第17話 月明かりの誓い
テオたちが嵐のように去っていった後の厨房は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
窓から差し込む月光は、青白い帯となって石畳を貫き、今しがた捏ね上げた生地の表面を、まるで絹織物のように優しく撫でている。
私は一人、作業台に突っ伏していた。
指先は熱を持ち、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに響いている。野いちごと山羊のミルク。王宮の禁忌を犯してまで手に入れた「命」を、今、生地の中に閉じ込めた。けれど、明日その蓋を開けたとき、そこに待っているのが栄光なのか、それとも追放なのか、リナには分からなかった。
「……怖いな」
ぽつりと漏れた独り言が、高い天井に吸い込まれて消える。
カトリーヌ様の、あの淀みのない完璧な笑顔。アルベルトさんの隣に立つ、あまりに相応しい姿。自分はただの、粉にまみれた街のパン屋でしかない。その事実が、夜の冷気と共にじわじわと肌を刺した。
カサ……。
静寂を破ったのは、微かな衣擦れの音だった。
驚いて顔を上げると、そこには月光を背負って立つ、一人の影があった。紺碧の礼装を脱ぎ捨て、白いシャツの襟を寛がせた姿。アルベルトさんだった。
「アルベルトさん……公務は、終わったんですか?」
「ああ。……どうしても、君の顔が見たくてね」
アルベルトさんは、ゆっくりと歩み寄り、私の隣に立った。彼の瞳には、深い疲労と、それ以上に隠しきれない情熱が宿っていた。彼は作業台に置かれた生地に目を留め、驚いたように眉を上げた。
「……これは、君が捏ねたのか? まるで、生地そのものが光を放っているようだ」
「……テオたちが届けてくれたんです。泥だらけになって、集めてきてくれた材料で」
私は、ベアトリス様に酵母を壊されてしまったこと、絶望の中にいた私を子供たちが救ってくれたことを、堰を切ったように話し始めた。話しているうちに、抑えていた感情が溢れ出し、視界がじわりと滲む。
「……私、カトリーヌ様が羨ましかった。彼女は、あなたの隣にいても、ちっとも揺るがない。キラキラしてて、完璧で。……私なんて、ただのパン屋です。あなたの世界を守る力なんて、何一つ持っていない」
アルベルトさんは、何も言わずに私の言葉を聞いていた。私は、震える声で続けた。
「……嫉妬してたんです。あなたの過去を知っている彼女に。あなたの未来を支えられる彼女に。……こんな醜い気持ちで焼くパンなんて、ちっともおひさまじゃないのに」
不意に、温かな、けれど力強い腕が私を包み込んだ。
アルベルトさんが、私を背後から抱きしめたのだ。彼の胸の鼓動が、背中越しにトクン、トクンと伝わってくる。
「……リナ。君は、自分の光を過小評価しすぎだ」
彼の低い声が、耳元で心地よく響く。
「カトリーヌは確かに完璧だ。彼女は、王宮という『形』を守る術を知っている。……けれど、私の心を、この凍てついた城の中で生かし続けてくれたのは、君が届けてくれたあのパンの温もりだけなんだ」
アルベルトさんは、私の肩に顎をのせ、窓の外に広がる王都の街並みを見つめた。
「君が路地裏でパンを配ったとき、私は怒った。……それは、君を失うのが怖かったからだけじゃない。君が見せつけた『真実』が、あまりに眩しくて、目を背けたくなったからだ。……私は王子でありながら、あの子たちの空腹を、君のように癒やすことができなかった」
彼は私を自分の方へ向かせ、その濡れた頬を大きな手で包み込んだ。ブルーグレーの瞳が、月光を反射してキラキラと揺れている。
「リナ。明日のコンテストは、君とカトリーヌの戦いじゃない。……この国に、どのような『光』が必要なのかを問う儀式だ。……私は、君が焼くパンを信じている。誰かのために涙を流せる、その不器用で温かな心を信じている」
「アルベルトさん……」
「約束してくれ。……結果がどうあろうと、君は君のままでいてほしい。私は、どんな宝石を散りばめたパンよりも、君の手から放たれるあの湯気を、世界で一番愛しているんだ」
アルベルトさんの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
リナは目を閉じ、彼の温もりを全身で受け止めた。
額に、そっと、羽が触れるような優しいキスが落とされる。それは誓いであり、祈りでもあった。
「……さあ、夜明けは近い。……最後の仕上げを始めよう。君のおひさまを、この王都に昇らせるんだ」
アルベルトさんは、私の手に自分の手を重ね、一度だけ強く握りしめた。
彼が去った後の厨房には、もう冷たい空気はなかった。
私の胸の中には、カトリーヌ様への嫉妬も、未来への不安も、すべてを焼き尽くすほどの、熱く黄金色の炎が燃え盛っていた。
私はオーブンの前に立ち、薪をくべた。
パチパチ……と、火の粉がキラキラと舞い上がる。
「見てて、アルベルトさん。……私のパンで、あなたの世界を、全部温めてみせるから」
東の空が、微かに紫がかり始める。
運命の日。
王宮の鐘が、朝の訪れを告げるために大きく鳴り響こうとしていた。




