8話
数日後。
ルチアは新しい普段着に身を包み、屋敷の廊下を心軽やかに拭き掃除していた。
磨き上げた床に映る自分の笑顔を見て、ルチアはここ数日のドタバタな出来事をふと思い出す。
(バケツひっくり返しちゃった時も、お皿割っちゃった時も、書斎の剥製と格闘しちゃった時も、一度も怒らなかった……。あの恐ろしいお顔で拭き掃除が甘いとかスープが不味いなんて一度も言わないで、毎日綺麗に全部食べてくれる……)
かつて奴隷市場で刷り込まれた「少しの失敗で即処分」という絶望的な恐怖は、この数日間の穏やかな日々の中で、ゆっくりと、だが確実に薄れつつあった。
(あのお方は……本当は、私を解体したり売り飛ばしたりするつもりなんて、最初からなかったのかもしれない……)
そんなことを考え始めていた矢先、玄関の重厚なドアノブが鳴り、仕立て屋からの使者が一つの大きな木箱を届けてきた。
「ルチア、来い。仕上がったそうだ」
ヴォルガンはホール脇の応接テーブルの上に箱を置くと、不器用に蓋を開けて中身を取り出した。
「これ……は……っ!?」
ルチアの瞳が、驚きで大きく見開かれた。
そこにあったのは、ルチアの小柄な体型に寸分違わずぴったり収まるように作られた、美しく上品なデザインのメイド服だった。手触りの良い高級な生地、丁寧に畳まれた真っ白なエプロン。
そして何より——胸元には、繊細かつ力強い金糸で、ヴォルフ家の誇り高き家紋が鮮やかに刺繍されていた。
「お前はもう我がヴォルフ家の正式なメイドだ。……今日からは、これを着て働け」
ヴォルガンは腕を組み、気恥ずかしさを隠すようにフンと鼻を鳴らした。
「……それに、その家紋をつけていれば、今後お前が一人で街を歩くことがあっても、誰も変なちょっかいを出したり差別的な目を向けたりできなくなる。俺の庇護下にある人間だと、一目で分かるからな」
「あ……ぁ……っ」
その言葉を聞いた瞬間、ルチアの中で残っていた最後の「勘違い」のピースが、カチリと音を立てて繋がった。
傷口に塗りたくられた、痛いほど雑で下手くそな軟膏。
ゆるゆるでミイラみたいになった包帯。
指に包帯を巻きつけて作った、焦げて生煮えの不味い朝食。
壁の陰から、目を血走らせて見守っていた廊下の拭き掃除。
そして、この胸元に輝く家紋という名の盾。
(あの怪しい軟膏も、包帯も、朝食も……全部、私を酷い目にあわせるためじゃなくて……不器用なりに、必死で私を助けようとしてくれていただけ……っ! 監視していたのも、私の怪我を心配してくれていただけなんだ……!)
冷酷な怪物だと思っていた男の、あまりにも不器用で、あまりにも過剰な優しさの全てが、ルチアの胸の中に一気に押し寄せてきた。
「ご主人様……っ、わたし……っ、わたし、ずっと……っ!」
「ん? どうした」
「……あなたのこと、とっても恐ろしい化け物様だと思って、勘違いしていました……っ!!」
「……なんだと?」
ポロポロと大きな涙を溢れさせながら、正直すぎる告白をするルチア。
ヴォルガンは眉間のシワを最大限に深めたが、ルチアはもう怯えなかった。その眉間のシワが、単なる照れ隠しと不器用さの現れなのだと、今の彼女にははっきりと分かったからだ。
「手当も、お料理も……全部、すごく下手くそで恐ろしかったけど……っ! ご主人様が、世界でいちばん優しいお人だって……やっと分かりました……っ!」
「下手くそは余計だ……」
ヴォルガンはバツの悪そうな顔をしてそっぽを向いたが、その耳たぶは赤く染まっていた。
ルチアは胸元に刺繍された家紋を愛おしそうにぎゅっと抱きしめ、涙を拭って、恐怖の欠片もない心からの満面の笑みを咲かせた。
「ありがとうございます、ご主人様! わたし、今日から一生懸命、この屋敷のメイドとしてお仕えしますっ!」
「……ああ。頼むぞ、ルチア」
ヴォルガンは大きな手をルチアの頭の上にそっと置き、優しく、本当に優しく髪を撫でた。
すれ違いと勘違いだらけだった二人の間に、ようやく本物の「絆」と「温かな日常」が芽生えた瞬間だった。




