第24話 震える心
静まり返った店内に、オーブンの中で薪がパチリと爆ぜる音だけが、やけに大きく響いていた。
差し出された新作パン『黄金の残照』。
アルベルトさんの清廉な白銀の気高さと、レオンさんの野性的な碧の情熱。本来なら決して混ざり合うはずのない二つの光が、私の捏ねた生地の中で、今、一つに溶け合っている。
二人の王子様が、同時にそのパンを口に運んだ。
私は、自分の心臓が早鐘を打つのを感じながら、粉まみれの手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「…………ッ!!」
二人の動きが、彫像のように止まった。
アルベルトさんのブルーグレーの瞳が、驚愕に見開かれる。彼がずっと大切にしてきた、私のパンの「穏やかな温もり」。その中に、レオンさんが持ち込んだ深紅のスパイスが、まるで真夏の太陽のように激しく、鮮烈な火花を散らしていた。
対するレオンさんは、碧い瞳を細め、喉を大きく鳴らした。自分の国の、暴力的とも言えるほど情熱的なスパイス。それをリナという少女が、まるで慈母のような優しさで包み込み、とろけるような甘美な調べに変えてしまったことに、魂の底から揺さぶられているようだった。
――カラン。
沈黙を破ったのは、銀のスプーンが床に落ちた音だった。
「……ううっ、……ひっ、……ぐすっ……!!」
弟子のルカが、抱えていたボウルを台に置き、顔を両手で覆って号泣し始めた。
「ル、ルカ!?どうしたの、どこか痛いの!?」
「ち、違います……リナ師匠……っ!このパン……このパン、あまりにも……切なすぎます……!!」
ルカは涙でぐしょぐしょの顔を上げ、震える声で訴えた。
「アルベルト様の、雪のように静かな愛……。その奥で、レオン様の燃えるような太陽が、誰にも言えない秘密みたいに熱を上げているんです。なんだか、このパン……恋をして、胸が張り裂けそうになっている女の子の、一番綺麗な涙の味がします……っ!!」
ルカの純粋すぎる、そしてあまりに鋭い感性に、私は顔が火が出るほど熱くなった。
「ル、ルカ!そんな、大袈裟な……これはただのスパイスの調和で……」
「大袈裟ではありませんよ、リナ様」
不意に、レオンさんの背後に控えていたジルさんが、一歩前へ踏み出した。
鉄仮面のような無表情。けれど、その眼鏡の奥の瞳は、まるで高度な鑑定魔道具のように、私の焼いたパンを隅々まで観察していた。
「このパンから放出されるアロマ成分は、嗅覚を通じて脳内のセロトニンを異常活性化させると同時に、アドレナリンを急上昇させている。つまり、穏やかな幸福と激しい情熱が、一つの口腔内で爆発している状況です。……ルカと言いましたか。君の涙腺の崩壊は、至極科学的な反応です。君の感受性は、我が国の軍事機密級の防壁をいとも容易く突破しましたね」
ジルさんは淡々とそう言うと、懐から糊のきいた真っ白なハンカチを取り出した。そして、迷いのない動作で、ルカの涙で濡れた頬にそれをそっと押し当てた。
「……えっ?」
「拭きなさい。……生地に涙が入れば、塩分濃度が狂い、パンのキラキラが濁ります」
「あ、……あ、ありがとうございます……」
ルカが顔を真っ赤にして俯く。
「ふむ、心拍数の上昇も確認。実に興味深い被検体だ」
ジルさんはそれを見て、独り言を漏らしている。
「ちょっとジル!あんたまで何感心してんのよ!だいたい、何よこのパン!キラキラしてて、食べたらお腹の底が熱くなって……なんだか、悔しいじゃない!」
サラーさんが、不機嫌そうにカウンターを鞭の柄で叩いた。彼女はひったくるようにパンを食べ、そのままぷいっと顔を背けたけれど、その耳たぶが夕焼けのように真っ赤になっているのを、私は見逃さなかった。
そして、二人の王子が、ゆっくりと視線を交わした。
「……レオンハルト。認めざるを得ないな」
アルベルトさんが、絞り出すような声で言った。彼の声には、いつもの余裕がなかった。
「君の持ってきたスパイスは、リナのパンに……私が今まで見ようとしなかった、新しい『情熱』を与えた。それは、この国の冬を溶かすほどの力だ」
「へへっ。だろう?アルベルト。お前のパンは、優しすぎてパンチが足りねぇんだよ」
レオンさんが、不敵な笑みを浮かべて私の腰に手を回そうとした。
けれど、その手はアルベルトさんの白銀の鞘によって、鋭く遮られた。
「……だが、勘違いするな。混ぜ合わせたのはリナだ」
アルベルトさんの瞳に、見たこともないような強い独占欲が宿る。
「レオンハルト、君はこのパンを『自分の国の熱』だと言ったが、私は違うと思う。これは、リナという光が、君という異分子さえも飲み込み、自分の糧にした結果だ。……リナの光は、君の想像以上に強く、深い」
「はっ!言うじゃねぇか。だったら、どっちの光がよりリナを輝かせるか……勝負はこれからだぜ?」
二人の王子の間に、再びパチパチと火花が散る。
白銀の気高さと、漆黒の野性。
店の中に満ちる香りは、もはやパンの匂いだけではなかった。
それは、誰かを守りたいという誓いと、誰かを奪い去りたいという渇望。
そして、それを見守る仲間たちの、それぞれの想い。
窓から差し込む朝陽が、舞い上がる小麦粉の粒子をキラキラと照らし出している。
私は、自分の心臓の音を聞きながら、新しく焼き上がった『黄金の残照』を、もう一度見つめた。とろけるようなバターの黄金、そしてスパイスの琥珀。
私の『おひさまベーカリー』は、かつてないパニックと、そして誰も見たことがない新しい「キラキラ」に、飲み込まれようとしていた。
「……もう、みんな!パンは喧嘩の道具じゃないってば!!」
私の叫びが、朝の町に響き渡る。
でも、その時、私の胸の奥で、小さなおひさまが今までで一番大きく、バクンと跳ねた。
恋のスパイス。
それは、想像以上に熱くて、少しだけ、甘酸っぱい味がした。




