第25話 サラーの嫉妬と、乙女のフォカッチャ
昨日の「スパイスパン事件」から一夜明けても、私の胸のざわつきは一向に収まってはくれなかった。
夜明け前の厨房。私は、いつものように一人でパンを捏ねていたけれど、どうにもリズムが乱れてしまう。
トントン……ギュッ。
トントン……ギュッ。
目を閉じれば、アルベルトさんのあの切実なブルーグレーの瞳と、レオンさんの射抜くような碧い瞳が交互に浮かんできて、そのたびに手元の生地が少しだけ、私の焦りを吸い込んで固くなっていくような気がした。
「だめ。しっかりしなきゃ、リナ。パンは、焼く人の心を映す鏡なんだから……」
自分に言い聞かせるように頬を叩き、深呼吸をする。窓から差し込む、黎明の薄紫色の光が、舞い上がる小麦粉をキラキラと銀色に染めていた。この時間が、一番好きだったはずなのに。
――バァァァン!!
突然、店の表扉が、昨日よりもさらに乱暴な音を立てて蹴破られた。
「ちょっと!そこの粉まみれの小娘!表へ出なさい!」
叫び声と共に飛び込んできたのは、燃えるような真紅のドレスを翻したサラーさんだった。
彼女は腰に提げた、無数の宝石が埋め込まれた派手な鞭をジャラつかせ、怒り肩で私に詰め寄ってくる。
「サラー様。店内で鞭を鳴らす行為は、浮遊する粉塵への引火、あるいはリナ様の聴覚への過度な刺激となり、パンのクオリティを著しく低下させる要因となります」
その後ろでは、鉄仮面のような無表情のジルさんが、相変わらずのトーンで淡々と述べていた。
「うるさいわねジル!私はもう、一分一秒だって我慢できないのよ!」
サラーさんの情熱的な瞳は、真っ直ぐに私を射抜いていた。その瞳は怒りに燃えているけれど、よく見ると目尻が微かに赤く、どこか今にも泣きだしそうな「恋する女の子」の焦燥が透けて見えた。
「サラーさん……。あの、開店はもう少し先なのですが……」
「開店なんて知るもんですか!私はあんたに聞きたいのよ。レオン様が、あんなに鼻の下を伸ばして『光だ』なんて褒めちぎる、あんたのパンの正体を!」
彼女はカウンターに、ドサリと一つの大きな木箱を置いた。
中には、見たこともないような鮮やかな深紅のハーブと、黄金色に輝く最高級のオリーブオイル、そして、石造りの瓶に詰められた不思議なスパイスがぎっしりと詰まっていた。
「これは、我がガルダリア王宮に代々伝わるレシピ……恋を叶え、戦士の魂を奮い立たせると言われる『情熱の赤ハーブのフォカッチャ』よ」
彼女は一歩、私に近づいた。彼女からは、レオンさんと同じ、けれどより繊細で華やかな、砂漠の夜風のような香りがした。
「パン焼き勝負よ、リナ!私が勝ったら、あんたは今すぐレオン様の前から消えること。いいわね、返事は『はい』か『イエス』よ!」
「ええっ!?そんな、勝負だなんて……」
「リナ師匠!受けて立ちましょう!」
厨房の奥から、ボウルを抱えたままのルカが、鼻息荒く飛び出してきた。彼女の瞳は、好奇心と師匠への信頼でキラキラと輝いている。
「師匠のパンは、ただの食事じゃありません。この町を、そして王都を救った『希望』なんです!どんな王宮レシピにだって、負けるはずがありません!」
「ルカ、あなたまで何を……」
さらに悪いことに、表の異変を感じ取ったらしいアルベルトさんが、騎士団を引き連れて馬で駆けつけてきた。
「……何事だ。またレオンハルトの差し金か?」
アルベルトさんは店に入るなり、サラーさんを鋭く牽制した。その手は、いつでも剣を抜けるように腰の柄にかかっている。
「あら、白銀の王子様。ちょうどいいところに来たわね。これから、この小娘のメッキを剥がしてやるところよ」
「サラー。リナは私の……この国の民だ。君の個人的な嫉妬に付き合わせるわけにはいかない。……リナ、奥へ。あとは私が対処しよう」
アルベルトさんが私の前に立ち、私を庇うように背後に隠した。その背中からは、昨日のレオンさんへの怒りがまだ冷めやらぬような、ピリピリとした緊張感が伝わってくる。
「嫉妬……?違うわ、これは矜持よ!私はあの方が砂漠で剣を振るっていた幼い頃から、ずっとその背中を追いかけてきた。……あの方の孤独も、あの方の強さも、あの方の『碧い瞳』が何を求めているのかも、私が一番知っているはずなのに!」
サラーさんの声が、微かに震えた。
彼女は、王宮で剣を鞭に持ち替え、自分を殺してレオンさんの忠実な部下として振る舞ってきた。けれど、レオンさんが私のパン一口で、今まで彼女がどれほど尽くしても見せなかった「少年のように輝く顔」をしたことが、彼女の誇りを木っ端微塵に砕いてしまったのだ。
「……分かりました。お受けします、サラーさん」
私は、アルベルトさんの背中から一歩前に踏み出した。
「リナ!?何を……」
「アルベルトさん、大丈夫です。……サラーさん、私はパン職人です。言葉で言い合うのは苦手だけど、生地を通せば、あなたの心がきっと分かるから」
私は、粉で白くなった手を、自分のエプロンできゅっと拭き直した。
「勝負は明日の朝。お題はサラーさんが言った通り『フォカッチャ』。審査員は、レオンさんと……この町のみんなです」
「……ふん、いい度胸ね。ジル、調理器具を運びなさい!」
「承知いたしました。サラー様の調理補助として、熱力学に基づいた最適なメイラード反応を誘導いたします」
ジルさんが淡々と返事をする。
「私も師匠の助手として、気合を入れてボウルを磨きます!」
ルカも拳を握りしめた。
その夜。
『おひさまベーカリー』の厨房は、二つの熱気に分断されていた。
トントン、ギュッ、ギュッ……。
私のリズムは、いつもの穏やかな呼吸。
対してサラーさんのリズムは、まるで戦場を駆ける馬の蹄の音のように、激しく、そして切羽詰まっている。
背中合わせに生地を捏ねる中、サラーさんが低い声で呟いた。
「……あんたのパンは、眩しすぎるのよ。……レオン様は、影の中で生きる人。あの方に、こんなキラキラした光を見せたら、あの方は自分の居場所を見失ってしまうわ」
彼女の手元にある生地は、彼女の涙を吸ったかのように、不思議な赤紫色にほんのり染まっていた。それは、彼女の秘めたる恋心の、重くて熱い「熱」そのものだった。
窓の外、夜の闇に紛れて、誰かがこちらを監視している気配には、誰も気づいていなかった。
不気味に輝く碧い瞳が、もう一つ、暗闇の中でキラリと光った。




