4話
脱衣所の冷たい床の上で、ルチアは極限の恐怖に体を強張らせていた。
ヴォルガンは巨大で無骨な手を不器用に動かし、緑色の怪しい軟膏を指先にとると、少女の傷だらけの脚や腕へと塗りたくり始めた。ベタリとした冷たい感触が肌を滑る。
(あ……あぐ……っ)
痛みを紛らわせるような優しさなど微塵も感じられない、あまりにも不慣れで雑な手つき。だが少女の脳内では、まったく別の恐怖へ変換されていた。
(毒だ……ッ。肉を柔らかくするため……? それとも、悲鳴を上げさせないために感覚を麻痺させる毒……!?)
さらにヴォルガンは、真っ白な包帯を手に取ると、少女の手足にグルグルと幾重にも巻き付け始めた。
(動けないように……固縛されている……ッ。身動きを封じられて……最後に、あそこに入っている刃物で解体されるんだ……!)
革カバンの奥でギラリと怪しい光を放つメスやノコギリ。少女の視線はそこに釘付けになり、死へのカウントダウンを刻む心臓の音が耳元で激しく鳴り響いていた。
そんな少女の絶望的な視線に気づくこともなく、ヴォルガンは無骨な手で包帯を巻き続けながら、不意に重低い声を絞り出した。
「……そういえば、まだ聞いていなかったな」
「……っ!?」
「お前、名前は何という」
死を目前にした問いかけ。少女の背筋を冷たい汗が伝う。
(死ぬ前に……標本としての名前を記録されるんだ……ッ)
声を出せば切り刻まれるかもしれない。しかし、答えなければ今すぐ喉元を掻き切られるかもしれない。少女はガタガタと震える唇を必死に動かし、消え入りそうな声で言葉を漏らした。
「……ル、ルチア……っ」
「ルチアか」
ヴォルガンは深く頷き、その名を胸に刻むように一度呟いた。
それから数分後。
出来上がったのは——身体の至る所にゆるゆるの包帯が歪に巻き付けられた、まるで半分のミイラのようなルチアの姿だった。
手当ての経験などほとんどないヴォルガンなりに必死に巻いたものの、お世辞にも上手とは言えない仕上がりだ。自分の不器用さに内心噛みつきつつも、これ以上下手に触ってルチアを怯えさせるわけにもいかない。
ヴォルガンは眉間のシワを深め、フンと鼻を鳴らすと、乱暴に立ち上がった。
「……あとは自分でやれ」
そう言い捨てると、大柄なシャツを脱衣所の台に残し、重い足音を立てて脱衣所から出て行ってしまった。
「……え……?」
残されたルチアは、ゆるく巻き付けられた包帯と、緑色の軟膏が塗られた自分の身体を見つめ、ただただ困惑した。
(切られない……? 解体されないの……?)
大きすぎるヴォルガンのシャツを身に纏い、恐る恐る脱衣所を出たルチアは、暖炉のある広い厨房へと辿り着いた。
そこでは、ヴォルガンが一人で大鍋に向かい、必死な手つきで何かを温め直していた。
一か月間のユウキュウに入る際、屋敷の料理人が最後の仕事にと作っていった豪華な肉スープだ。
だが普段料理など一切しないヴォルガンは火加減を誤り、鍋の底を少し焦がしてしまっていた。厨房にはほんのりと香ばしい焦げ臭さが立ち込めている。
ヴォルガンは内心「焦がしてしまったか……」と舌打ちしつつも、深皿になみなみとスープを注ぐと、木のテーブルの上にドンと置いた。
「座れ。……食え」
威圧感たっぷりの命令。
出されたスープは少し焦げた匂いが混じっているものの、見たこともないほど豪華な肉や野菜が煮込まれている。
(毒が入っているんじゃ……?)
そう疑いながらも、空腹は限界だった。ルチアは意を決し、震える手でスプーンを取り、スープを口に運んだ。
ほんのり焦げた香ばしさはあるものの、じっくり煮込まれた肉と野菜の驚くほど濃厚な風味が口いっぱいに広がる。温かさが全身に染み渡り、ルチアの瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
その様子を黙って見つめていたヴォルガンは、首元のルチアのお守り——『祈りの結び紐』に視線を落とした。
「……ルチア。お前がなぜ奴隷になったのか、そのお守りをどこで手に入れたのか、話せ」
ルチアは涙を拭い、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
かつて人里離れたエルフの集落で暮らしていたこと。その集落は人間たちの村と交易で交流があり、集落では妊婦や幼子の無事を祈る魔除けの儀式紐としてこの結び紐を贈る風習があったこと。
数年前、突如現れた魔物によって集落が壊滅し、生き残ったものの悪徳商人に捕まり、各地の奴隷市場を転々と巡らされたこと——。
(……やはりか。妻の生まれ故郷の村と交流があったエルフの集落か)
ヴォルガンは胸の内で深く納得し、亡き妻の面影を脳裏に浮かべた。
亡き妻は、エルフの集落から伝わったその風習を知り、やがて生まれてくるはずだった我が子の無事と幸福を祈って、自分の手で同じ『祈りの結び紐』を一生懸命編んでいたのだ。
悲しい事故で妻とまだ見ぬ我が子を一度に失ったあの夜から、ヴォルガンにとってその未完成の結び紐は、胸を締め付ける大切な形見となっていた。
(あの紐は、愛する子の健やかな成長を願う親の祈りそのものだったのだ)
過酷な運命に弄ばれ、壊れそうな体でその結び紐を握りしめていたルチアの姿が、ヴォルガンの胸を深く揺さぶる。
ヴォルガンは懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。奴隷市場で発行された、ルチアの『奴隷所有契約書』だ。
ルチアが息を呑む前で、ヴォルガンは巨大な手で羊皮紙の端を掴むと——
バリィッ! と静寂を切り裂くような豪快な音を立てて、それを真っ二つに引き裂いた。さらに何度も手際よく破り、羊皮紙の破片を暖炉の炎の中へと放り込む。
「ひっ……!?」
契約書の破棄。ルチアが恐怖で身をすくませる中、赤々と燃え上がる炎を見つめながらヴォルガンは低く告げた。
「お前の所有権は俺が買い取り、今、破棄した。……お前はもう奴隷ではない。自由だ」
「……え……?」
ルチアは呆然とヴォルガンを見つめた。
「ここに、金がある」
ヴォルガンは金貨の詰まった革袋をテーブルに置いた。
「この金を持って、ここを出ていってもいい。どこか遠くの街で静かに暮らすなり、好きにしろ。……あるいは」
ヴォルガンは一度言葉を切り、鋭い眼光をルチアに向けた。
「ここに残るなら、メイドとして雇ってやる。給金も払う。……どうする」
選択肢を突きつけられたルチアの頭の中は、激しく混乱した。
自由になれる。お金ももらえる。
だが、一人で外へ出たところで、華奢なエルフの少女が再び悪徳商人やならず者に捕まらない保証などどこにもない。
目の前にいるこの男は、死ぬほど恐ろしい顔をしている。話し方も威圧的で、屋敷も不気味だ。
……けれど、怪我の手当てをしてくれた(下手くそだったけれど)。温かいご飯をくれた(少し焦げていたけれど)。契約書を燃やして、自分を「自由だ」と言ってくれた。
ルチアは握りしめたシャツの裾をぎゅっと絞り込むと、パッと表情を明るくさせ、嬉しさに胸を躍らせながら答えた。
「……わたし、ここで……! メイドとして、働かせてください……っ!」
もう奴隷として怯える必要はない。自分の意思で居場所を選べたことが何よりも嬉しく、ルチアの瞳には小さな希望の光が宿っていた。
ヴォルガンは眉間のシワを僅かに和らげ(ルチアの目にはさらに恐ろしく睨みつけられたように見えたが)、小さく頷いた。
「……よし。ならば、まずは寝ろ」
「……はい? え、あの……お仕事は……?」
ルチアが目を丸くすると、ヴォルガンは呆れたように腕を組んだ。
「その体で何の仕事ができる。傷だらけで、包帯もまともに巻けておらん。雇うとは言ったが、怪我人をすぐに働かせるほど俺は鬼ではない。怪我が治るまでは養生しろ。それが最初の仕事だ」
(え……っ!? 働かせてもらえない……!?)
ルチアの心臓がどきりと跳ね上がった。
奴隷の世界では「働かない者=価値のない肉」だ。飯だけ食わせておいて一切の労働を免除されるなど、あり得ない。
(使えないやつだと判断された……!? 傷が治ったら、もっと恐ろしい目(生体実験や解体)に遭わされるんじゃ……っ!?)
不安に押しつぶされそうになるルチアを余所に、ヴォルガンは立ち上がると、二階の広い客間へと案内した。
そこには、ふかふかの羽毛布団が敷かれた豪華なベッドがあった。
「今日からここがお前の部屋だ。傷が癒えるまで、ここから出るな。いいな」
「ひっ……! は、はいっ……!」
「……逃げ出そうなどと考えるなよ」
ヴォルガンとしては「外にはならず者も多いから不用意に出歩くな」という忠告のつもりだったのだが、ルチアの目には「逃げたら容赦なく殺す」という冷酷な警告にしか見えなかった。
部屋に残されたルチアは、大きすぎるシャツを身に纏い、ふかふかのベッドの端っこで小さく身を丸めた。
(働かなきゃ……! 役立たずだと思われたら、本当に処分されちゃう……っ! 明日こそ、絶対に何かお仕事を見つけて、あの化け物に認められなきゃ……!)
親切心から過保護に「休め」と命じるヴォルガンと、「働かないと殺される」と危機感を募らせるルチア。
すれ違ったままの二人の同居生活が、こうして静かに始まったのだった。




