第22話 碧い瞳の誘惑
嵐は、去るどころか、私の店の前で「定住」を始めてしまった。
――カラン、カラン、カラン……!
朝の営業が始まると同時に、ベルが鳴り止む暇もない。けれど、今日のお客さんたちの目的は、焼きたてのパンだけではなかった。
「……ちょっと、リナ。あのアレ、何なのよ?」
常連のマーサさんが、腰を抜かさんばかりに驚いて指差したのは、私の店の真向かい。そこには、昨日の今日で、豪華な漆黒の天幕がド派手に設えられていた。
金糸の刺繍が施されたその天幕の前では、上半身に薄い絹を纏っただけの男たちが、これ見よがしに剣の稽古をしている。その中心にいるのは、もちろん、あの人だ。
「よぉ、リナ!今日の『おひさま』もいい焼き色じゃねぇか!」
レオンハルト――レオンが、汗をキラキラと光らせながらこちらに手を振った。黒髪が乱れ、碧い瞳が太陽を反射して宝石のように輝いている。彼はそのまま、稽古着のまま(というより、ほとんど脱いだような姿で)店にずかずかと入ってきた。
「ちょっと、レオン様!ちゃんと服を着てください!ここはお店なんですよ!」
「固いこと言うな。俺の国じゃ、これが正装みたいなもんだ。……それより、さっきのパンの端っこ、俺に食わせろ。あそこが一番香ばしくて美味い」
レオンは私の制止を無視して、カウンター越しに身を乗り出した。
また、昨日と同じ距離。彼の体温と、どこか懐かしいスパイスの匂いが私を包み込む。彼は私の指先についた小さな小麦粉を、碧い瞳で見つめたかと思うと、不意にその手を掴んで自分の顔に引き寄せた。
「な、……っ!」
「……ふん、いい匂いだ。お前自身がパンの精霊にでもなったんじゃねぇのか?」
低い声が耳元で震える。私の心臓は、パン生地が発酵するよりも速く、バクバクと大きく跳ねた。
「そこまでだ、レオンハルト王子」
冷徹な氷の壁のような声が、入口から響いた。
アルベルトさんだ。今日は視察用の軽装ではなく、王家の紋章が入った重厚な騎士服を纏っている。その後ろには、困り果てた様子のジルさんと、不機嫌そうに鞭をいじるサラーさんの姿もある。
「……公務はどうした、アルベルト。王子様がこんな田舎のパン屋に油を売っていていいのか?」
レオンが私の手を離し、挑発的な笑みを浮かべる。
「君こそ、他国の領土で許可なく天幕を張るのは、外交問題になりかねない。……リナ、こっちへ。その男の不埒な言動に惑わされることはない」
アルベルトさんが私の腕をそっと引き、自分の背後に隠した。
その手の震えに、私は驚いた。冷静沈着なアルベルトさんが、こんなに露骨に感情を剥き出しにするなんて。
「アルベルトさん……お仕事、お忙しいんじゃ……」
「……君の安全を確保するのも、私の重要な公務だ」
アルベルトさんは私にだけ聞こえるような小さな声で、けれど断固とした口調で言った。そのブルーグレーの瞳は、レオンへの敵意でキラキラと鋭く光っている。
「あっはは!面白いわね、二人とも!」
甲高い笑い声を上げたのは、サラーさんだった。彼女は店内の棚に並ぶパンを一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らした。
「レオン様をたぶらかすからどんな絶世の美女かと思えば、ただの粉まみれの小娘じゃない。……でも、この『ハーブのフォカッチャ』、見た目だけはキラキラしてて可愛いわね。一ついただくわ」
「……代金は金貨一枚でよろしいですか?サラー様」
無表情のジルさんが、すかさず集金用のトレイを差し出す。
「高いわよ、ジル!……まぁいいわ、レオン様のお気に入りなら、私が毒味してあげる」
店内は、もうパン屋というよりは「王族の社交場」というより戦場?と化していた。
ルカは、憧れの王子様二人に囲まれて、ボウルを抱えたまま固まっている。
「リ、リナ師匠……これ、どうすれば……」
「ルカ、今はとにかく生地を捏ねて!音を立てて、この空気をごまかすのよ!」
私は混乱する頭を振り、再びオーブンの前に立った。
レオンの強引な誘惑と、アルベルトさんの必死な守護。二人の王子の視線が、背中で火花を散らしているのが分かる。
「……お前ら、うるせぇぞ。リナのパンが泣いてるじゃねぇか」
レオンが不意に真面目な顔をして、オーブンの前まで歩いてきた。
「パンを焼くときのお前は、誰の女でもねぇ。このキラキラした光、それ自体だ。……なぁリナ、一つ提案がある」
レオンは碧い瞳を細め、いたずらっぽく笑った。
「俺が持ってきた『太陽のスパイス』を使ってみろ。お前の温かなパンに、俺の国の情熱を混ぜるんだ。そうすれば、アルベルト、お前の退屈な国も少しは明るくなるんじゃねぇか?」
「……スパイス?」
彼が差し出した小瓶には、見たこともないような深紅の粉が入っていた。それは、朝陽を浴びてルビーのようにキラキラと輝いている。
「そんな怪しげなものは……」
拒もうとしたアルベルトさんを制し、私はその瓶を受け取った。
職人としての好奇心が、不安を上回ってしまった。
「……やってみます。レオンさんの国の光、私に見せてください」
その瞬間、レオンは満足げに私の頭を乱暴に撫で回した。
「へへっ、そうでなくっちゃな。……アルベルト、お前の負けだ。リナは俺の『刺激』に興味を持ったぜ?」
「……彼女は職人として好奇心を示しただけだ。勘違いするな」
二人の火花はますます激しさを増していく。
私は、深紅のスパイスを生地に混ぜ込んだ。瞬間、厨房中に、情熱的で甘く、けれど少し切ない香りが立ち上った。
それは、今までの『おひさまパン』にはなかった、心を掻き乱すような「恋の匂い」だった。
窓の外では、野次馬の町の人々が「リナちゃんが二人の王子様に狙われてるぞ!」と大騒ぎしている。
私の『おひさまベーカリー』は、かつてないパニックと、そして誰も見たことがない新しい「キラキラ」に包まれようとしていた。




