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16.最後の朝

朝、扉を叩く音でトマスは目を覚ました。


「お嬢様、朝でございます。」

「……ん。」


目を開ける。

もう、だいぶ見慣れた天井だった。


「お嬢様?」

「あ、おはよう。」

「おはようございます。失礼いたします。」


扉が開き、いつもの侍女が入ってくる。

トマスは身体を起こしながら、時計を見る。


六時半。


最初の朝は、侍女が来る時間まで手帳に書いていた。

返事一つするのにも、これで合っているのかと慌てていた。


今はもう、何も見なくても分かる。


「お身体はいかがですか?」

「もう大丈夫。」

「それはようございました。」


侍女がほっとしたように微笑む。


「本日のお支度はいかがいたしましょう?」

「あ……。」


トマスは少し考えた。

筋肉痛ということにして、この二日間は着替えまで手伝ってもらっていた。


「今日は……自分で大丈夫。」

「かしこまりました。」


侍女は頷く。


「あ、でも。」

「はい?」

「髪は……お願いしてもいい?」

「もちろんでございます。」


侍女が嬉しそうに微笑んだ。


「……。」


その顔を見て、トマスも少しだけ笑った。

洗顔と着替えを済ませ、鏡台の前へ座る。

侍女が後ろに立ち、髪を梳かしていく。

さらさらと長い髪が肩へ落ちる。

最初は髪を触られるだけでも妙に緊張したのに、今はもう、じっと座っていられる。


「お嬢様。」

「ん?」

「本日も前髪はお留めいたしますか?」

「あ……。」


トマスは鏡を見る。


梳かされた前髪が、いつものように目元へ落ちている。


「……うん。」


少しだけ考えて頷いた。


「今日も、お願い。」

「かしこまりました。」


侍女が小さな髪留めを取り出す。

前髪を横へ流し、軽く留めると視界が開けた。


「……。」


やっぱり、こっちの方が楽だ。


「いかがでしょう?」

「うん。ありがとう。」

「とてもよくお似合いでございますよ。」

「……そうかな。」


トマスは鏡の中のエマを見る。


顔立ちは何も変わっていない。

肌だって、相変わらず少し荒れている。

でも、最初にこの身体になった時とは、なんとなく印象が違って見えた。


前髪のせいなのか。

姿勢のせいなのか。


それとも、三日間ずっと見ていたから、単に見慣れただけなのか、正直よく分からない。


「……。」


トマスは鏡を見ながら、ふと思った。

この鏡にエマさんの顔が映るのも、あと数時間だ。


「……お嬢様?」

「あ、何でもない。」


トマスは立ち上がった。


「ありがとう。」

「いえ。」


侍女はいつもと同じように微笑んだ。



食堂へ入ると、いつもの朝食が用意されていた。


パン。

紅茶。

そして。


「……。」


トマスは何も考えず、苺ジャムへ手を伸ばした。

蓋を開け、パンへ塗る。

一口食べてから、ふと手が止まる。


「……。」


三日前。


——パン。

——紅茶。

——苺ジャム。


全部、手帳へ書いた。

いつものエマさんを演じるために。

忘れないように。

間違えないように。


それなのに今は、何も考えず苺ジャムを取った。


「……慣れたな。」


小さく呟いた。

たった三日なのに、この家での朝にも、侍女にも、そしてこの身体にも。


トマスはもう一口、パンを食べる。

苺ジャムの味がする。


「……。」


明日の朝には、もうここで朝食を食べることもない。

当たり前のことなのに、そう考えると少しだけ変な感じがした。


トマスは紅茶を一口飲んだ。



朝食を終え、玄関へ向かうと侍女が鞄を渡してくれた。


「お気を付けて、いってらっしゃいませ。」

「うん。」


トマスは鞄を受け取る。


「行ってきます。」


そう言って外へ出る。

いつも通り馬車へ乗り込んだ。


扉が閉まり、ゆっくりと屋敷が遠ざかっていく。


「……。」


トマスは窓からカーター男爵家を眺めた。

三日前まで、一度も入ったことのなかった家。

それなのに今は、あの扉の向こうに何があるのか知っている。


エマさんの部屋がどこにあるのか。

朝食には何が出るのか。

侍女がどんなふうに髪を梳かすのか。

どんな顔で笑うのか、知っている。


「……変なの。」


トマスは小さく呟いた。

馬車はそのまま、学園へ向かって走り出した。



同じ頃、ベネット男爵家でも、エマが目を覚ましていた。


「……。」


目を開ける。

もう見慣れた天井。


「……朝ね。」


身体を起こす。


大きな手に長い腕。

最初は動かすたびに奇妙だった身体も、今では少しだけ扱い方が分かる。


ベッドから降り、制服へ着替える。


シャツを着て、釦を留めて、上着を羽織る。

鏡の前へ立ち、襟元を整えた。


「……。」


鏡の中にはトマスさんがいる。

エマは背筋を伸ばすと顎を少し引いて、肩の力を抜く。

いつの間にか、そうするようになっていた。


「……よし。」


鏡の中のトマスさんも、同じようにこちらを見ている。最初に見た時より、少しだけこの顔にも慣れた。


いや、顔だけではない。

大きな手にも高い視線にも、歩幅にも。


「……。」


今日の昼には、もうこの顔が鏡に映ることもない。

エマは少しだけ鏡を見つめたあと、部屋を出た。



食堂へ入る。


「おはよう、トマス!」


すぐに次兄の声が飛んできた。


「おはよう。」


もう間違えない。


長兄も新聞から少しだけ顔を上げる。


「おはよう。」

「うん。」


エマは席へ座った。


目の前にはパンとスープと卵…そして、豆。


「……。」


もうカンペを思い出す必要もない。

自然に豆を避けて食べ始める。


すると。


「トマス。」

「ん?」


次兄がこちらを見ている。


「それ、いらないだろ?」


豆を指差している。


「……うん。」

「もらうぞ。」

「どうぞ。」


皿を少し寄せると、次兄は当然のように豆を自分の皿へ移した。


「お前ほんと食わないよな。」

「……。」


三日前にも、同じようなことを言われた。

あの時は、


——豆×


と書いたカンペを思い出しながら、必死にトマスさんらしくしようとしていた。


今はもう。


「……嫌いだから。」


普通に答えていた。


「知ってるよ。」


次兄が笑う。


「だから俺が食ってやってんだろ。」

「……ありがとう。」

「おう。」


なんでもない会話だった。

エマはスープを口へ運ぼうとして。


「あ。」


湯気を見て止まる。

ふう、ふう、と息を吹きかける。


——猫舌。


これも、もう覚えている。


「……。」


エマは少しだけ笑った。


「どうした?」


次兄が尋ねる。


「え?」

「今笑っただろ。」

「……別に。」

「なんだよ、気になるな。」

「何でもない。」

「食事中だぞ。」


長兄が新聞越しに言う。


「はいはい。」


次兄は肩をすくめ、また食事へ戻った。


「……。」


エマは二人を見る。


最初は、少し怖かった。

トマスさんより何でも出来る兄たち。

父親からいつも比べられている相手。

そう聞いていたからトマスさんを馬鹿にしているのだと思っていた。


でも、次兄はトマスの嫌いな豆を食べてくれるし、長兄はトマスの怪我を心配してくれる。

疲れていれば、無理をするなとも言ってくれる。


「……。」


それも今日の昼までだ。

エマは何も言わず、もう一度スープへ息を吹きかけた。



朝食が終わるとエマは鞄を持ち、玄関へ向かった。


「トマス!」


後ろから声が飛んでくる。

振り返ると、次兄だった。


「何?」

「腕、まだ痛いなら無理すんなよ。」

「あ……。」


昨日の試合のことだ。

エマは腕を軽く動かしてみる。


「昨日よりは大丈夫。」

「そっか。」


次兄は頷く。


「治ったら俺ともやろうぜ。」

「……。」


エマは一瞬だけ黙った。


「……うん。」


それだけ答える。


「じゃあな。」

「うん。」


次兄はさっさと食堂へ戻っていった。


「……。」


エマはその背中を見送る。


——治ったら。


その頃、この身体にいるのはもう自分ではない。


「……。」


少しだけ不思議な気持ちになった。

それから玄関の扉へ手を掛ける。


「行ってきます。」


屋敷の中へ声を掛ける。


「行ってらっしゃい。」


返事が聞こえた。


エマは扉を開ける。

朝の空気が頬へ触れた。


「……。」


外へ出て、扉を閉める。

いつもの道だ。

もう学園までの道順も覚えている。

最初の日は、トマスさんの歩幅が分からなかった。

身長が高い分脚がエマよりも長くて、いつもの感覚で歩くと妙に速くなった。


今では、それにも少し慣れた。

エマは歩き出す。


一歩、また一歩。

パン屋の前を通り、次の角を曲がる。


三日前まで知らなかった道。

それが今では、どこを曲がればいいのか考えなくても歩ける。


「……。」


エマは少しだけ顔を上げた。


同じ頃、トマスもまた、馬車の中から流れていく景色を眺めていた。


昼休みになれば、三日が経つ。

その時、本当に元へ戻れるのかはまだ分からない。


二人はそれぞれ、相手の身体のまま学園へ向かっていた。


この姿で迎える、最後の朝だった。

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