


「……。」


トマスは自分の手を見る。


エマさんの手。

三日前には、手の細さも、握力も違っていたからどうしていいかわからなかった。

今ではもう、教科書を開くのも、ペンを持つのも、鞄から物を取り出すのもすっかり慣れた。


「……。」


トマスは手を握って、開く。


(戻るよね。)


もう一度、心の中で呟いた。



一方のエマもまた、教室で時計を見ていた。


「……。」


まだ一限目。


…分かっている。

分かっているのだが、なぜか今日は何度も時計を見てしまう。


「トマス。」

「!」


声を掛けられ、エマは慌てて前を向いた。


「な、何?」

「これ後ろ回して。」


前の席の男子生徒から、授業の資料を渡される。


「あ、うん。」


受け取り、後ろへ回す。

それだけだった。


「……。」


エマはもう一度、時計を見る。

針はほとんど進んでいない。


(まだ……。)


三日前は、三日間なんて長すぎると思った。

一晩ですら怖かった。


トマスさんの家へ帰る。

トマスさんの兄たちと食事をする。

トマスさんとして授業を受ける。


誰かに話しかけられるたびに、何か間違えてしまうのではないかと怖かった。それなのに


「おい、トマス。」

「……今度は何?」


振り返る。


昨日、腕を心配してくれた男子生徒だった。


「まだ痛い?」

「あ……。」


エマは腕を動かしてみる。


「昨日よりは、だいぶ。」

「じゃあ次は出れそうだな。」

「……。」


次…また、その言葉だ。


「……たぶん。」


そう答えると、男子生徒は、


「おう。」


とだけ言って前を向いた。


「……。」


エマはその男子生徒の背中を見る。

明日、この人に話しかけられるのは、自分ではなくトマスさんだ。


そのことが、なんだか不思議だった。



一限目が終わる。

二限目が終わる。

休み時間になるたび、二人はそれぞれ時計を見た。

あと二時間。

あと一時間。


授業はいつも通り進んでいる。

教師が黒板へ文字を書き、生徒たちはノートを取る。


誰かが指名されて答える。

誰かが間違えて笑われる。


廊下を教師が歩いていく。

窓の外から、別の授業を受けている生徒たちの声が聞こえる。


何も変わらない。

ただ二人にとってだけ、今日は少し違った。


「……。」


トマスはノートを取りながら、また時計を見る。


あと三十分。


(……。)


急に落ち着かなくなった。

本当に戻れるのかという不安もある。

でも、それだけではない。


あと三十分で、この手も、この声も、この視線の高さも全部、エマさんへ返す。


「……。」


トマスは無意識に髪留めへ触れた。

さらりと髪が指に触れる。


(……これも。)


今日の朝、侍女さんが留めてくれた。

昼になったら、この髪留めを触るのも自分ではなくなる。


「……。」


なんだか変な感じがした。

寂しい、と言うほどではない。

戻りたくないわけでもない。

むしろ、自分の身体へ戻れるのなら安心する。


それなのに。


(……変なの。)


トマスは手を下ろした。



エマもまた、授業中に自分の手を見ていた。


大きな手。

三日前は、どう動かせばいいのかすら分からなかった。


歩けば歩幅が違うし、立てば視線が高い。

力加減も分からないのでどのくらいの強さでものを握ればいいのかもわからなかったが、今ではもう、ペンを持つことにも慣れた。


「……。」


エマは少しだけ肩を回す。

まだ筋肉痛は残っている。

けれど最初の日より、肩はなんとなく軽い。


鏡を見る時も、自然に背筋を伸ばすようになった。


(あと少し。)


昼になればこの身体を、トマスさんへ返す。


「……。」


エマは前を向いた。

黒板を見る。


けれど、教師の話があまり頭に入ってこない。


(ちゃんと……戻るわよね。)


…もし戻らなかったら。

三日というのが、実は違っていたら?

そもそも魔法が失敗していたら?


考え始めると、急に怖くなってくる。


「……。」


エマは机の下で、自分ではない手をぎゅっと握った。


とその時、授業終了の鐘が鳴った。


「!」


エマが顔を上げる。

教室のあちこちで椅子を引く音がする。


「昼だー!」

「腹減った。」

「今日どこで食べる?」


一気に教室が騒がしくなる。


エマは時計を見た。

昼休みだ。


「……。」


急いで立ち上がると鞄から弁当と、報告用のノート。

それから『相互理解術』を取り出した。



トマスも同じだった。

鐘が鳴った瞬間、身体がびくりと反応した。


(来た。)


周囲の少女たちが立ち上がる。


「エマ、今日――」

「あっ、ご、ごめん!」


声を掛けられたが、トマスは慌てて立ち上がった。


「今日、ちょっと……用事があって。」

「あ、そうなの?」

「うん。」

「じゃあまたね。」

「……うん。」


トマスは一瞬だけ止まった。


「またね。」


そう返してから、教室を出る。

廊下を最初は早足で歩いていたが、だんだん速くなり、最後は走っていた。


校舎を出て、いつもの茂みを抜けると。


「あ。」


もうエマさんがいた。

同じクラスのはずなのに早いなぁ。

そんな事を思っていたら向こうもこちらに気付いた。


「あ……。」


その手には弁当と、ノートがあった。


「……もうすぐ、だね」


トマスが言う。


「はい。」


エマが頷いた。


二人はいつもの木陰へ腰を下ろした。


「……。」

「……。」


いつもなら、まず弁当を広げて、そして報告をする。

けれど今日は、二人ともなんとなく本を見ていた。


「……今、何時かな。」


トマスが尋ねるとエマが時計を見た。


「昼休みが、始まったばかりです。」

「じゃあ……。」


トマスは考える。


「三日前も、すぐここに来たわけじゃないよね。」

「はい。少し話してから……本を開いたのはもう少し後です。」

「……じゃあ、まだだね。」

「たぶん。」

「……。」

「……。」


二人は顔を見合わせる。


「本当に戻るかな。」


トマスが言った。


「……戻ると、思います。」

「三日って書いてあったもんね。」

「はい。」

「……。」

「……。」


何の根拠にもなっていない。

二人とも、それが分かっていた。


エマが『相互理解術』を膝の上へ置く。


「……一応、開いておきますか?」

「うん。」


二人であの日と同じページを開く。

魔法陣が描かれている。

そしてそこには確かに、


——術式発動より三日間。


そう記されている。


「……。」


トマスがじっと文字を見る。


「やっぱり三日だ。」

「はい。」

「三日……。」


急に不安になった。


「エマさん。」

「はい。」

「もし戻らなかったらどうしよう。」

「……。」


エマの顔も少し青くなる。


「その時は……。」


考える。


「もう一度、最初から本を読みましょう。」

「……うん。」

「何か、見落としているかもしれませんし。」

「そうだね。」

「それでも分からなかったら……。」

「……。」

「……。」


続きが出てこなかった。


二人は黙る。


「……とにかくその時は調べよう。」


トマスが呟く。


「はい。」


エマも小さく頷いた。


「必ず戻りましょう。」


しばらく二人で本を眺めていたが。


「あ。」


トマスが顔を上げる。


「そうだ。」

「?」

「ノート。」

「あっ。」


二人とも同時に報告用のノートを見る。


「これ……。」


トマスが差し出す。


「エマさんの三日間。」


エマも、自分が書いたノートを差し出した。


「こちらは、トマスさんの三日間です。」

「……ありがとう。」

「こちらこそ。」


交換する。


トマスの手元には、自分がいなかった三日間がある。


兄たちとの会話や剣術の試合。

クラスの男子たちとのやりとりなど、自分が知らない、自分の三日間。


エマの手元にも侍女とのこと。

教室でのことや前髪のこと。

自分がいなかった間の自分が、細かな文字で残されている。


「……。」


二人とも、すぐには開かなかった。

それぞれ大切そうに、ノートを抱える。


「……あとで読むね。」

「私も。」

「……。」

「……。」


また、少し沈黙した。

トマスは目の前の自分を見る。

エマも、自分を見る。


三日前は、相手の姿になったことが怖くて仕方がなかった。


どうすればいい。

何をすればいい。

早く戻りたい。


そればかりだった。


今だってもちろん戻りたい。

自分の身体へ、自分の家へ。

自分の生活へ。


でも。


「……エマさん。」

「はい。」

「三日間……。」


トマスは言いかけて、少し迷った。

何と言えばいいのか分からない。


「……ありがとう。」


結局、それだけになった。

エマは少し驚いたあと。


「……はい。」


小さく笑った。


「私も……ありがとうございました。」

「……。」

「……。」


その時ふっと風が吹いた。

木々の葉が揺れる。


二人の間に開かれていた『相互理解術』のページが、ぱらぱらとめくれた。


「……!」


二人が同時に本を見る。


「今……。」

「はい。」


風が吹いた。

ただの風かもしれない。

けれど、魔法陣の描かれたページが、ほんのわずかに光った。


「……トマスさん。」

「うん。」


二人は同時に息を呑む。


三日前と同じあの時と同じ光が、ゆっくりと魔法陣の線を走り始める。


「……来た。」


トマスが呟く。

エマも、自分の胸元をぎゅっと掴んだ。


光が少しずつ強くなる。


「……。」

「……。」


二人は最後にもう一度だけ自分の身体に入った相手を見た。

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