第21話 黒い風の不遜な客
夜明け前の、この時間が一番好きだ。
王都から戻って一ヶ月。私の店『おひさまベーカリー』には、再び穏やかで、けれど以前よりも少しだけ賑やかな朝が戻ってきていた。
パチパチ、パチパチ……。
オーブンの中で薪が爆ぜる音は、私にとってどんな音楽よりも心地よい。
私は粉まみれのエプロンをきゅっと結び直し、発酵を終えた生地に優しく触れた。指先から伝わる、生きているような温もり。王都の冷たい銀の調理台もすごかったけれど、やっぱり私は、この使い込まれた木の捏ね台と、町の土の香りが混ざり合うこの場所が大好きだ。
「よし、今日もいい子ね。最高のキラキラを焼いてあげるから」
独り言を言いながら、私は生地を丸めていく。
窓の外、町の東の空がゆっくりと白み始め、朝霧が黄金色に透き通っていく。それはまるで、アルベルトさんの瞳の色に似ていて、思い出すだけで胸の奥がキュンと熱くなった。
(アルベルトさん、今頃どうしてるかな……。公務、忙しくしてなきゃいいけど)
そんなことを考えていた、その時だった。
――ダダダダッ!!
静寂を切り裂くような、激しい蹄の音が外から響いてきた。
一台の馬車が停まった、なんて優雅な音じゃない。まるで一陣の嵐が、そのまま店の前に着弾したかのような衝撃。
「……えっ、何?」
私が手を止めて顔を上げた瞬間。
――バァァァン!!
店の扉が壊れんばかりの勢いで蹴破られた。
「なんだ、この匂いは!城門の三つ先まで漂ってやがるぞ!」
入口に立っていたのは、逆光を背負った一人の男だった。
背が高い。それも、アルベルトさんよりも一回り大きく、肩幅もがっしりとしている。
身に纏っているのは、仕立ては良いが、あちこちが土で汚れた黒い旅装。腰には、飾り気のない、けれどひどく重厚な大剣を無造作に下げている。
男がゆっくりと店内へ足を踏み入れる。
朝陽を浴びて、その髪が艶やかな漆黒に輝いた。そして、鋭い眉の下にある瞳。それは、吸い込まれるような、それでいて射抜かれるような、鮮烈な「碧色」だった。
「……あ、あの。開店は、あと一時間後なんですけど……」
私が恐る恐る声をかけると、その男は野性味溢れる動作で鼻を鳴らし、私の目の前までずいっと歩み寄ってきた。
近い。近すぎる。
彼の身体からは、馬の匂いと、嗅いだことのないエキゾチックなスパイスの香りがした。
「腹が減ってるんだ。御託はいい、その一番美味そうなやつを今すぐ出せ」
「え、でも、まだ焼きたてで、熱いですよ……?」
「構わん。寄越せ」
男は私の返事も待たず、焼き上がったばかりの『おひさまパン』のトレイに手を伸ばした。
素手で!? と驚く間もなく、彼はその大きな手でアツアツのパンを掴み、野性的にバクり、と食らいついた。
「あっ、熱いですよ!」
「…………ッ!!」
男の動きが、ピタリと止まった。
碧い瞳がカッと見開かれ、彼はパンを持ったまま、私をじっと凝視した。
一秒、二秒。
静まり返る店内に、オーブンの爆ぜる音だけが響く。
「……何だ、これは。……柔らかい。なのに、中から火が噴き出してくるようだぜ」
「それは……発酵を丁寧にして、お日様の光をたっぷり浴びた小麦を使っているから……」
「違う。……これは『光』だ。……こんなパン、俺の国には一欠片もありゃしねぇ」
男は、残りのパンを一口で飲み込むと、粉のついた指先を自分の口でペロリと舐めた。その仕草が、どこか獲物を狙う黒豹のように妖艶で、私は思わず一歩後退りした。
「お前、名前は?」
「え、……リナですけど」
「リナか。いい名前だ。……よし、決めたぞ」
男は不敵に笑うと、白い歯をキラリと輝かせた。
そして、私の腰を大きな腕で強引に引き寄せた。
「っ!?な、なな、何を……!」
「俺はレオンハルト。ガルダリアの第三王子だ。リナ、お前を俺の専属職人として連れて行く。ついでに、俺の妃の座も空けておいてやる。光栄に思えよ?」
「はあぁぁ!?お妃様!?職人!?ちょっと、離してください!」
私がバタバタと暴れていると、店の裏口から弟子入り志願お手伝いのルカが顔を出した。王城での一件のあと、おひさまパンに魅了された少女がどうしてもって、押しかけてきて、そのまま仲間入り。
「リナさん、今の音は……」
さらに、不運なことに(あるいは幸運なことに)、早朝の視察で立ち寄ったらしいアルベルトさんの姿が、入口の壊れた扉の向こうに現れた。
「……リナ、その男は誰だ?」
アルベルトさんの声が、今まで聞いたことがないほど冷たく、鋭く響いた。
彼のブルーグレーの瞳には、明確な敵意が宿っている。
「アルベルトさん!違うんです、この人、いきなり……!」
「ほう、貴様が噂の『白銀の王子』か」
レオンハルト――レオンは、私を抱き寄せたまま、アルベルトさんを挑発するように見据えた。
「悪いが、この女は俺が気に入った。この温かい光、俺の砂漠の国には絶対に必要なんだよ。……おい、ジル!準備しろ!」
レオンが叫ぶと、店の外から溜息混じりの声がした。
「……やれやれ、また始まりましたか」
現れたのは、鉄仮面のように無表情な美青年騎士、ジルだった。
「リナ様、申し訳ありません。我が主君は、欲しいものを見つけると理性が吹き飛ぶ性質でして。……ただ、そのパンの匂い。なるほど、理性を失うのも納得の、軍事機密級の輝きですね」
「ジル、お前まで何言ってるのよ!早くこの野生児を引き離しなさい!」
真っ赤なドレスを翻し、鞭を手に現れたのは、情熱的な瞳をした少女、サラーだった。
「ちょっとあんた!レオン様がこんな田舎パン屋に夢中になるなんて、何かの間違いよ!……でも、確かにこの匂い、キラキラしてて癪に障るわね……」
私の小さな店は、一瞬にしてカオスな戦場へと変貌した。
アルベルトさんは、一歩、また一歩とレオンへ近づき、その腰の剣に手をかけた。
「……手を離せ。彼女は、私の……私の、大切な……友人だ。無礼は許さない」
「友だぁ?そんな温い言葉で、この女を縛っておけると思うなよ」
レオンは私の耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。
「いいか、リナ。俺は諦めねぇ。お前のパンも、お前自身も……全部、俺が奪い取ってやる」
碧い瞳が、キラキラと野性的な光を放つ。
王都での戦いが終わったばかりだというのに、私の人生には、もっと熱くてワイルドな、嵐のような「キラキラ」が吹き荒れようとしていた。
――おひさまベーカリーの朝は、今日から、とんでもなく騒がしくなりそうです。




