閑話【下】 倒れるおひさま、亜麻色の大騒ぎ
深い夜の帳が店を包み込む頃、私の意識はゆっくりと闇の底から浮き上がってきた。あんなに重かった頭が、驚くほど軽い。王宮のあの怪しい紫色のお薬……劇的に効いたみたい。
「……ん」
寝返りを打とうとして、何かが右手に触れた。ごつごつとした、でも温かくて大きな手。私の小さな手を包み込むようにして、ぎゅっと握りしめているその主は、ベッドの脇の椅子に座ったまま、不自然な体勢で眠りこけていた。
「アルベルト、さん……」
ランプの微かなオレンジ色の光が、キラキラと彼の美しい亜麻色の髪を柔らかく照らしている。 王宮の騎士たちが撤退し、王妃様も「あとは若い二人に任せるわ」と夜になる前に城へ戻られたというのに、彼は約束通り、一歩もこの部屋から動かずに私の手を握り続けてくれていたのだ。
よく見れば、完璧なはずの彼のシャツは、昼間のバケツとの格闘のせいでシワだらけ。髪にはまだ、看病の途中でついたらしい小さな小麦粉の粉が白く残っている。王子様なのに、全然キラキラしていない。泥だらけになってトマトを食べたあの日みたいに、ただひたすらに、愛おしい一人の青年がそこにいた。
私が指先をほんの少し動かすと、アルベルトさんの長い睫毛がピクリと跳ねた。
「……っ、リナ!?気分はどうか、どこか痛むか!?」
飛び起きた彼のブルーグレーの瞳が、一瞬で私を捉える。その目には、まだ消えきらない焦燥と、私を心配するあまりの深い隈が浮かんでいた。
「ふふ、大丈夫です。アルベルトさん。お熱、もう下がりました」
私はベッドから起き上がり、空いた左手で自分の額に触れて見せた。アルベルトさんはまだ信じられないといった様子で、おそるおそる、自分の大きな手を私の額へと伸ばしてきた。
ひんやりとした彼のひらから、心地よい温度が伝わってくる。
「……本当だ。熱が引いている」
「ね?だから言ったじゃないですか、ただの風邪だって。王宮の先生まで連れてくるから、びっくりしちゃいましたよ」
私がいたずらっぽく笑うと、アルベルトさんはハッと我に返ったように手を引っ込め、途端に耳の端を真っ赤に染めてフイと視線を逸らした。いつもの「不器用モード」の到来だ。
「……仕方がなかろう。私は、君の煙突から湯気が上がっていないのを見た瞬間、頭の中が真っ白になったのだ。君のいない世界は、ひどく寒くて、暗い……。そんな場所に、一秒たりとも君を置いておきたくなかった」
ぽつりと漏らした彼の本音。その言葉が、私の胸の奥をぎゅっと掴んで、熱を帯びさせていく。風邪の熱なんかより、ずっと甘くて、熱い。
「アルベルトさん……」
「市場査察官として、店主の健康管理を怠ったのは私の落ち度だ。だから……これからは、もっと近くで、君を監視……いや、守らせてほしい」
彼はそう言うと、今度は逃げずに、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。湖のような瞳が、ランプの光を反射してキラキラと揺れている。不器用なくせに、こういう時だけずるいほど格好いいのだからタチが悪い。
「……はい。これからも、一番近くで査察してくださいね」
私が微笑むと、アルベルトさんは張り詰めていた緊張が一気に解けたのか、ふっと子供のように無防備な笑顔を浮かべた。
* * *
翌朝。まだ星が眠たそうに瞬く時刻。私はいつものように厨房に立ち、石造りのオーブンに火を灯していた。
――シュッ、ボッ……
マッチの火が薪に燃え移り、オレンジ色の光が厨房を躍り出る。冷え切っていた空気が、生き物の体温のような熱を帯びていく。 作業台に広げた真っ白な小麦粉。そこへ、黄金色の卵とバターを混ぜ込んでいく。
――トントン、ギュッ、ギュッ……
「リナ。生地の弾力は問題ないか?炭の量はこれで足りているだろうか」
私のすぐ隣で、エプロンをきゅっと結んだアルベルトさんが、真剣な顔でオーブンの様子を覗き込んでいた。昨日の今日だからと、なんと彼は朝の仕込みの手伝いを買って出てくれたのだ。
「問題ありません、完璧です!アルベルトさん、火を見るのが上手になりましたね」
「ふむ。現場を知るのも査察官の務めだからな」
ふふ、と二人で笑い合う。 やがて、オーブンの小窓から香ばしい匂いが溢れ出してきた。甘く、どこか懐かしい、あのアロマ。パチパチ、と『天使の拍手』が響き渡る。
焼き上がった『おひさまパン』をカウンターに並べると、窓から差し込み始めた最初の一筋の光がそれを照らし出した。立ち上る真っ白な湯気が、光の粒子を巻き込んでキラキラと空中に舞い踊る。
「カランカラン!」
小気味よいベルの音とともに、お店のドアが開いた。
「お姉ちゃん、復活おめでとー!って、うわあ、王子様がエプロン着てパン並べてる!」
一番乗りでやってきたナナが、またニヤニヤと意地悪そうに笑う。
「こら、ナナ、王子様じゃなくて臨時の助手さんよ!」
私が赤くなって言い返すと、アルベルトさんは誇らしげに胸を張った。
「失礼な。今日の『おひさまパン』は、私の看病の成果も詰まっている。いつも以上に極上の出来だぞ」
「へぇー、ごちそうさま!」
ナナはクスクス笑いながらパンを受け取り、風のように去っていった。 開け放たれた扉から、心地よい朝の風が吹き込んでくる。
ふと見れば、お店の入り口の看板が、また風で少しだけ傾いていた。
「あ、またネジが……」
「任せておけ」
アルベルトさんはそう言って、眩しい朝光の中へと飛び出していった。高い背中。すらりと伸びた長い腕。朝の光を透かして銀色にも金色にも見える、あの美しい亜麻色の髪をキラキラと揺らしながら、彼は迷いなく看板を完璧な角度で固定した。
――カチッ
心地よい金属音が響く。彼は振り返り、私に向かって右手をひらりと、一度だけ高く上げてみせた。
あの日、私の小さな世界に飛び込んできたキラキラした王子様。不器用で、過保護で、王宮を巻き込んで大騒ぎしちゃうような彼だけど、その大きな手の温もりがあるから、私は今日も、世界で一番温かいパンを焼くことができるのだ。
まばゆい『おひさま』が、私たちのこれからの毎日を、どこまでもキラキラと照らし続けていた。
【完】
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最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
一旦リナとアルベルトのお話は完結となります!
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