第12話 赤髪の令嬢
王立第一厨房の朝は、私の店とは正反対の音で満ちていた。
石造りのオーブンに薪をくべる爆ぜる音や、近所の子供たちが窓を叩く声はない。代わりに響くのは、磨き上げられた銀のボウルが触れ合う硬質な音と、蒸気オーブンから噴き出すシュウウウ……という無機質な排気音。そして、副料理長ベアトリス様の鋭い叱咤だけだ。
「手が止まっていますよ、リナさん。ここはあなたの町の広場ではありません。夢想に耽る暇があるなら、その粗野な手で粉を量りなさい」
ベアトリス様の眼鏡の奥にある瞳は、常に私の手元を監視していた。私が故郷から持ってきた、少し粒の粗い地元の小麦粉。それを彼女は、汚物でも見るかのように一瞥した。
「……そんな雑じり気のある粉で、王妃様に捧げる『聖なるパン』を焼くつもりですか? 伝統あるコンテストを侮辱するのも大概になさい」
私は、ぎゅっと唇を噛み締めた。この粉は、モリスさんが汗を流して育てた、大地の味がする大切な粉だ。けれど、周囲の職人たちが使っているのは、雪のように白く、不純物を一切取り除いた王宮専用の最高級粉。それと並べると、私の粉は確かに、茶色く煤けた「土の塊」に見えてしまった。
(負けない。私は、この粉の美味しさを知っているんだから……)
自分に言い聞かせ、生地を捏ね始める。けれど、王都の水は驚くほど冷たく、そして「重い」。いつものリズムで捏ねても、生地は頑なに心を開かず、指先に伝わる弾力はどこか拒絶するように硬い。
その時、厨房の重厚な扉が左右に開かれた。
「――皆様、お勤めご苦労様ですわ」
凛とした、けれどどこか甘やかな声が広い厨房に響き渡った。
職人たちが一斉に作業を止め、最敬礼で迎える。現れたのは、燃えるような赤髪を緩やかな縦ロールに結い上げ、真珠を散りばめた淡い水色のドレスを纏った少女。カトリーヌ・ド・ロシュフォール公爵令嬢だった。
彼女は、まるで光そのものを引き連れているかのようだった。彼女が歩くたびに、ドレスの裾がキラキラと揺れ、周囲の空気さえも華やかに色づいていく。
「カトリーヌ様、本日の試作を承っております」
ベアトリス様が、私に向けたものとは別人のような恭しい態度で頭を下げた。カトリーヌ様は優雅に頷くと、私のすぐ隣にある、一段高く設えられた特別な調理台へと向かった。
「……あら、あなたが例の?」
カトリーヌ様の視線が、私の足元からゆっくりと上がってきた。彼女の瞳は、燃えるような情熱と、絶対的な自信に満ちた真紅の色をしていた。
「リナ……と仰いましたかしら。アルベルト様から伺っておりますわ。地方の素朴な味わいを守る、健気な職人さんだと」
「……リナです。よろしくお願いします」
私が精一杯の挨拶をすると、彼女はふふ、と扇で口元を隠して笑った。
「よろしくお願いします、だなんて。ここは戦場ですのよ?……見せて差し上げますわ。王宮に相応しい『完璧』が、どのようなものかを」
彼女は優雅にフリルの美しいエプロンを纏い、自ら迷いのない手つきで生地を取り出した。その手は、職人のそれというよりは、繊細な弦楽器を奏でる演奏家のようにしなやかだった。彼女が焼こうとしているのは、王都の伝統を象徴するパン『クリスタル・クロワッサン』。
カトリーヌ様の動きには、一分の無駄もなかった。バターを折り込む手つきは正確無比で、生地が層を成していくたびに、その表面が鏡のように光を反射し始める。
「見て、あの層の美しさを……」
「まるでお砂糖の細工物のようだ。これこそが、王国の品格だ」
周囲の職人たちから感嘆の声が漏れる。
やがて、彼女がオーブンに天板を入れると、厨房に信じられないほど濃厚で、華やかな香りが広がった。それは、お日様の匂いというよりは、バラの香油を混ぜ込んだかのような、陶酔を誘う贅沢な香り。
――チリンッ
小さな銀の鈴が鳴り、焼き上がりが告げられる。
オーブンから取り出されたクロワッサンは、外側の皮が極薄のガラス細工のように何層にも重なり、朝の光を浴びて、ダイヤモンドのようにパチパチと輝いていた。
「……綺麗」
思わず、独り言が漏れた。
私の焼くパンは、ずっしりと重く、食べる人を安心させる黄金色。けれど彼女のパンは、今にも空へ飛び立ちそうなほど軽やかで、近寄りがたいほどの神々しさを放っている。
「召し上がって見てはいかが?地方では一生お目にかかれない味でしょうから」
カトリーヌ様が差し出した一片を、私はおそるおそる口にした。
瞬間、頭の中で火花が散った。
サクッ……という繊細な音と共に、口の中で生地が雪のように溶けていく。溢れ出す最高級バターの甘みと、洗練された小麦の香りが、舌の上で優雅なダンスを踊っているようだった。
(……すごい。美味しい……けれど、なんだか「遠い」味がする)
あまりの完成度に、私は自分の捏ねていた生地が、ひどく不恰好な泥の塊のように思えてしまった。指先に残る地元の粉の感触が、今はただ、重荷のように感じられる。
「アルベルト様は、優しすぎるお方です。……あなたのパンを『温かい』と仰ったのは、ただの気まぐれ。王を支え、民を導く者が必要としているのは、この一分の隙もない『完璧な光』なのですわ」
カトリーヌ様の言葉が、鋭いトゲのように胸に刺さった。
彼女は、私の後ろに立つアルベルトさんの存在に、誰よりも早く気づいていた。
「アルベルト様!ちょうど焼き上がりましたの。いかがかしら?」
厨房の入り口に、アルベルトさんが立っていた。
彼はカトリーヌ様に促され、彼女のクロワッサンを一口食べた。
「……素晴らしいな、カトリーヌ。君の技術は、また一段と磨きがかかったようだ」
その賞賛の言葉に、カトリーヌ様は満足げに微笑み、私の横を通り過ぎた。その際、彼女のドレスから漂ったのは、アルベルトさんの好きなインクの香りを打ち消すような、強い香水の匂い。
アルベルトさんは、私の方を向き、何かを言おうとした。けれど、セバスさんがそれよりも先に声をかけた。
「殿下、本日の公務の時間でございます。市場の査察報告が溜まっておりますゆえ」
「……ああ、分かっている。……リナ。無理はしないでくれ」
彼はそれだけ言い残すと、カトリーヌ様と共に厨房を去っていった。
二人の後ろ姿は、朝の光に溶け込み、まるで最初から一つの完璧な絵画であったかのように調和していた。
残されたのは、隅っこの暗い作業台と、一度も膨らまなかった私の生地。
私は、震える手でその生地を握り潰した。
「……お水が、歌ってくれない」
窓のないこの厨房では、太陽の光さえも、冷たい銀の調理台に反射して歪んで見える。
私のキラキラは、ここでは通用しないのだろうか。
涙が生地に落ちそうになったその時。厨房の裏口から、小さな、けれど必死な視線を感じた。
そこにいたのは、煤けた顔をした、一人の少年だった。
彼が抱えていたのは、王宮のきらびやかさとは対極にある、泥にまみれた「何か」だった。




