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12/21

12.2日目の帰宅

昼休みを終え、その日の授業もすべて終わった。


帰りの馬車に乗り込んだトマスは、窓の外を眺めながら小さく息を吐いた。


(…今日もなんとか終わった。)


昨日よりは少しだけ慣れた気がする。

とはいえ朝は侍女への返事一つで慌てたし、教室ではエマの教科書を落とした少女に言い返してしまった。

それでも…


(エマさん、喜んでくれたな…。)


——すごいです、トマスさん。


昼休みに言われた言葉を思い出す。


「……。」


なんだか落ち着かなくなって、トマスは窓の外へ視線を逸らした。

自分では、すごいことをしたとは思えない。

というよりただただ怖かった。

怖かったし逃げたかったし、スマートでカッコよくなんてものとは真逆の不恰好な態度だったと自分でも思う。


それでもエマさんは自分にはできなかったと言った。

そして自分も、エマさんが試合に出たと聞いて同じことを思った。


(エマさん、すごいよな……。)


怖かったはずなのに、自分のために、試合に出てくれた。

そんなことを考えているうちに、馬車はカーター男爵家へ到着した。


「お帰りなさいませ、お嬢様。」


門番に声を掛けられる。


「……ただいま。」


軽く頷く。

昨日よりは自然にできた気がする。


屋敷へ入ると、すぐに侍女がやって来た。


「お帰りなさいませ、お嬢様。」

「ただいま。」

「本日はいかがでしたか?」

「あ……。」


昨日なら、ここで何と答えればいいのか分からず固まっていただろう。


「少し……疲れたかな。」


侍女が微笑む。


「では、お部屋で少しお休みになられますか?」

「うん。」

「お着替えはいかがいたしましょう。」


トマスは一瞬迷った。

筋肉痛ということにして、昨日からずっと任せている。


「……今日も、お願いしていい?」

「もちろんでございます。」


やはり、嬉しそうだった。


トマスはその顔を見ながら、昼休みにエマへ話したことを思い出す。


——手伝えるのが嬉しいって言ってた。


エマさんは驚いていた。


(本当に、知らなかったんだな。)


部屋へ戻り、侍女に着替えを手伝ってもらう。

昨日は、とにかくエマさんの身体を見ないようにすることで必死だった。

もちろん今日もなるべく見ないようにはしている。

けれど昨日より少しだけ、周囲を見る余裕があった。


「お嬢様、明日はどちらになさいますか?」

「え?」


侍女が二つの髪飾りを手にしていた。


「こちらと、こちらです。」

「……。」


困った。

そんなこと、カンペには書いていない。


「いつもの…は…」

「いつもの、でございますか?」

「あっ…ええと、」


まずい。

トマスが焦っていると、侍女は少し考えてから、片方を持ち上げた。


「お嬢様はこちらの方がお好きですね。」

「そう…だったかしら」

「どちらかと申しますと、青い石の方はあまりお選びになりませんので。」

「……。」


トマスは二つを見比べた。


「じゃあ……そっちで。」

「かしこまりました。」


侍女は嬉しそうに作業をしていた。

そしてそのあとも


「香油はいつものものでよろしいですか?」

「え、ええ…いつもので。」

「明日は少し冷えるそうですから、上着はこちらの方がよろしいかと…いかがなさいますか?」

「ええ、お願い。」

「朝食の苺ジャムが少なくなっておりますので、新しいものを用意しておきますね。」

「あ……ありがとう。」


一つ一つは、本当に些細なことだったが、


(……この人。)


トマスは侍女を見る。


(エマさんのこと、すごくよく見てるし知ってるんだな。)


好きな髪飾り。

使っている香油。

寒い日の上着。

朝食で食べる苺ジャム。


毎日一緒にいるのだから、当たり前なのかもしれない、それでも。


——こんな身体を、人に見られたくなくて。


そう言っていたエマを思い出す。

自分の身体を見られたくないし世話をさせるのも申し訳ない…そう思って、一人で済ませていた。

けれど侍女は


「お嬢様。」

「ん?」

「明日には、お身体の痛みも少し良くなっているといいですね。」


心配そうに言った。


「……うん。」


少なくとも嫌々世話をしているようには、どうしても見えなかった。


———


支度が終わり、一人になる。

トマスは鏡の前に立った。


「……。」


鏡の中にいるのは、当然エマだ。


長い前髪に少し荒れた肌。

女性らしい丸みの少ない華奢な身体。


今朝も思った。

確かに綺麗な顔立ちとは言えない。

けれど


(エマさんって、普段どんなふうに立ってたっけ。)


同じクラスなのだから何度も見ているはずだ。

トマスは少し考え、肩を内側へ入れてみる。

それから顔を俯けると長い前髪の奥から鏡を見る。


「……こんな感じ?」


なんだかよく分からない。

もう少し俯いていたような気もする。

けれど、やればやるほど不自然な気がしてきた。


「……分からないや。」


トマスは姿勢を戻す。

背筋を伸ばし、普通に鏡の前へ立った。


「……。」


エマらしく見えるかどうかは分からない。

ただ、こっちの方が自然に感じた。

変に真似をしておかしくなるくらいなら、普通にしていた方がいいだろう。


トマスはそう結論づけ、鏡から離れた。


———


その頃エマも、ベネット男爵家の食堂で、いつもより少しだけ緊張しながら夕食を食べていた。


昨日よりは慣れた。

次兄がよく喋ることにも、長兄が時々話しかけてくることにも。

そして豆を避けていれば次兄が勝手に持っていくことにも。


「そういやトマス。」


次兄がパンをちぎりながら言った。


「今日、剣術だっただろ?」

「……!」


エマの手が止まった。


「は、はい。」

「どうだった?」

「……。」


どう答えるべきだろう。

試合に出たことは、言っていいのだろうか。

けれど明日、どこかから兄たちの耳へ入る可能性もある。


「……試合に。」

「ん?」

「…出ました。」

「…………。」


次兄の手が止まった。

長兄も顔を上げる。


「……え?」

「……。」


エマは急に不安になった。


(やっぱり、何かまずかった?)


「試合に…その…出ました。」


もう一度言う。


「お前が?」

「……はい。」

「自分から?」

「……はい。」


正確には自分からと言っていいのか分からないが、最終的に出ると言ったのは自分だ。

次兄はしばらくぽかんとしていたが。


「へえ!」


急に笑った。


「やるじゃん!」

「……え?」

「で、どうだった?」

「……全然…だめで…その、……負けました。」

「ははは!」


笑われた。

エマはびくりとする。


「でも出たんだろ?」

「……はい。」

「じゃあ次は勝てばいい。」


あまりにも簡単に言われて、エマは何も返せなかった。


長兄も静かに頷く。


「怪我はしていないか?」

「少し……身体が痛いくらいです。」

「なら今日は早く休め。」

「……はい。」


それだけだった。

誰も、何を余計なことをしたんだとは言わなかった。

それどころか次兄はむしろ機嫌が良さそうに、


「今度俺ともやろうぜ。」


などと言っている。


「……。」


エマは黙ってスープを口へ運んだ。


(トマスさん。)


昼休み、彼は言っていた。


——僕は、勇気が出なくて……無理だった。


兄たちと自分は違う。

輪の中へ入れる気がしない。

そんなことも言っていたが…


(お兄様たちは……。)


少なくとも、トマスが試合に出たことを、こんなにも嬉しそうに聞く人たちだった。


(…明日、教えてあげなくては)


———


夕食を終え、自室へ戻るとエマは扉を閉め、小さく息を吐いた。


「……今日も、なんとか終わった。」


ふと鏡が目に入る。

そこにはトマスが立っていた。


「……。」


エマは鏡の前へ移動した。

明日も、この姿で過ごさなければならない。


(トマスさんって……普段、どんなふうに立っていたかしら。)


思い出してみる。


少し猫背で肩も、どこか内側へ入っていて。

いつも少し俯いていたような。


エマは試しに、その姿勢を取ってみた。


「……。」


鏡を見る。


「……こう?」


違う気がする。

もう少し肩を内側へ入れる。


「……。」


分からない。

そもそも普段から、トマスをそんなにじっくり見ていたわけではない。


「……変に真似をする方が、おかしいわよね。」


エマは姿勢を戻した。

背筋を伸ばして顎を少し引く。


鏡の中のトマスも、同じようにこちらを見る。


「……これでいいか。」


少なくとも、失礼には見えないだろう。

エマはそう結論づけた。


———


その夜、離れた二つの屋敷で二人はまた、それぞれの報告用のノートを開いていた。


トマスは少し考えてから書く。


——侍女さんは、エマさんのことをとてもよく見ています。

——好きな髪飾りも、香油も、上着も、苺ジャムのことも知っていました。


そこまで書くと、少し迷ってもう一行追加した。


——エマさんが思っているより、エマさんのお世話をすることが好きなんじゃないかと思います。


一方のエマもペンを走らせていた。


——お兄様たちに、試合へ出たことを話しました。


少し考える。


——次兄さんは「やるじゃん」と言っていました。

——長兄さんは、怪我をしていないか心配していました。


そして最後に。


——お二人とも、嬉しそうに見えました。


書き終えたエマは、しばらくその一文を見る。


トマスもまた、自分が書いた文章を眺めていた。


自分の家のことや自分の周りにいる人たちのこと。

毎日見ていたはずなのに、他人の目を通して初めて知ることが、思っていたよりもたくさんあった。


二人はそれぞれノートを閉じた。

明日になれば、また、このことを相手に伝えられる。

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