第30話 看板に添えられたルビーと銀
嵐のような襲撃から一夜明けた町は、奇跡のように透き通った青空に包まれていた。
『おひさまベーカリー』の厨房には、夜明け前から三つの影が並んでいた。リナ、ルカ、そして出発を前にエプロンを借りたサラーだ。
「ちょっと、リナ!その生地、もう一度しっかり捏ねなさい!私たちの国のスパイスを入れるなら、もっと情熱を込めないと負けちゃうんだから!」
「もう、サラーさん!力を入れすぎると小麦粉が泣いちゃいます。ほら、優しく、こう……」
「師匠、サラーさん!二人ともキラキラしてて最高にかっこいいです!私、トッピングのナッツを細かく刻みました!」
三人の笑い声と、生地を叩くトントンという心地よいリズム。王宮の戦士も、下町の少女も、今はただ「美味しいパンを届けたい」という純粋な光で繋がっていた。
やがて、オーブンからこの世のものとは思えないほど芳醇な香りが溢れ出した。
アルベルトさんの「亜麻色小麦」、レオンさんの「太陽のスパイス」、そして私の「おひさま酵母」。本来交わるはずのなかった三つの世界の光が、一つに溶け合った究極のパン『絆の夜明け――アライアンス・ドーン』。
パンを取り出した瞬間、立ち上る黄金色の湯気が朝日を吸い込み、店内に無数の虹を架けた。
「……焼けたわ」
私がそっと告げると、表で待っていた男たちが、それぞれの想いを胸に店内に足を踏み入れた。
店の前の広場。即席のテーブルを囲み、全員でそのパンを分け合う。
一口食べた瞬間、誰もが言葉を失った。
「……ああ。……リナ、君は本当に魔法使いだ」
アルベルトさんが、ブルーグレーの瞳を潤ませて呟く。
清廉な静寂の中に、燃えるような情熱が溶け込み、最後には春の陽だまりのような温かさが口いっぱいに広がる。それは、この数日間に起きたすべての騒動、戦い、そして芽生えた感情を、すべて肯定してくれる味だった。
「はっ、当たり前だろ。俺が惚れ込んだ女だぞ?」
レオンさんは豪快にパンを頬張り、満足げに鼻を鳴らした。
食事も終盤。別れの時が近づくと、賑やかだった空気に少しだけ切なさが混じる。
「さて……。ネズミ共の掃除も終わったし、俺はそろそろ国に戻らねぇとな。親父にこのパンを食わせて、ガルダリアをひっくり返してやるよ」
レオンさんが立ち上がり、私の前までずいっと歩み寄ってきた。
「リナ。……最後に、俺の『印』を刻んでおいてやる」
「え、印……?わっ、ちょっと、レオンさん!?」
レオンさんは強引に私の腰を引き寄せると、至近距離で碧い瞳をギラリと光らせた。
次の瞬間、彼は私の耳元に顔を寄せ、熱い吐息と共に言葉を刻み込んだ。
「……次に会う時は、こんなもんじゃ済まさねぇ。覚悟しておけ。……お前のパンも、お前自身も、俺の国の太陽にしてやるからな」
「ひゃ、ひゃあぁぁぁ!!」
私が真っ赤になってパニックを起こしていると、レオンさんは不敵に笑い、自分の剣の柄からルビーのような紅い宝石を一つ、素手で引き剥がした。
「そら、これは俺の心臓の一部だ。看板にでも埋め込んでおけ!」
「ちょっと、レオン様!何勝手なことしてるんですか!!」
サラーさんが猛然と抗議して割り込んできた。
彼女は私の肩を掴んでぐいっと引き離すと、般若のような形相で私を睨みつける。
「リナ!勘違いしないでちょうだい!あなたのパンは認めたけど、レオン様への愛だけは一ミリも譲らないんだからね!次に会う時までに、もっと強くて可愛い女になっておきなさい、このおひさま娘!!」
サラーさんの瞳は嫉妬でキラキラと燃えていたけれど、その手は優しく私の服の粉を払ってくれた。
「ジル、あんたも何とか言いなさいよ!」
「……そうですね。統計学的には、サラー様がリナ様に追いつく確率は現在3.4%ですが、努力次第で変動の余地はあります。……ルカ、君にこの分析データを預けましょう。次に会う時までに、師匠を超える『論理的なパン』を研究しておくように」
ジルさんが無表情のまま、ルカに一冊の分厚い手帳を差し出した。
「ジルさん……!はい!私、師匠と一緒に、世界一論理的でキラキラなパンを目指します!」
ルカが涙を拭い、キラキラした笑顔でジルさんと握手を交わした。
そして。最後に残ったのは、アルベルトさんだった。
彼は騎士たちを先に進ませ、一人、私の前に立った。
「アルベルトさん……」
「……リナ。私は、彼のように強引に君を奪い去ることはできない。……けれど、これだけは知っていてほしい」
アルベルトさんは、自らの白銀のブローチを外し、レオンさんが置いた紅い宝石の隣に並べた。
「君がこの町でパンを焼く限り、私の心は常にここにある。……王都の冷たい風に吹かれたとき、私は君の光を思い出して立ち上がるだろう。……君は、私にとっての『北極星』だ。どんなに離れていても、迷うことはない」
アルベルトさんは、私の粉だらけの右手をそっと取り、指先に深く、切ないほどの接吻を落とした。
「……リナ、愛している。……次に会う時までに、君にふさわしい、より輝く王国を築いてみせよう」
「……っ、はい……!私も、アルベルトさんがいつでも帰ってこられるように、ここを世界一温かい場所にしておきます!」
馬車の車輪が音を立てて動き出す。
「またな、リナ!」
「元気でねー!」
レオンさんの豪快な叫びと、サラーさんの嫉妬混じりのエール。ジルさんの冷静な分析の声。
馬車が角を曲がり、砂埃が朝日にキラキラと舞い上がる中、私は大きく、大きく手を振り続けた。
――一月後。
『おひさまベーカリー』の入り口には、新しく作り直された看板が掛かっていた。
そこには、朝陽を浴びてキラキラと輝く、一粒の紅いルビーと、白銀の装飾。
「師匠!そろそろ一便目が焼き上がります!」
「了解、ルカ!今日はいつもより多めに焼くわよ。……なんたって、遠い国までこの匂いを届けなきゃいけないんだから!」
私は粉まみれのエプロンをきゅっと結び直し、力強く生地を捏ね始めた。
トントン、ギュッ、ギュッ……
窓の外には、どこまでも続く黄金色の麦畑。
私の物語は、ここからまた新しい光を紡いでいく。
二人の王子。最高の仲間。
私のパンがある限り、世界はどこだって、おひさまのキラキラで満たされるはずだから。
「さあ、いらっしゃいませ!焼きたてのおひさまパンはいかがですか!」
いつものように明るい声が、青空へと突き抜けていった。




