15.明日には戻る
午後の授業が始まる少し前。
エマはグラウンドへ向かいながら、朝に声を掛けてきた男子生徒の言葉を思い出していた。
——人数に入れてるからな。
(どうしよう)
昨日一度試合に出ただけなのに、今日は最初から参加するものとして数えられている。
それは少し嬉しいような、不思議なような気持ちだった。でも
(……どうしよう)
エマは歩きながら、自分の腕をそっと動かした。
「……痛い。」
昨日の試合のせいで、まだ筋肉痛が残っている。
もちろん、動けないほどではないので今日も参加しようと思えば参加できるだろう。
でも昨日は、トマスさんが元の身体に戻ったあと「やっぱりトマスだ」と言われてしまうのが嫌で、試合に出た。
でも仮に今日も出て、明日も出て。
…もしそれが当たり前になってしまったら。
(戻ったあと、トマスさんが困るかもしれない。)
自分はあと一日でこの身体からいなくなる。
この身体でこれからも生きるのは自分の人生ではなく、三日間だけ預かっている、トマスさんの人生なのだ。
そう考えると、勝手に何かを変えてしまうのが急に怖くなった。
「おーい、トマス!」
声が飛んでくる。
「!」
振り向くと、男子生徒が木剣を持ってこちらへ手を振っていた。
「こっちだ!もう分けるぞ!」
「あ……。」
エマは少し迷ってから、そちらへ歩いていく。
「ほら、今日は昨日より動けよ。」
木剣を差し出される。
「……。」
受け取ろうとしてエマは手を止めた。
「あの……。」
「ん?」
「今日は……見学でもいい?」
「え?」
やっぱり変だろうか。
昨日は出ると言ったのに、今日は出ない。
せっかく人数に入れてもらったのに。
「昨日の試合で、その……まだ身体が少し痛くて。」
「なんだ、どっか痛めたのか?」
「……うん。」
男子生徒はあっさり木剣を引っ込めた。
「じゃあ今日はそこの日陰で見学しとけよ!」
「……え?」
「無理して更に痛めたら次も出れないだろ。」
「人数はこっちで調整するから気にすんな!」
そう言うと、男子生徒はさっさと他の生徒のところへ行ってしまった。
(……怒られなかった。)
——昨日は出たくせに。
——やっぱり逃げるんだな。
そんな言葉を言われると思っていたのに、言われた言葉は
——じゃあ今日は見学しとけよ!
それだけだった。
「……。」
エマは少し不思議な気持ちのまま、グラウンドの端へ移動した。すぐに試合が始まる。
「右!右!」
「そっち行け!」
「うわっ!」
「お前何やってんだよ!」
いつものように男子たちは騒がしい。
そのうち一人がこちらを見た。
「トマス!」
「えっ。」
「治ったら次どこ入るか考えとけよ!」
「……。」
エマは少し遅れて頷いた。
「……うん。」
休んで見学してるだけなのに、まだ次があることになっている。
(……不思議。)
エマは膝の上に手を置いたまま、試合を眺めた。
⸻
一方、その日の放課後。
トマスは鞄へ教科書をしまっていた。
今日は朝から、いつもより人と話した。
と言っても、大したことはしていない。
課題の途中式を見せたり、授業の話をしたり。
あとはみんなで少し笑ったり…それくらいだ。
「エマ。」
「えっ。」
顔を上げると、朝、課題の話をした少女が立っていた。
「これから図書室行くんだけど。」
「……うん。」
「エマも来る?」
「……え?」
トマスは固まった。
「三人で課題の続きやろうって話してて。」
「……。」
誘われた。
(どうしよう。)
行ってみたい気持ちは、少しあった。
今日、三人で話していた時間は思っていたより楽だった。
ずっと会話を続けなければならないわけでもなく、分からないところを一緒に考えただけだ。
それなら図書室へ行っても、案外大丈夫かもしれない。
けれど。
(……待てよ。)
トマスは思い直す。
今ここで一緒に行って、明日も誘われて。
その次も誘われるようになったら。
三日後、この身体へ戻るのは自分ではない。
(…エマさん、もしかしたら困るかもしれない。)
エマさんは一人の方が楽だと言っていた。
それなのに自分が勝手に交友関係を変えてしまうのは、違う気がする。
「あの……。」
「うん?」
「今日は…早く帰らなきゃいけないから…やめとく。」
言ってから、少し緊張した。
せっかく誘ってくれたのに。
断ったら嫌な顔をされるだろうか。
もう誘われなくなるだろうか。
考えると胸がバクバクうるさくなってきた。だが
「そっか。」
少女はあっさり頷いた。
「じゃあ、また今度ね。」
「……え?」
「ん?」
「あ……いや。」
「じゃーね。」
少女は手を振り、もう一人の少女と教室を出ていった。
「……。」
トマスはしばらく、その背中を見る。
(……また今度ね。)
断ったのに別に怒っていなかった。
がっかりした様子もなかった。
ただ今日は来ない、それだけのことみたいだった。
「……。」
トマスは鞄を持ち上げる。
なんだか、よく分からない。
昨日まで自分が思っていたよりも、人との関係というのは簡単には決まらないものなのかもしれない。
……いや、それもまだ、よく分からない。
「……帰ろ。」
トマスは小さく呟き、教室を出た。
⸻
その夜、トマスは机に向かい、いつもの報告用ノートを開いていた。
ペンを持ち、今日あったことを順番に書いていく。
——今日、クラスの女の子二人と課題の話をしました。
——放課後、図書室へ誘われました。
そこでペンが止まった。
「……。」
これは書いておいた方がいいだろう。
——エマさんが戻ったあとに困るかもしれないと思って、今日は断りました。
——特に嫌な顔はされませんでした。
——「またね」と言われました。
「……。」
トマスは最後の一文を見つめた。
またね…つまり、また誘うつもりなのだろうか。
「……不思議だな。」
小さく呟いたあと、今朝のことも思い出した。
——前髪は、今日一日中留めていました。
——やっぱり、留めている方が楽でした。
そこまで書いてトマスは少し迷った。
——エマさんも、戻ったら
「……。」
ペンが止まる。
その先に何を書こうとしたのか、自分でも分かっていた。
前髪を留めてみたらいいんじゃないか。
顔を上げてみたらいいんじゃないか。
今日みたいに、あの子たちと話してみたらいいんじゃないか。
でも。
「……違うよな。」
トマスは書きかけた文字を消した。
それを決めるのは、エマさんだ。
自分だって、エマさんが試合に出てくれたからといって、
——これから毎回出ればいい。
と言われたら困ってしまうだろう。
出来るかどうかも分からないのに。
「……。」
トマスはノートへ視線を戻し、代わりに一行だけ付け加えた。
——僕は、楽でした。
それでいい。
どうするかは、エマさんが決めればいい。
⸻
同じ頃エマもまた、机へ向かっていた。
——今日の試合は見学しました。
そこまで書いて、一度ペンを止める。
——昨日の試合で身体が痛かったので、そう伝えました。
—— 「じゃあ今日はそこの日陰で見学しとけよ!」と言われました。
——「無理して更に痛めたら次も出れないだろ。」とも言われました。
「……。」
次、というその言葉が妙に気になった。
今日休んでも、次がある。
昨日一度出ただけなのに。
「……。」
エマはその下へ書き加える。
——休んでも、特に何も言われませんでした。
——トマスさんも、戻ったあと
そこで、手が止まった。
「……。」
エマは書きかけた文字を見る。
戻ったあとも、試合に出てみたら…そう書こうとしていた。けれど。
(……それは、トマスさんが決めることよね。)
自分だって、トマスさんに、
——前髪を留めた方がいい。
——もっと人と話した方がいい。
そう言われたら。
「……。」
想像する。
前髪を留めて教室へ入る自分。
顔が見える。誰かと目が合う。
話しかけられる。
「…………。」
エマはそっと手元を見た。
(……できるかしら。)
今の自分には、まだ分からない。
だったらトマスさんだってきっと同じだ。
エマは書きかけた文字を消した。
代わりに。
——私は、出てみてよかったと思っています。
そう書いた。それで十分だと思った。
⸻
エマはノートを閉じようとして、ふと手を止めた。
机の上に置かれた時計を見る。
「……。」
明日の昼。
あの校舎裏で入れ替わってから、ちょうど三日が経つ。つまり、あと半日ほどで、この身体ともお別れだ。
エマはゆっくり立ち上がり、鏡の前へ行った。
そこにはもう見慣れてきたトマスさんの顔がある。
「……。」
最初は、本当に怖かった。
どうしよう?どうすればいい?
早く戻りたい。
…そればかり考えていた。
「……明日か。」
小さく呟く。
もちろん、戻りたい。
自分の身体へ戻りたいし、自分の家へ帰りたい。
ただ。
エマは鏡の中のトマスを、少しだけ不思議な気持ちで見つめた。
明日の昼には、もうこの顔を鏡で見ることもない。
⸻
カーター男爵家でも。
トマスはノートを閉じたあと、鏡の前に立っていた。
長い前髪は、もう下ろしている。
髪留めを外すと、すぐに目元へ髪が落ちてきた。
「……。」
トマスは指で横へ避ける。
そして、鏡の中のエマを見る。
「明日の昼までか……。」
三日前この身体になった瞬間は、青ざめた。
三日なんて長すぎると思った。
けれど。
「……。」
トマスはもう一度、前髪を横へ避ける。
明日の昼には、この身体はエマさんへ返す。
自分も、自分の身体へ戻る。
それが当然だし安心できる。
そのはずなのに。
「……なんか。」
少しだけ、変な感じがした。
トマスはうまく言葉にできないまま、鏡から離れた。
明日の昼には、三日が経つ。
二人が相手の姿で眠る夜はこれが最後だった。




