第14話 路地裏の『キラキラ』の正体
私は王宮の勝手口から外へ出た。そこには見上げるような白亜の城壁がそびえ立っていた。
私は、少年――テオの後を追って細い坂道を下っていくと、石畳の隙間から雑草が顔を出し、湿った風が路地の奥から吹き抜けてくる。そこは、王妃様やカトリーヌ様が語る「美しい王都」とは、まるで別の顔をしていた。
「おねえちゃん、こっちだよ!足元、気をつけて」
テオは泥だらけの靴で器用に瓦礫を飛び越えていく。彼が案内してくれたのは、高い城壁の影に隠れるようにして軒を連ねる、古びたレンガ造りの長屋が集まる場所だった。
そこには、豪華な馬車も、銀の装飾も、着飾った貴婦人もいない。
代わりにあったのは、洗濯物を干す母親たちの逞しい腕や、路地裏で石蹴りに興じる子供たちの笑い声。そして、何よりも鼻を突くのは、生活の匂いだった。
「テオ!おかえり!……あら、そのお嬢さんは?」
長屋の入り口で座り込んでいた痩せた女性が、不思議そうに私を見た。テオは自慢げに胸を張り、私が持ってきたバスケットを指差した。
「お城のパン職人のおねえちゃんだよ!すごいんだ、お日様の匂いがするパンを焼くんだよ!」
テオの声に、路地のあちこちから子供たちがひょこひょこと顔を出した。みんな、頬は煤けていて、服は継ぎ接ぎだらけ。けれど、私を見つめるその瞳だけは、暗い路地裏で星のようにキラキラと輝いていた。
「……パン、あるの?」
「お腹、空いたなぁ……」
小さな女の子が、私のお仕着せのスカートの端をそっと掴んだ。その指先が震えているのを見て、私の胸は締め付けられるように痛んだ。
王宮では、最高級の小麦粉が山のように積まれ、少し形が悪いだけで不合格として捨てられていた。カトリーヌ様の焼くダイヤモンドのようなクロワッサンは、一口で金貨一枚分もするような贅沢品だ。
けれど、そのすぐ足元では、たった一片のパンを求めて瞳を輝かせる子供たちがいる。
「……あるよ。たくさんじゃないけれど、みんなで分けて食べて」
私は、テオに託されたモリスさんの卵とバターを使い、厨房の隅っこでこっそり焼いた『丸パン』を取り出した。王宮の洗練されたパンに比べれば、不恰好で、色も少し濃い。けれど、まだほんのりと温かさを保っている。
パンを割った瞬間、真っ白な湯気がふわりと路地に広がった。
朝日が建物の隙間から差し込み、その湯気の粒子を黄金色に染め上げる。
「わあ……! キラキラしてる!」
「いい匂い……お花畑みたいだ!」
子供たちは歓声を上げ、分け与えられたパンを大切そうに両手で包み込んだ。
ひと口、ふた口。
咀嚼するたびに、子供たちの顔に血色が戻り、曇っていた表情が魔法にかかったようにパッと明るくなる。
「おいしい……おねえちゃん、ありがとう!」
「これ、魔法のパンだね。元気が出てきたよ!」
その笑顔を見た瞬間、私の心のなかにあった迷いの霧が、一気に晴れていくのが分かった。
(ああ、そうか……。私が探していた『キラキラ』は、銀の食器の上にはなかったんだ)
王妃様を喜ばせるためでも、カトリーヌ様に勝つためでもない。
私は、この路地裏に差す一筋の光になりたかったんだ。お腹を空かせた子が笑い、疲れた大人が明日も頑張ろうと思えるような、そんな「生きるための温もり」を焼きたかったんだ。
「おねえちゃん、どうしたの?泣いてるの?」
テオが心配そうに私の顔を覗き込んだ。私は慌てて目元を拭い、最高の笑顔を彼に向けた。
「ううん、嬉しいの。……テオ、教えてくれてありがとう。私、自分が何をすべきか、やっと分かったよ」
私は立ち上がり、高くそびえる王城を見上げた。
あの頂には、アルベルトさんがいる。彼は、この路地裏の光景を知っているのだろうか。彼が守ろうとしている「国」には、この子たちの笑顔も含まれているのだろうか。
その時、路地の入り口に、一際大きな影が落ちた。
銀色の鎧が、汚れた路地裏で不自然なほど冷たく光る。
「……こんなところで何をしている、リナ」
聞き慣れた、けれど今までで一番厳しい声。
アルベルトさんだった。
彼は騎士たちを従え、眉間に深い皺を寄せて私を凝視していた。その隣には、扇で鼻を押さえ、嫌悪感を隠そうともしないカトリーヌ様の姿もあった。
「アルベルト様、やはりこちらにいらっしゃいましたわ。……信じられません。王妃様のお客人が、このような不衛生な掃き溜めで、あろうことか『毒』とも知れぬ食べ物を配り歩くなんて」
カトリーヌ様の言葉に、子供たちが怯えてテオの背後に隠れた。
アルベルトさんは私に歩み寄り、私の手首を強く、けれどどこか震える手で掴んだ。
「リナ、ここは君が来るべき場所じゃない。……王都の治安は、君が思っているほど甘くないんだ。何かあったらどうするつもりだ!」
「……アルベルトさん、聞いてください。この子たちは……」
「言い訳は無用だ!戻るぞ。君の居場所は、王宮の厨房だ」
アルベルトさんの声は怒りに満ちていたけれど、その瞳の奥には、私への「軽蔑」ではなく、もっと深い「恐怖」のようなものが混じっているように見えた。
彼は、私をこの場所から引き離そうと急いでいる。まるで、ここにある「真実」を私に見せたくないかのように。
「……行きます。でも、一つだけ言わせてください」
私は、彼の手を振り払うことなく、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「私の居場所は、場所で決まるんじゃありません。私のパンを待ってくれている人がいる場所、そこが私の居場所です。……カトリーヌ様、これは毒ではありません。この子たちの、明日への力です」
カトリーヌ様は、私の強い眼差しに一瞬だけ怯んだように見えた。けれどすぐに、冷ややかな笑みを浮かべて言い放った。
「威勢がいいことですわね。……けれど、コンテストで勝てなければ、あなたの言葉はすべて『負け犬の遠吠え』に過ぎませんのよ?」
連れ戻される馬車の中で、私は拳を握りしめた。
窓の外、遠ざかっていく路地裏。
テオがずっと手を振っていた。その小さな手のひらが、夕陽を浴びてキラキラと輝いている。
(待ってて、テオ。みんな。……私、必ず、この街中をおひさまの匂いでいっぱいにしてみせるから)
王宮に戻った私を待っていたのは、さらに陰湿さを増したベアトリス様の「特別教育」と、コンテストのルールを根底から覆すような、絶望的な通達だった。




