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おひさまパンと亜麻色の髪 〜不器用な王子は、パンの湯気に恋をする〜  作者: 初 未来
第二章〜宮廷の宝石パンと、街角のおひさま〜

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第15話 シスター・クラリスの「祈りの酵母」

 路地裏から連れ戻された私を待っていたのは、窓のない地下の貯蔵庫での「小麦粉の選別」という名の罰だった。


 カラン、カラン……。


 冷たい石壁に、私が粉を振るう音だけが虚しく響く。


「王家の慈悲を汚した罰です。明日の朝までに、この十袋の粉から不純物を一粒残らず取り除きなさい」


 副料理長ベアトリス様は、そう言い捨てて、重い鉄の扉に鍵をかけた。


 真っ暗な部屋。手元のランプだけが、埃の舞う空気を頼りなげに照らしている。

 

(アルベルトさん……どうして、あんなに怒ったの?)


 彼が見せた、あの氷のような瞳。私を路地裏から引き離そうとした時の、強引な力。


 信じていたはずの彼との間に、音を立てて深い溝が刻まれていくような気がして、胸の奥が冷たく震えた。私は、彼が守る「王都」の一部にはなれないのだろうか。


 ――カチリ。


 不意に、鍵が開く音がした。


 扉の隙間から滑り込んできたのは、見覚えのある銀色のマント。アルベルトさんだった。


「アルベルトさん……?どうして……」


「静かに。……リナ、昼間はあんな言い方をして済まなかった。……君を、失うのが怖かったんだ」


 彼は私に駆け寄り、粉で白くなった私の肩を強く抱き寄せた。その声は微かに震えていた。王都の地下では、今、過激な選民思想を持つ貴族たちが、下町の人々を排斥しようと動いている。リナがそこに深入りすれば、彼女の身に何が起こるか分からない――彼は、私を「政治」という名の闇から必死に隠そうとしていたのだ。


「今の私には、君を公然と守る力がない。……けれど、君のパンが持つ『光』だけは、誰にも消させたくないんだ」


 彼は私の手に、一枚の小さな銀のメダルを握らせた。そこには、慈愛の女神の紋章が刻まれている。


「王都の北に、古い修道院がある。そこに、私の乳母だった女性がいるんだ。……彼女なら、今の君に必要なものを教えてくれるはずだ」


 アルベルトさんの手引きで、私は夜霧に紛れて王宮を抜け出した。


 たどり着いたのは、深い森に抱かれた、蔦の絡まる小さな石造りの修道院だった。


「あら。おひさまの匂いがする子が、本当にやってきたわね」


 出迎えてくれたのは、柔らかな灰色の修道服を纏った、穏やかな微笑みの女性だった。シスター・クラリス。彼女の瞳は、まるで深い湖のように澄んでいて、見つめられるだけで心が洗われるようだった。


「アルベルトから話は聞いているわ。王都の『重い水』に、あなたのパンが戸惑っているのでしょう?」


 彼女に案内されたのは、修道院の裏手にある、小さな温室だった。


 そこには、見たこともないような透明な瓶がいくつも並び、その中では琥珀色の液体が、ぷくぷくと小さな泡を立てていた。


「見てごらんなさい、リナ。これが、私たちの修道院で数百年守られてきた『祈りの酵母』よ」


 私が瓶を覗き込むと、その泡の一つひとつが、月明かりを浴びてキラキラと真珠のように輝いていた。


「酵母はね、ただの材料じゃないの。生きているのよ。光を食べ、空気と話し、焼く人の心の温度を感じて膨らむの。……王都のパンが冷たく感じるのは、みんな『完璧』という名前の凍った檻に、この子たちを閉じ込めているからなのよ」


 シスター・クラリスは、慈しむような手つきで瓶を撫でた。


「リナ。あなたは、路地裏で子供たちにパンを分けた時、何を思ったかしら?」


「私は……。ただ、あの子たちの震える手が温まればいいなって。……明日も、笑ってほしいなって、それだけを」


「それが『光』よ。……技術や設備じゃない。誰かの明日を祈るその心が、酵母に魔法をかけるの」


 彼女は私に、一つの小さな木箱を差し出した。


 中には、修道院の庭で採れた野生のリンゴと、透き通った水で仕込まれた、生まれたての酵母が入っていた。


「この子たちは、あなたの『おひさま』のような心に、きっと応えてくれるわ。……王都の水が硬いなら、この子たちの生命力で溶かしてしまいなさい」


 私は木箱を大切に抱きしめた。


 箱の中から伝わってくる、微かな温もりと、パチパチという小さな鼓動。それは、私の店で聞いた『天使の拍手』と同じ音がした。


「ありがとうございます、シスター。私……もう一度、向き合ってみます。王都という場所と、私自身のパンと」


「ええ。……リナ、覚えておいて。最も強い光は、最も深い闇の中でこそ、美しく輝くものなのよ」


 修道院を後にする私の背中に、夜明け前の冷たい風が吹きつける。


 けれど、私の胸の中には、消えることのない温かな種火が宿っていた。


 王宮に戻ると、厨房の空気は一変していた。


 審査のお題が発表されていたのだ。


 ――『王国の未来を照らす、黄金の祝福』。


 それは、カトリーヌ様が得意とする、最も華やかで、最も贅沢な「美の競演」を意味していた。


 ベアトリス様が、私の戻りを待ち構え、冷酷な笑みを浮かべる。


「戻りましたか、逃げ腰の職人さん。……審査では、王都のギルドが管理する最高級の『白銀小麦』以外の使用は一切禁じられます。あなたの持ってきた、その泥臭い材料はすべて没収ですわ」


 没収。それは、テオが届けてくれたモリスさんの卵も、バターも、すべて使えないことを意味していた。


 絶望が再び襲いかかる。けれど、私はドレスのポケットの中で、シスターから託された小さな木箱を握りしめた。


(……まだ、魔法は消えていない。私には、この『命の輝き』がある)


 リナの瞳に、王都に来てから初めて、揺るぎないキラキラとした炎が灯った。


 それは、嵐の前触れのような、静かで、けれど熱い光だった。

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