第26話 秘密のスパイスと、乙女の涙
夜が深まるにつれ、厨房の温度は上がっていく。オーブンの余熱のせいだけではない。背中合わせに立つサラーさんと私の、言葉にできない熱い想いが、狭い店内に充満していたからだ。
「……はぁ、はぁ……っ」
サラーさんの荒い呼吸が聞こえる。彼女の動きは、もう限界に近い。
それもそのはずだ。彼女が作っている『情熱の赤ハーブのフォカッチャ』は、ガルダリア王宮の厳しい気候に耐えうるよう、極限まで水分を飛ばし、それでいてスパイスの香りを閉じ込めなければならない。騎士として鍛え上げた彼女の腕をもってしても、繊細な生地を御すのは、重い大剣を振るうよりずっと過酷な「戦い」だった。
ふと視線を向けると、サラーさんの手元にある生地は、彼女が持ち込んだ深紅のハーブの影響で、まるで熟した柘榴のような、毒々しくも美しい色を放っていた。その表面には、彼女の焦燥を反映するように、不揃いな気泡が浮き上がっている。
「サラーさん……。火を少し、弱めたほうがいいかもしれません。その生地、今のままだと……」
「黙りなさいと言ったはずよ!あんたの情けなんていらないわ!」
サラーさんは振り返ることなく叫んだ。けれど、その声は微かに裏返り、震えている。
彼女は今、私と戦っているのではない。レオン様の隣に並ぶに相応しい自分でありたいという、高すぎる理想と、それに届かない現実の狭間で、独りきりで戦っているのだ。
その時だった。
――ビキッ。
不穏な音が厨房に響いた。
サラーさんがオーブンから引き出した天板の上で、期待のフォカッチャが、無残にも中心から大きく裂けていたのだ。急激な火力の強さと、生地の捏ね不足による「歪み」。
「あ……。そんな、……うそ……」
サラーさんの手が、力なく垂れ下がった。宝石が散りばめられたあの派手な鞭が、ホルダーからカランと虚しい音を立てて床に転がる。
「……私の勝ち誇った顔が見たいんでしょう?さあ、笑えばいいわ。レオン様を幼い頃から守ってきたつもりだったのに、結局、私はあの方の腹を満たすパン一つ、まともに焼けなかった……!」
彼女の目から、溜まっていた涙が溢れ出し、赤紫色の生地の上にポタリと落ちた。その瞬間、生地は彼女の悲しみを吸い込んだかのように、キラキラとした輝きを失い、どす黒く沈んでしまった。
私は、迷うことなく自分の作業台を離れ、彼女の隣に立った。
「……何よ。勝ち誇りに来たの?」
「いいえ。……サラーさん、このパン、まだ死んでいません」
「……え?」
私は、彼女が失敗だと言い捨てた生地を、迷わず自分の捏ね台に移動させた。
「パンはね、焼く人の心を映す鏡なんです。サラーさんがレオンさんを想って流したその涙は、不純物なんかじゃない。……それは、どんな高級なスパイスよりも強い、『祈り』なんです」
私は自分の捏ね台に残っていた、ミルクたっぷりの『おひさま生地』を、サラーさんの赤い生地の隣に並べた。
「サラーさん。……一緒に、混ぜませんか?」
「混ぜる……?あんたのパンと、私のパンを?」
「はい。サラーさんの激しい情熱と、私のこの町の穏やかな温もり。……二つが合わされば、きっとレオンさんの孤独を溶かす、最高の光になるはずです」
サラーさんは呆然と私を見つめていたけれど、やがて、小さく鼻を啜り、ボロボロになった袖で乱暴に涙を拭った。
「……あんた、本当に馬鹿ね。……勝負に勝たなきゃ、レオン様を独り占めできないのに」
「私は独り占めなんてしたくありません。……みんなで笑って、美味しいねって言い合えるのが、私のパンなんです」
私たちは、二つの異なる色をした生地を手に取った。私の白い手と、彼女の剣だこが刻まれた逞しい手が、一つの捏ね台の上で重なる。
トントン……ギュッ。
トントン……ギュッ。
二人のリズムが、不思議と重なっていく。
白と赤の生地は、マーブル状に混ざり合い、朝焼けの雲のような、幻想的なピンク色へと変化していった。そこへ、ジルさんが無言のまま、最適な温度に冷やされたオリーブオイルを差し出す。
「師匠、サラーさん、頑張って!」
ルカも、キラキラした瞳で応援してくれている。
数時間後。
東の空が白み始めた頃、私たちは焼き上がったフォカッチャを店先へ運んだ。
審査員として並んだのは、町の人々と、そして――。
白銀の甲冑を纏い、心配そうに夜を明かしたアルベルトさん。
漆黒の外套を羽織り、野性的な笑みを浮かべて待っていたレオンさん。
「……さあ、食べてください。私たちの、パンです」
私が差し出したのは、サラーさんの赤ハーブと、私のおひさま小麦が完全に調和した、その名も『暁のフォカッチャ』。
レオンさんは、それを一口、大きく噛み締めた。
「…………っ!!」
碧い瞳が、カッと見開かれる。彼は無言のまま、二切れ、三切れとパンを口に運び、やがて大きく息を吐いた。
「……熱いぜ。……でも、昨日みたいな火を噴くような熱さじゃねぇ。……これは、砂漠の夜明けに、ようやく身体が温まっていく時のような……、安心する熱さだ」
レオンさんはサラーさんに向き直り、その頭を乱暴に、けれど慈しむように撫で回した。
「サラー。お前、いつの間にこんな優しい味を覚えたんだ? ……悪くねぇ。いや、最高だ」
「……っ、……レオン様……!!」
サラーさんは再び泣き出した。けれど、今度は悔し涙ではない。朝日を浴びてキラキラと輝く、最高に幸せな乙女の涙だった。
アルベルトさんは、隣でその光景を複雑な表情で見守っていたけれど、やがて私の肩をそっと抱き寄せた。
「……リナ。君はまた、自分の敵を友人に変えてしまったね。……君の光は、本当に、私の想像を超えて広がっていく」
一件落着。……そう思われたその時だった。
――ヒュッ!!
鋭い風切り音と共に、店先の看板に一本の「黒い矢」が突き刺さった。
平和な朝の空気が、一瞬にして凍りつく。
「……ちっ、鼠共が。ようやく現れやがったか」
レオンさんの瞳から色が消え、冷酷な獣の眼差しに変わる。
王子の命を狙う、ガルダリアの急進派。その「黒い風」が、ついにこの穏やかな町にまで吹き荒れようとしていた。
「リナ、下がっていろ!」
アルベルトさんが剣を抜く。
私の『おひさまベーカリー』を舞台に、パン焼き勝負よりもずっと激しく、恐ろしい「本物の戦い」が幕を開けようとしていた。




