第31話 届いた絵葉書
夜明け前の下町は、まだ深い濃紺の静寂の中に沈んでいる。石畳の路地に冷やりとした朝気が立ち込め、街灯のランプがポツリポツリと、まどろむ街を橙色に照らしていた。
シュッ、と小さな擦過音が響く。『おひさまベーカリー』の厨房の奥、巨大な石窯の暗がりの中で、一本のマッチの火が揺れた。薪に火が移り、橙色の熱気がゆっくりと部屋を満たしていく。冷え切っていた空気が、まるで生き物が息を吹き返すように温もりを帯びていく瞬間。私はこの、世界が目を覚ます前の小さなキラキラの時間がたまらなく好きだった。
「よし……今日も最高のパンを焼くぞー!」
両頬をパンッ!と叩き、気合を入れる。 エプロンの紐をきゅっと結び直し、作業台の上に真っ白な小麦粉の山を作った。絹のように滑らかな粉の感触を確かめ、黄金色のバターと酵母、そして澄んだ水を加えていく。
トントン、ギュッ、ギュッ……
甘く香ばしい匂いが立ち上り、私の胸はいつだって小さな幸福感で満たされるのだ。
やがて、東の空がゆっくりと白み始め、下町の煙突から白い湯気が立ち上り始める頃。 「カランカラン!」と、お店のドアに取り付けられた真鍮のベルが涼やかな音を立てた。
「おはようございます、師匠!」
「おはよう、ルカ。今日も元気ね」
勢いよく扉を開けて入ってきたのは、私の弟子(押しかけてきたのだが)であり、愛しい妹分でもある少女のルカだった。
「うわあ、今日もすっごく滑らか!」
栗色の髪を後ろで一つに結び、くりっくりした大きな瞳を輝かせながら、仕込み終わったばかりの生地を見つめて声を弾ませる。彼女が押しかけ弟子入りしてから、私のパン作りはもっと楽しく、もっとキラキラした時間になった。
「あ、そうだ師匠!ポストに王宮の郵便配達員さんが手紙を届けてましたよ。すごく変わった、甘い香りのする紙なんです!」
ルカが小さな手から差し出してきたのは、上質な厚手の紙で作られた一通の封筒だった。 封を止めているのは、深い朱色の蝋。そこには見たこともない繊細な花の紋様が刻まれていた。差出人の名前を目にした瞬間、私の心臓が小さく跳ねる。
「……シオンさんから……?」
シオンさん。王宮のパンコンテストの際にお世話になった、強い言葉の裏に優しさが見える素敵な女性で、その圧倒的で独創的なスパイスパンを焼いていた人。遠い東方の国からやってきた麗しいお姉様だ。私は胸の高鳴りを抑えながら、丁寧にペーパーナイフで封を切った。
ふわり、と手紙の隙間から溢れ出したのは、甘く上品で、どこか懐かしいような香木の香り。中に包まれていたのは、一折の美しい手紙と――一枚の絵だった。
「うわぁ……!なにこれ、すっごく綺麗……!」
私の肩越しに覗き込んだルカが、思わず息を呑んだ。そこに描かれていたのは、私たちの暮らす王国とは全く異なる、幻想的な異国の風景だった。
重厚な漆黒の瓦屋根が連なる街並み。透き通った水路の上には、ゆるやかな弧を描く朱塗りの太鼓橋が架かっている。橋の向こうには、青々とした竹林が風にそよぎ、見たこともない繊細な桃色の花びらが、まるで雪のように美しく舞い散っていた。静けさと、華やかさと、どこか儚ない風情が同居した、息を呑むほどに美しい東方の景色。
私たちが一枚の絵に見惚れていると、手紙の最後に添えられた、しなやかで美しい文字が目に飛び込んできた。
『親愛なるリナへ。コンテスト特別賞、改めておめでとう。私の故郷にも、あなたに見せたい美しい景色と、まだ見ぬ不思議な食材がたくさんあります。いつの日か再会できることを願っています。 ――待ってるよ』
「……待ってるよ……」
その言葉を声に出して呟いた瞬間、私の胸の奥で、ぽっと小さな灯火が点ったような気がした。見たこともない東方の景色。見たこともない食材。シオンさんが微笑みながら手を差し伸べてくれている姿が、脳裏にハッキリと浮かび上がる。
(東方の食材……!一体どんな味がするんだろう。どんな匂いがして、どんなパンが焼けるんだろう……!)
パン職人としての血が、ドクドクと音を立てて激しく騒ぎ出していた。行ってみたい。この目で見て、この手で触れて、その味わいを確かめてみたい。好奇心が爆発しそうになるけれど、私はすぐにチラリとお店のカウンターを見やった。
(でも……お店を空けるわけにはいかないよね。下町の皆の朝ごはんを作らなきゃいけないし……)
キュッと唇を噛み締め、湧き上がる熱量を抑え込もうとしたその時だった。
「師匠、顔に出てますよ」
ルカがクスクスと意地悪そうに笑いながら、私のエプロンの裾を引っ張った。
「えっ!?」
「『行きたくて行きたくてたまらない』って、おでこに書いてあります。シオンさんの国、行ってみたいんですよね?」
「う……そ、それはそうだけど……。でも、私が留守にしたら、お店が回らなくなっちゃうでしょう?ナナちゃんもモリスさんも、毎朝のパンを楽しみにしてくれてるし……」
私が申し訳なさそうに俯くと、ルカは腰に手を当てて、ふふんと誇らしげに小さな胸を張った。
「何を言ってるんですか!私を誰だと思ってるんですか?『おひさまベーカリー』の一番弟子、ルカですよ!師匠が教えてくれたおかげで、基本的なパンならもう一人で焼けますもん。留守の間は、私がしっかりお店を守ります!」
「ルカ……」
「それに、師匠が新しい国の美味しい食材を見つけて帰ってきたら、もっとすごいパンが焼けるようになるんでしょ?街の皆だって、絶対に喜んでくれます!だから……一週間くらい、羽を伸ばして行ってきてください!」
小さな胸を力強く叩く少女の姿に、私の視界が少しだけ潤んだ。バタバタしてるだけのルカが、いつの間にかこんなにも頼もしく成長していたなんて。
「ありがとう、ルカ……!本当に、ありがとう!じゃあ……お言葉に甘えて、一週間だけ東方の国に行ってきてもいいかな!?」
「はい!いってらっしゃいです、師匠!」
よし、決まり。決意を固めた私の心は、もう海を越えた東方の国へと飛んでいきそうだった。
……そう、この時の私は、完全に忘れていたのだ。私が「一週間も遠い東方の国へ旅立つ」と知った時、あの過保護すぎる亜麻色の王子様が、一体どんな反応を示すかということを――。
* * *
「――東方へ行く、だと……!?」
ガタアンッ!!と、激しい音が厨房に響き渡った。 午後、査察という名の「私に会いに来る口実」で店を訪れたアルベルトさんが、勢いよく立ち上がった弾みに椅子を盛大に倒したのだ。
いつもなら、糊の効いた清潔なシャツを完璧に着こなし、湖のように深いブルーグレーの瞳で涼やかに佇んでいる王立市場査察官。けれど今の彼は、まるで「国家崩壊の予兆」でも聞いたかのように顔面を蒼白にさせ、亜麻色の美しい髪を振り乱していた。
「アルベルトさん、落ち着いてください!椅子が倒れてます!」
「落ち着いていられるわけがないだろう!!」
アルベルトさんは私の両肩をガシッと掴むと、必死の形相で顔を近づけてきた。整いすぎた顔が至近距離に迫り、彼の吐息が私の頬をかすめる。
「東方の国『東雲』といえば、海を渡ったさらに先、峻険な山々に囲まれた未知の異国だぞ!?文化も違えば、言語の訛りも激しい。それに……シオン殿の元へ一人で行くだと!?シオン殿はパン職人だが、その実は、女性とはいえ、底知れぬ雰囲気を持った名家の次期当主だ!もし君が何か甘言に惑わされ、あちらの国に永住するなどと言い出したら私は――!」
「永住なんてしませんよ!?たった一週間の食材探しの旅ですってば!」
私は赤くなりながら、必死に彼の腕を叩いた。
相変わらずの過保護メーター爆発である。でも、ここまで本気で心配してくれる姿に、胸の奥がキュンと温かくなってしまうのも確かだった。
「だめだ、認めん!危険すぎる!行くというなら、王室親衛隊を一小隊……いや、一精鋭部隊を護衛につける!船も王室専用の超大型軍艦を手配して――」
「大ごとにするのはやめてください!!」
私は声を振り絞って、大声で突っ込みを入れた。ただのパン屋の娘の旅に、軍艦と親衛隊が出動したら国際問題になってしまう。
「大丈夫ですよ、アルベルトさん。シオンさんからいただいた手紙も絵も、すごく優しさに溢れていました。それに……私、もっと美味しいパンを焼くために、どうしても新しい食材と出会いたいんです」
私が彼の両手を優しく包み込み、真っ直ぐにそのブルーグレーの瞳を見つめると、アルベルトさんはハッと息を呑んだ。
私の本気の熱意を感じ取ったのか、彼は悔しそうに美形な顔を歪め、ぎゅっと唇を噛み締める。
「……君がそうやって、キラキラした目で未来を見つめている時、私が何を言っても無駄なことは分かっている……」
「アルベルトさん……」
「だが……心配なものは心配なのだ。君に万が一のことがあれば、私は……私はどうにかなってしまう……」
ぽつりと漏らされた切なすぎる本音。
アルベルトさんは私の手首をそっと手繰り寄せると、愛おしくてたまらないというように、私の指先にそっと額を押し当てた。伝わってくる彼の体温と、かすかな震え。
「……約束してくれ。絶対に無理はしないと。そして……必ず、私の元へ帰ってくると」
「……はい!約束します。アルベルトさんへのお土産も、たくさん買ってきますね」
私が微笑むと、アルベルトさんはまだ納得いかないような、捨てられた子犬のような目で見つめ返してくるのだった。
こうして、私、下町の小さなパン屋リナの、東方への大冒険が決定した。この時、私はまだ知らなかったのだ。
「一週間も会えない」という絶望に耐えかねた亜麻色の王子様が、この後とんでもない行動に出ることを。
船の汽笛が港に響き渡り、いざ、未知なる和の国『東雲』へ。
風薫る異国での、新しい物語の扉が今、静かに開かれようとしていた。




