第13話 沈黙する生地、曇った瞳
王宮の夜は、街のそれよりもずっと深い闇に閉ざされていた。
高い窓から差し込む月光は、冷たい石畳を青白く照らし、静まり返った厨房に並ぶ銀の調理器具を、まるで眠れる刃物のように不気味に輝かせている。
――トントン、ギュッ、ギュッ……
一人、隅っこの作業台で生地を捏ねる音だけが、虚しく響いていた。
カトリーヌ様が立ち去った後も、私はずっとここにいた。オーブンの余熱が消え、足元の冷え込みが芯まで染みてきても、私の指先は頑なに動くことを拒んでいた。
「……どうして。どうして、膨らんでくれないの」
目の前にあるのは、無惨に潰れた、粘土のように重たい生地の塊。
王都の『硬い水』。それは、私の知っているお日様を含んだあの柔らかな水とは違い、指先に刺さるような冷徹さを持っていた。どれだけ捏ねても、どれだけ「美味しくなれ」と魔法の呪文を唱えても、生地は私の言葉を理解してくれない。まるで、この街そのものが「お前のような田舎者は、ここには相応しくない」と拒絶しているかのようだった。
カトリーヌ様の焼いた、あのダイヤモンドのようなクロワッサン。
アルベルトさんが向けた、あの賞賛の眼差し。
思い出すたびに、胸の奥がキリキリと音を立てて軋んだ。私の焼く『おひさまパン』は、ただの野暮ったい、重たいだけの塊だったのだろうか。
「……ふん。そんな湿った顔で生地を触るなんて、職人の風上にも置けないね」
不意に、背後から突き刺すような声がした。驚いて振り返ると、調理台の影から一人の少女がゆっくりと歩み寄ってきた。
短く切り揃えられた黒髪。鋭い三白眼。ボーイッシュな服装の彼女の腰には、使い込まれた大きなナイフがぶら下がっている。彼女こそ、東方の国からやってきた天才パン職人と噂される少女、シオンだった。
「シオン、さん……。まだ、いらしたんですか?」
「私のことはどうでもいい。それより、あんたのその手。……迷いすぎて、生地に毒が回ってるよ」
シオンさんは私の作業台まで来ると、鼻で笑って生地を指先で突いた。
「祈ればパンが膨らむなんて、本気で信じてるわけ?笑わせないでよ。パンは化学と技術、そして圧倒的な個性の結晶。あんたのパンには、何もない。ただの『誰かの真似事』よ」
「真似事なんかじゃ……!私は、街のみんなに喜んでもらいたくて……」
「それが甘いって言ってるの。ここは王宮。世界中から最高が集まる場所。そんな生温い『優しさ』なんて、一噛みで噛み砕かれるだけ。……あんたの瞳、曇ってるよ。そんな目じゃ、火の加減も水の機微も見えやしない」
シオンさんはそれだけ言い残すと、流れるような動作で自分の作業台へと戻っていった。彼女が捏ね始めた生地は、まるで生き物のように彼女の指に吸い付き、夜の空気のなかでパチパチと弾けるような音を立てていた。
私は、その場に崩れ落ちそうになった。
ベアトリス様の冷遇、カトリーヌ様の完璧さ、そしてシオンさんの痛烈な批判。
王都の輝きは、私にとってあまりに鋭すぎて、私の心の柔らかい部分を容赦なく削り取っていく。
(……帰りたい。街に戻って、ナナやモリスさんの顔が見たい。……アルベルトさん、私、やっぱりここには……)
涙が一粒、石畳に落ちて、キラリと月光を弾いたその時。
厨房の勝手口の重い扉が、ギィ……と小さな音を立てて開いた。
そこから覗いたのは、昼間見かけたあの煤けた顔の少年だった。
「……おねえちゃん、まだいたの?」
少年の声は、掠れて小さかった。彼は大きな籠を抱え、ひどくお腹を空かせたような顔をしていた。
「君は……。どうしたの、こんな夜中に」
「……これ、届けに来たんだ。モリスのおじさんに頼まれて、街から……こっそり置いていくつもりだったんだけど」
彼が差し出した籠の中には、泥にまみれた、けれど力強い生命力を感じさせる黄金色の卵と、しっとりとした発酵バターが詰まっていた。それは、モリスさんが私に内緒で、信頼できる下町の運び屋の少年に託したものだった。
「モリスさんが……。わざわざ、これを?」
「うん。……でも、おねえちゃん。その……」
少年の視線が、私の作業台の上にある失敗作の生地に吸い寄せられた。
――ギュルルルゥ……
静かな厨房に、少年の盛大な「お腹の音」が響いた。彼は真っ赤になって顔を伏せた。
「あ、ごめん……。三日、何も食べてなくて。……パンの香り、お城の外までいい匂いがしてたから、つい……」
私は、ハッとした。
三日も。この煌びやかな王宮のすぐ足元で、こんなに小さなお腹を空かせた子がいたなんて。
私は迷わず、失敗作の生地を丸めて、予熱の残っていた小さなオーブンに放り込んだ。失敗作でも、火を通せば温かい食べ物になる。
「待ってて。今、温めてあげるから」
数分後。香ばしい匂いが立ち上り、不恰好なパンが焼き上がった。私はそれを半分に割り、湯気が立ち上るそれを少年に手渡した。
「ほら、食べて。熱いから気をつけてね」
少年は、おそるおそるパンを口に運んだ。
ひと口、噛み締めた瞬間。
「…………っ!!」
少年の瞳に、キラリと光るものが溜まった。
「……おいしい。おねえちゃん、これ、すごくおいしいよ……。お日様の味がする。凍えてた身体が、急にポカポカしてきた……」
少年は、喜んでパンを頬張った。その顔は、今日私が出会ったどんな高貴な人々よりも、ずっと輝いて、キラキラして見えた。
「……お日様の、味?」
その言葉が、私の胸の奥に眠っていた「何か」を激しく揺さぶった。
そうだ。私が焼きたいのは、誰かと競うための宝石じゃない。凍えている人を温め、お腹を空かせた人を笑顔にする、あの街の『おひさま』なんだ。
王都の水が硬いなら、それを受け入れればいい。王都の空気が冷たいなら、私がその分、生地に情熱を込めればいい。
指先に残る生地の重みが、急に温かな鼓動へと変わっていくのを感じた。
窓から差し込む朝の一筋の光が、少年の頬を、そして私の作業台を照らし出した。その光の粒子が、真っ白な湯気と混ざり合い、キラキラと空中に舞い踊る。
「……ありがとう、君。私、目が覚めた気がする」
私は籠の中から、モリスさんの届けてくれた卵を手に取った。
黄金色の殻が、朝日に反射して眩しく輝いている。
シオンさんが遠くで、こちらをじっと見つめているように感じたけれど、今の私にはもう、迷いはなかった。
「さあ、お寝坊な王都の人たちを、本当の意味で起こしに行こう!」
私はエプロンをきゅっと結び直し、再び捏ね台に向き合った。
王都の風が、厨房のカーテンを激しく揺らす。
それは、物語が大きく動き出す、希望の予感に満ちた音だった。




