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おひさまパンと亜麻色の髪 〜不器用な王子は、パンの湯気に恋をする〜  作者: 初 未来
閑話 陰るおひさま、焦る亜麻色

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閑話【上】 倒れるおひさま、亜麻色の大騒ぎ

 まだ星が眠たそうに瞬く時刻、世界は深い群青色の底に沈んでいる。……いつもなら、ここで私の愛する石造りのオーブンに火を灯し、新雪のような小麦粉を広げて、最高にキラキラした朝を迎えているはずだった。


「うう……あたま、が、割れる……」


 視界がぐにゃりと歪んでいる。作業台の上、いつもなら絹のような音を立てて広がる小麦粉の海のなかに、私は文字通り突っ伏していた。


 おかしいな。昨日の夜、お店を閉めるあたりから、ちょっと体が重いなとは思っていたのだ。でも、レオンからの猛烈なアプローチ、今思い出しても胃がキリキリするドタバタを乗り越えたばかりの私である。


「ただの疲れよね!寝れば治る治る!」


 自分に言い聞かせて布団に入ったものの、目が覚めたら、体の中にオーブンの火をそのまま押し込まれたみたいに熱かった。


 それでも、街の皆の朝ごはんを作らなきゃいけない。私は気合でベッドから這い出し、這うようにして厨房へと辿り着いた。けれど、マッチを擦ろうとした指先が、自分のものじゃないみたいに震えて、言うことを聞いてくれないのだ。


(だめ、しっかりして、私……。おひさまパンを、焼かなきゃ……)


 冷たい木肌の作業台に額を押し付けると、一瞬だけ熱が引くような気がした。そのまま、私は重たいまぶたを閉じてしまう。お店の煙突から、毎朝おなじみの白い湯気が立ち上ることはなかった。


 ――ガタガタガタッ!!


 静まり返った店内に、もの凄い勢いでドアが震える音が響いた。 鍵をかけていなかった裏口から、ドカドカと激しい足音が近付いてくる。


「リナ!?おい、リナ!煙突から煙が上がっていないが、どうしたんだ……っ!」


 朝一番の「市場査察という私に会いに来る口実」でやってきた、亜麻色の髪の王子様――アルベルトさんだった。いつもなら、糊のきいた清潔なシャツをピンと着こなして、湖のように深いブルーグレーの瞳で涼やかに微笑んでいる彼。なのに、厨房に飛び込んできた今の彼は、髪を少し振り乱し、見たこともないほど血の気が引いた顔をしていた。


「あ……アルベルト、さん……」


 私がかすれた声で名前を呼ぶと、アルベルトさんは弾かれたように私の元へ駆け寄り、作業台に突っ伏す私の肩を掴んだ。


「リナ!なんという冷え切り方だ、オーブンに火が入っていない!それに、顔が真っ赤だぞ……っ!?」


「ちょっと、お熱、あるみたいで……。でも、大丈夫です。すぐにお寝坊さんな街の人たちを……起こしに……」


 私はいつもの元気を振り絞って立ち上がろうとした。目の前にある、こね途中の生地に手を伸ばす。


 ――トントン、ギュ……


 けれど、手のひらに全く力が入らない。弾力があるはずの生地が、まるで巨大な岩のように重く感じられて、私の膝がガクガクと笑い始めた。


「あっ……」


 バランスを崩し、そのまま床へ崩れ落ちそうになったその時。


「リナっ!!」


 視界が反転した。ドサリと無骨な音がして、アルベルトさんが自分の膝をつくのも構わず、長い腕で私の体を強く抱きとめていた。彼の糊のきいたシャツに、私の鼻の頭がごつんとぶつかる。いつもの清潔な石鹸とインクの香りが鼻腔をくすぐるけれど、今の彼の胸の奥からは、早鐘のような、もの凄い速さの鼓動が伝わってきた。トクトクトク、なんて可愛いものじゃない。ドクドクと、まるで戦場に赴くドラムのようだ。


「おい、しっかりしろ!体が信じられないほど熱い……!まるで焼きたてのパンのようだ。いや、そんな呑気なことを言っている場合ではない!おい、リナ、私を見ろ!」


「アルベルトさん、声が大きいです……頭に響く……」


「す、すまない……。だが、どうすればいい!? 私は国家の予算案の組み方も、隣国との関税交渉のやり方も知っているが、君が熱を出した時の対処法など、手帳のどこにも書いていない……っ!」


 アルベルトさんは完全にパニックに陥っていた。あのクールな査察官はどこへ行ったのか。私の体を抱きしめたまま、ブルーグレーの瞳を左右に激しく泳がせ、本気で涙目になっている。過保護のメーターが完全に振り切れている。


「リナ、待っていろ!今すぐ王宮へ連れて行く!いや、動かすのは危険か!?ど、どうすれば……!」


「ただの風邪、ですから……ベッドに、行けば……」


「ベッドだな!?分かった。業務命令だ、大人しくしていろ!」


 アルベルトさんは、私を羽毛のように軽々とお姫様抱っこで抱え上げた。いつもなら「ひゃあ!」と顔を真っ赤にして暴れるシチュエーションだけれど、今の私は彼の胸にコテッと頭を預けるのが精一杯だった。


 彼はそのまま、厨房の奥にある私の小さな寝室へと突進し、まるで壊れやすいガラス細工でも扱うかのように、そっと私をベッドに横たえた。


 毛布を首元まで、これでもかとギチギチに詰め込まれる。正直、ちょっと息苦しい。


「私は外のセバスに指示を出してくる!一歩も動くなよ、いいな!?」


「動けない、です……」


 アルベルトさんは私の手を一度ぎゅっと握りしめると、弾丸のような速さで部屋を飛び出していった。


 一方、パン屋の外。 馬の手綱を握り、完璧な姿勢で主人の帰りを待っていたセバスは、店の扉が「バァン!」と凄まじい音を立てて開いたのを目撃した。飛び出してきたアルベルトの顔は、国家転覆の危機に直面した時よりも深刻に歪んでいる。


「セバスっ!!!緊急事態だ!!!」


「殿下?いかがなさいました。もしや、隣国の刺客でも――」


「リナが倒れた!!体が発火しそうなほど熱い!意識も混濁している!パンの生地に力が入らないと言っていた、これは尋常ならざる事態だ!!」


 セバスは一瞬だけ、その銀色の眉をピクリと動かした。


(ふむ。リナ殿が倒れた……。殿下の狼狽ぶりからして、命に関わる病か、あるいはただの風邪……いや、知恵熱の類でしょうな)


 しかし、愛する主人のこの世の終わりかのような形相を見て、有能な執事は即座に「最上級の対応」をとるべきだと判断した。


「御意。直ちに王宮へ戻り、手を尽くします。殿下はリナ殿の傍を離れぬよう」


「頼む、セバス!一刻を争う!」


 セバスは完璧な一礼をすると、老体とは思えない俊敏さで馬に飛び乗った。


「ハッ!」


 鋭い掛け声とともに、馬の蹄が石畳を激しく叩く。下町の静かな朝の空気を切り裂き、セバスは砂埃を派手に巻き上げながら、王宮へと文字通り爆走していった。


 寝室のベッドのなかで、私はその遠ざかる蹄の音をぼんやりと聞いていた。 ……なんだか、もの凄く大ごとになっている気がする……。私はただの、下町のパン屋の娘で、ちょっと風邪を引いただけなのだが。


「リナ、水を……いや、冷たいタオルか?待っていろ、今、私が最高に適切な水分量で絞ってくる!」


 厨房から、アルベルトさんがバケツと格闘する派手な音が聞こえてくる。


「あっ、閉まらない!水が飛び散った!」

「布の強度が足りん。引きちぎれそうだ!」


 とか、独り言が全部筒抜けである。


(アルベルトさん、頑張ってくれて嬉しいけど……私、逆に緊張して、余計に熱が上がりそうなんだけどな……)


 私は心の中でそうツッコミを入れながら、なにやらこの先起こりそうな予感に、遠くなる意識のなかで小さくため息をつくのだった。

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