第20話 新しい看板を掛けて
コンテストの興奮が冷めやらぬ翌朝、王宮の空中庭園は、透き通るような青空に包まれていた。
大理石の回廊を歩く私の耳には、昨日の割れんばかりの喝采がまだ残っている。王妃様からの『王宮専属職人』への誘い。それは、一介の街職人にとっては、これ以上ない栄誉であり、アルベルトさんの傍に居続けるための、唯一無二の切符でもあった。
庭園の奥、白バラが咲き誇る東屋に、アルベルトさんは一人で立っていた。
彼は私の足音に気づくと、ゆっくりと振り返った。その瞳には、昨夜の熱狂とは違う、静かで深い、湖のような慈愛が宿っていた。
「……リナ。母上への返事は、決まったのかい?」
私は、背負った籠の紐をぎゅっと握りしめた。その中には、カトリーヌ様が贈ってくれた最高級の小麦粉と、シスター・クラリスが持たせてくれた新しい酵母の種が入っている。
「……はい。アルベルトさん、私……」
私は、遠くに見える城壁の向こう側、幾重にも重なる山々の先にある、あの小さな町を想った。
朝から元気な町の人たちのキラキラした顔。
朝一番に「おはよう」と言って店に来てくれるモリスさん。
そして、焼きたてのパンを抱えて、スキップしながら帰っていく子供たちの後ろ姿。
「私は……王宮の専属にはなれません。……私は、あの町のパン屋なんです」
アルベルトさんは、驚いた様子も見せず、ただ優しく微笑んだ。
「……分かっていたよ。君が路地裏でパンを配ったあの時、君の瞳が一番キラキラと輝いていたのを、私は見ていたからね」
「アルベルトさん……ごめんなさい。私、あなたの力になりたかった。……隣にいつもいたい、ずっと、ずっと。……でも、私の魔法は、あの街の空気とお日様がないと、うまく動かないみたいなんです」
リナの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
アルベルトさんは歩み寄り、彼女の涙を親指でそっと拭った。彼の指先は、あの日初めて出会った時よりも、ずっと温かく感じられた。
「謝ることはない。……リナ、君が街へ帰ることは、私との別れを意味するわけじゃない。……君が自分の居場所で輝き続けることこそが、私の、そしてこの国の希望なんだ」
彼はリナの肩を引き寄せ、その額に優しく、けれど深く、刻み込むようなキスをした。
「……君の店に、またパンを買いに行くよ。今度は、査察官としてではなく、ただ君のパンを愛する一人の男として……そして、君を愛する男として。……だから、最高の笑顔で迎えてくれるかい?」
「……はい!世界で一番の、おひさまの笑顔で待ってます!」
二人の間に、王都の朝陽がキラキラと降り注ぐ。
それは、離れていても繋がっているという、黄金色の約束の光だった。
――数日後。
ガタゴトと揺れる馬車の窓から、リナは遠ざかっていく王都『ルミナリア』の白銀の尖塔を見つめていた。
門の見送りには、意外な人物もいた。
「次はもっと完璧なパンを焼いてみせますわ。覚悟しておきなさいな!」
カトリーヌ様は、真っ赤なバラの花束を手渡し、誇り高く笑ってくれた。
テオたちは、馬車が見えなくなるまで、何度も何度も、泥だらけの手を振って追いかけてくれた。
そして。
夕暮れ時、懐かしい土の匂いと、鳥のさえずりが聞こえてきた。丘を越えた先に、あの日と変わらない、小さなレンガ造りの店が見えた。
「……ただいま」
店の中に足を踏み入れると、ひんやりとした静寂が私を迎えた。
けれど、そこには王宮の冷たさはない。使い込まれた捏ね台、煤けたオーブン、そして、あの日アルベルトさんと一緒に掃除した床。すべてが、愛おしい思い出としてキラキラと息づいている。
リナは、王都で新しく作った『看板』を取り出した。
それは、カトリーヌ様が贈ってくれた上質な木材に、リナ自身が心を込めて刻んだもの。
『おひさまベーカリー ――ひかりの導き――』
看板を入り口の釘に掛けると、ちょうど沈みゆく夕陽がそれを黄金色に染め上げた。
翌朝。
まだ暗いうちに起き出し、オーブンに火を灯した。
パチパチ、パチパチ……。
火の粉がキラキラと舞い、厨房をオレンジ色に染めていく。
王都で学んだ技術。カトリーヌ様の気高さ。シオンさんの情熱。シスターの祈り。
それらすべてを練り込み、私は生地を捏ねる。
トントン、ギュッ、ギュッ……。
焼き上がりの瞬間。
扉を開けると、真っ白な湯気が、朝日を吸い込んでキラキラと舞い踊った。
その香りは、風に乗って街中に広がり、窓を開けた人々の心に、温かな光を届けていく。
「リナ!おかえり!」
「お姉ちゃん!待ってたよ!」
ナナやモリスさん、町のみんなが、開店を待ちきれずに集まってきた。
私は、最高の笑顔で扉を開けた。
「おはようございます!今日も、とびきりのキラキラが焼けましたよ!」
籠に並んだ黄金色のパンたちは、お日様よりも眩しく輝いている。
その列の最後尾。
朝霧のなかから、一人の旅人が歩み寄ってくるのが見えた。
質素なマントを羽織り、けれどその歩みは誰よりも気高く、優しい、キラキラ輝く亜麻色の髪。
私の瞳は、歓喜の光でキラキラと潤んだ。
パンの焼ける香りと、大切な人の足音。
世界で一番小さな、けれど世界で一番温かい物語は、ここからまた、新しい光を紡ぎ始めていく。
――あなたの明日が、どうか、おひさまの光で満たされますように。
(完)




