第18話 おひさまの逆襲
王宮の『太陽の間』。
天井を支える黄金の柱には精緻な彫刻が施され、床には一面に深紅の絨毯が敷き詰められている。窓という窓からは、王都の朝陽がこれでもかと差し込み、会場に集まった貴族たちの色とりどりのドレスや、胸元で揺れる宝石をキラキラと反射させていた。
その中央、一段高い場所に並べられた三つの調理台。
左には、東方のスパイスの香りを纏い、鋭い視線で生地を見つめるシオンさん。
右には、白磁のような肌に一滴の汗も浮かべず、優雅な所作で銀のボウルを操るカトリーヌ様。
そして中央に、煤けたエプロンをきゅっと結び直し、荒れた指先をぎゅっと握りしめた私。
「これより、聖なるパン職人コンテスト、審査を開始いたします!」
王妃エルゼ様の清らかな声が響き渡る。その隣には、正装に身を包んだアルベルトさんが座っていた。彼の瞳は、群衆のなかにいるリナだけを、静かに、けれど熱く見守っている。
「……始めますわよ、リナさん。王宮の『格』というものを、その目に焼き付けなさい」
カトリーヌ様が、扇を置くように麺棒を手にした。
彼女が作るのは、王国の象徴である百合の紋章を模したブリオッシュ『エトワール・ド・ルミエール』。
最高級のバターを惜しみなく使い、金箔を練り込んだ生地が、彼女の手の中でまるで生きている彫刻のように形を変えていく。焼き上がりの直前、彼女が振りかけたのは、ダイヤモンドの粉のように精製された特殊な砂糖の結晶だった。
一方、シオンさんは巨大なナイフを振るい、生地を肉のように切り裂いていく。彼女が焼くのは、太陽の熱を閉じ込めたという『黒曜石のスパイスパン』。
厨房全体に、鼻を突くような刺激的な、けれど抗いがたい魔力を持った香りが広がり、審査員たちの喉を鳴らさせた。
私は、ただ黙々と、テオたちが届けてくれた野いちごの酵母と向き合っていた。
王都の『白銀小麦』は、確かに白く美しい。けれど、その粉に、あえて下町の井戸から汲んできた「少し土の香りのする水」を混ぜ合わせた。
(……みんなの想いを、全部この中に込めるんだ)
トントン、ギュッ、ギュッ……。
その捏ねる音は、他の二人のような華やかさはない。けれど、そのリズムはまるで心臓の鼓動のように温かく、深く、聴く者の胸に響いた。
生地がまとまるにつれ、不思議なことが起こった。
窓から差し込む朝陽が、リナの捏ねる生地だけに吸い込まれていくように見えたのだ。生地の表面は、真珠のような淡い光を帯び、リナの指先から伝わる熱を吸って、ぷくぷくと幸せそうに膨らんでいく。
「……何、あの生地。あんなの、見たことないわ」
貴婦人の一人が、扇の手を止めて呟いた。
私は、出来上がった生地を丸め、野いちごを一粒ずつ真ん中に閉じ込めた。そして、モリスさんの農園で採れた、あの日差しをたっぷり浴びたハーブの葉を一枚、そっと添える。
「さあ、おやすみなさい。……最高にキラキラした夢を見てね」
私がパンをオーブンに入れた瞬間、カトリーヌ様のパンが、先に焼き上がった。
――チリン、と清らかな鈴の音が鳴る。
取り出されたのは、まさに宝石の冠だった。金箔を纏ったブリオッシュは、ライトの光を浴びて、見る者の目を潰さんばかりにキラキラと輝いている。
「おお……! これぞ王国の光。あまりに美しい!」
「食べるのが惜しいほどだ。これこそが、真の芸術品よ」
審査員たちは感嘆し、カトリーヌ様は勝ち誇ったように私を見た。
続いてシオンさんのパンも、力強い黒光りを放ちながら、男たちの野生を呼び覚ますような香りを放って完成した。
そして、最後。
私のオーブンのタイマーが、コトン、と落ちた。
会場全体が、静まり返る。
私は深呼吸をし、ゆっくりとオーブンの扉を開けた。
――瞬間。
光の洪水が、オーブンの奥から溢れ出した。
それは、カトリーヌ様の宝石のような鋭い光ではない。
冬の朝、凍えた指先を包み込んでくれるような。
雨上がりの草原に、一気に差し込む陽光のような。
どこまでも優しく、どこまでも温かい、黄金色の『湯気』だった。
その湯気は、まるで意志を持っているかのように、高い天井へと舞い上がり、ステンドグラスの光を巻き込んで、キラキラと雪のように会場全体に降り注いだ。
「……何かしら、この香りは。……懐かしい」
「田舎の母さんが焼いてくれた、あの日の朝ごはんの匂いだ……」
厳格な表情を崩さなかった老審査員の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
取り出したのは、デコレーションも金箔もない、ただの丸いパンだった。けれど、そのパンからは、焼きたての生命の息吹が、パチパチ、パチパチ……と『天使の拍手』を奏でながら立ち上っている。
湯気の中に、幻が見えた。
泥だらけで笑うテオたちの顔。
汗を流して小麦を育てるモリスさんの背中。
そして、暗い工房で自分を抱きしめてくれた、アルベルトさんの温もり。
何も特別ではない丸いパンから放たれた光は、王宮の冷たい大理石の床を黄金色に染め、着飾った人々の心の鎧を、優しく溶かしていった。
「……これが、私のパンです」
声が静まり返った広間に凛と響く。
アルベルトさんは、椅子から立ち上がり、誇らしげに私を見つめていた。その瞳には、どんな宝石よりも美しい、愛の光が宿っていた。
カトリーヌ様は、自分の『完璧なパン』を手に、震える唇で丸いパンを見つめていた。
彼女のパンは確かに輝いていた。けれど、この温かな丸いパンのように、人の心を抱きしめることはできなかったのだ。
判定の鐘が、今、高らかに鳴り響こうとしていた。




