第19話 カトリーヌの涙
会場全体を包み込んだ黄金色の湯気が、ステンドグラスから差し込む光と混ざり合い、目に見える粒子となってゆっくりと地上へ降り注いでいく。
審査員たちの前には、三つの皿が並んでいた。
カトリーヌ様の、金箔がダイヤモンドのように煌めく『光の星』。
シオンさんの、力強い大地の鼓動を感じさせる『スパイスパン』。
そして私、ただそこにあるだけで周囲の空気をポカポカと温める『おひさまパン』。
沈黙が、重く、けれど心地よく場を支配していた。
筆頭審査員である老侯爵が、震える手でおひさまパンを割り、口に運んだ。
パチッ……という、パンの皮が弾ける繊細な音。
「……ああ」
老侯爵の喉から、深い吐息が漏れた。
咀嚼するたびに、彼の厳格な眉間の皺が、春の雪解けのように緩んでいく。その瞳には、かつて王都がもっと泥臭く、人々の活気と情熱に溢れていた若き日の記憶が、キラキラと蘇っているようだった。
「カトリーヌ様のパンは、王国の誇りそのものだ。一点の曇りもない美しさと、研ぎ澄まされた技術。……しかし」
老侯爵は、隣に座る王妃様を仰ぎ見た。王妃様は、慈愛に満ちた眼差しで私を見つめ、静かに頷かれた。
「リナ殿のパンには、……『命』が宿っている。凍えた心を抱きしめ、失いかけた希望を呼び覚ます、名もなき民たちの祈りが。……これは、技術を超えた、一つの奇跡だ」
会場に、さざなみのようなどよめきが広がった。
カトリーヌ様は、自分の調理台に手をつき、青ざめた顔でおひさまパンを見つめていた。彼女の『完璧なパン』の輝きが、リナの放つ柔らかな光に飲み込まれていくのを、誰よりも敏感に感じ取っていたのだ。
「……結果を発表いたします」
王妃様が立ち上がった。
彼女のドレスに縫い付けられた無数の真珠が、緊張感の中でキラキラと音を立てる。
「今回の優勝は……。伝統を守り抜き、王国の威信を完璧に表現した、カトリーヌ・ド・ロシュフォール公爵令嬢に贈ります」
拍手が沸き起こった。カトリーヌ様は、一瞬だけ安堵の表情を見せた。けれど、その拍手はどこか、義務的な響きを含んでいた。
王妃様は、手を挙げて会場を再び静まり返らせた。
「しかし。……本日は、王国の歴史において、もう一つの栄誉を刻みたいと思います。……人々の心の闇を払い、明日への希望を灯したその功績を讃え、リナに、『ひかりの導き賞』――特別賞を授与いたします」
――ひかりの導き賞。
その瞬間、優勝を告げられた時よりも、ずっと大きく、地響きのような歓声が巻き起こった。
私は、驚きのあまりその場に立ち尽くしていた。
アルベルトさんが、壇上からゆっくりと降りてくる。彼は衆人環視の中、私の前に跪き、彼女の粉まみれの手をそっと取り、甲に誓いのキスを落とした。
「おめでとう、リナ。……君の光が、この国を変えたんだ」
「アルベルトさん……。私、……」
涙が溢れて止まらない。
その時、リナの背後に、気高く、けれど震える足音が近づいてきた。
「……見事でしたわ、リナ」
カトリーヌ様だった。
彼女の頬には、完璧なメイクを台無しにするほどの大粒の涙が伝っていた。
彼女は、自分が手にした優勝カップを脇に置き、置かれたおひさまパンの欠片を手に取った。
「……私の負けですわ。技術でも、家柄でも、努力でも負けていない。……けれど、私は知らなかった。パンを焼くということが、これほどまでに誰かの心を温められるものだなんて」
カトリーヌ様は、おひさまパンを一口食べ、泣き笑いのような表情を見せた。
「……悔しいですわ。アルベルト様が、あなたのパンを、あなたの笑顔を愛した理由が、……この一口で、分かってしまいましたもの」
彼女はリナに向き直り、公爵令嬢としての矜持を込めた、最高に美しい礼をした。
「……認めます。あなたは、私にない『光』を持っている。……けれど、忘れないで。アルベルト様を想う気持ちだけは、私だって、あなたのパンに負けないくらい、熱く燃えているんですのよ?」
カトリーヌ様の瞳に、嫉妬ではなく、一人の女性としての、キラキラとした誇り高い決意が宿った。
私は、カトリーヌ様の手を、思わず握り返した。
「……カトリーヌ様。ありがとうございます。……カトリーヌ様のパン、本当にかっこよかったです。私も、あんな風に誰かを圧倒できるくらい、もっともっと、一生懸命パンを焼きます」
二人の少女の間に、王都の朝陽が降り注ぐ。
それは、恋敵という壁を超え、同じ道を歩む「職人」としての、魂の握手だった。
――けれど、歓喜の余韻に浸る間もなく。
王妃様が、優しく、けれど断固とした口調でリナに問いかけた。
「リナ。……あなたのその魔法のようなパンを、これからはこの王宮で、私の傍で焼いてはくれませんか?あなたを、王宮専属職人として正式に迎えたいのです」
会場が再び色めき立つ。
それは、街のパン屋が、一夜にして王国の頂点へと上り詰める、夢のようなシンデレラストーリー。
アルベルトさんの瞳が、期待と、少しの不安を孕んで揺れる。
私は、窓の外を見た。
そこには、遠く離れたあの懐かしい小さな町の、土の匂いとおひさまの光が、手招きしているような気がした。
リナが出した答えは、王都の歴史を、もう一度だけ塗り替えることになる。




