第16話 奪われた魔法、泥のなかの勇気
審査を翌日に控えた王立厨房は、嵐の前の静けさに包まれていた。
窓から差し込む月光は、磨き上げられた白銀の調理台を冷たく照らし、高い天井からは夜の冷気が降りてくる。リナは、シスター・クラリスから託された木箱を抱え、薄暗い隅の作業台に立っていた。
(……この子たちがいれば、大丈夫。王都の冷たい空気だって、温かな魔法に変えられる)
木箱の中では、リンゴの皮から生まれた野生の酵母たちが、ぷくぷくと小さな、けれど力強い呼吸を繰り返している。それはリナにとって、故郷の町の太陽を閉じ込めたような、かけがえのない宝物だった。
しかし、運命は非情だった。
――ガシャンッ!!
静寂を切り裂くような、硬質な破壊音が響いた。
驚いて振り返った瞬間、そこには冷笑を浮かべた副料理長ベアトリス様と、数人の屈強な下級役人たちが立っていた。足元には、先ほどまで大切に温めていたはずの瓶が、無惨なガラスの破片となって飛び散っている。
「……あ、ああ……っ!」
リナは膝をつき、震える手で床に広がった琥珀色の液体を掬おうとした。けれど、生き生きとしていた酵母たちは、冷たい石畳に吸い込まれ、夜の闇に消えていく。
「何をするんですか……!これは、大切な……!」
「大切?笑わせないで。王宮の神聖な厨房に、そのような素性の知れぬ『泥水』を持ち込むなど、衛生管理への冒涜ですわ」
ベアトリス様は、磨き上げられた靴の先でガラス片を無造作に踏みつけた。不快な軋み音が、心に直接突き刺さる。
「明日、あなたが使うのは、この王室御用達の『白銀小麦』と、厳格に管理された『人工酵母』のみ。……それ以外の一切の使用は認めません。もし違反すれば、あなたの身分を保証している王妃様の顔に泥を塗ることになりますわよ?」
「そんな……!私のパンは、この子たちと一緒に焼かなきゃ、あのおひさまの味にならないんです……!」
「おひさま?寝言はベッドの中で仰ることね。……さあ、没収です」
役人たちがリナの籠を奪い取り、モリスさんの卵も、テオが届けてくれたバターも、すべて持ち去っていった。残されたのは、窓のない冷たい壁と、指を切るようなガラスの破片。そして、自分ではコントロールできない「完璧すぎる」王宮の材料だけだった。
一人残された厨房で、リナは暗い床に額をつけ、声を殺して泣いた。
指先にはまだ、先ほどまで抱きしめていた酵母の、微かなリンゴの香りが残っている。
(ごめんなさい、シスター。ごめんなさい、アルベルトさん。私……もう、どうすればいいか分からない……)
希望という名の火が、吹き消されようとしていた。
その時だった。
「……おねえちゃん、泣かないで」
厨房の排気ダクトの奥から、聞き慣れた小さな声がした。
驚いて顔を上げると、そこには煤だらけの顔に瞳をキラキラと輝かせたテオと、彼に従う数人の下町の子供たちがいた。彼らは、王宮の警備の隙を突き、ネズミのように入り組んだ通路を抜けてやってきたのだ。
「テオ……!?どうしてここに……」
「おねえちゃんがピンチだって、シオンが言ってたんだ。『あいつの魔法が消えかかってる、助けるなら今だよ』って!」
「シオンさんが……?」
テオはボロボロのシャツの懐から、大切そうに包まれた「何か」を取り出した。
それは、泥にまみれた、けれど力強く根を張った野生の野いちごと、小さな瓶に詰められた、まだ温かな『絞りたての山羊のミルク』だった。
「これ、みんなで集めたんだ。王都の外れにある、陽の当たる崖っぷちに生えてたんだよ。おねえちゃんのパンに、これを使ってほしいって!」
「でも、これは王宮のルールで……」
「ルールなんて、お腹を空かせた僕らには関係ないよ!おねえちゃんのパンは、僕らの光なんだ。……だから、お願い。もう一度、笑ってパンを焼いて!」
子供たちが差し出した、泥だらけの手。その手のひらにあるのは、高級な金銀の飾りよりもずっと尊い、純粋な「祈り」だった。
リナは、涙を拭った。
心の中に、再び熱いものが込み上げてくる。
(そうだ。道具や材料が奪われても、私の中にある『想い』までは奪えない。……シスターが言っていた。最も強い光は、最も深い闇の中でこそ輝くって)
リナは立ち上がり、テオたちが持ってきてくれた野いちごを手に取った。
指先に触れる野生の生命力。それは、王宮の洗練された美しさとは違う、泥の中から立ち上がる強靭なキラキラだった。
「……ありがとう、テオ。みんな。私、焼くよ。……世界で一番、温かいパンを」
リナは、ベアトリスが置いていった『白銀小麦』をボウルに開けた。
最高級の粉。けれど、そこには命の香りが足りない。リナは迷わず、奪い取られた酵母の代わりに、野いちごの果皮に付着した天然の菌と、山羊のミルクを混ぜ合わせた。
――トントン、ギュッ、ギュッ……。
静まり返った厨房に、再び生地を捏ねる音が響き渡る。
今度の音は、迷いがない。
リナの指先から伝わる熱が、冷たかった白銀の粉を少しずつ溶かし、命を吹き込んでいく。生地は、まるで外で元気に遊ぶ子供たちの笑い声に応えるように、柔らかく、しなやかに歌い始めた。
「……見て、おねえちゃん!生地が光ってる!」
テオが驚きの声を上げる。
月光の下で、リナが捏ねる生地が、微かに真珠のような輝きを放ち始めたのだ。それは、素材の良し悪しを超えた、リナの祈りが物質化したような、不思議な光だった。
厨房の入り口で、その様子を影からじっと見守る人影があった。
鋭い三白眼を細め、シオンは小さく独り言を漏らした。
「……ふん。世話が焼けるわね。泥にまみれて、やっと本物の光になったってわけ。……面白くなってきたじゃない」
夜が明ければ運命の審査が始まる。
王都全体が、まだ見たことのない『黄金の祝福』の訪れを、固唾を呑んで待っていた。




