3話
ギィ……と重い音を立てて扉が閉じられると、外のわずかな光すら遮られ、玄関ホールは深海のような静寂と暗闇に包まれた。
静まり返った館の冷気が、少女の剥き出しの肌を撫でる。
やはりここには誰もいない。人っ子一人存在しない「死の館」だ。
逃げ場が完全に絶たれたことを悟り、絶望に身を震わせる少女の前で、ヴォルガンは無言で振り返った。
その巨大な影が少女を完全に覆い隠す。
「……まずは、その汚れた服を脱げ」
地鳴りのような重低音が頭上から降り注いだ。
(……ッ!?)
少女の顔から、血の気が一瞬で引き散った。
服を脱げ。この誰もいない暗い屋敷で、二人きりの状況で。
(乱暴にされる……ッ! 弄ばれて、めちゃくちゃにされる……ッ!)
奴隷市場で目にした悪徳商人や買いたたかれる者たちの惨状が脳裏を駆け巡る。手垢と泥に汚れた自分の身体を無惨に弄ばれる恐怖に、少女は歯をガチガチと鳴らし、自らの肩を抱きしめるように身をすくませた。
だが、ヴォルガンは怯える少女の心など知る由もない。
泥だらけのボロボロの服では体温が奪われ、風邪を引いてしまう。一刻も早く体を温めさせねばならない。不器用な親心にも似た焦りから、ヴォルガンは眉間のシワをさらに深く刻み込み、短く言い捨てた。
「脱いだら、そこの奥にある風呂に入れ。……綺麗にしてこい」
そう言い残すと、ヴォルガンは少女に背を向け、ズシ、ズシと重い足音を立てて廊下の奥へと去っていった。
「……え……?」
残された少女は、ポツンと一人佇んだまま呆然とした。
暴力も陵辱もなく、ただ「風呂に入れ」と言われたのだ。
しかし、少女の恐怖が和らぐことはなかった。
恐る恐る奥の浴室へ向かった少女は、その扉を開けた瞬間、息を呑んだ。
広々とした石造りの浴室。そこには、なみなみと温かい湯が注がれ、豊かな湯気が立ち昇っていたのだ。
この屋敷には、一年ほど前に『ユウキュウ』の制度を教えてくれた異国の貿易商から買い付けた、極めて珍しい魔導ボイラーが備え付けられていた。時間に合わせて自動でお湯を沸かす優れもので、ヴォルガンが一人で出かける際、帰宅した冷えた体を温めるためにタイマーを設定しておいたものだった。
だが、そんな事情を知る由もない少女は、絶望に膝をガクガクと震わせた。
(な、なんで……お風呂が、沸いてるの……?)
使用人も誰もいない館。
それなのに、自分が買い取られて連れてこられたこのタイミングで、ぴたりとお湯が用意されている。
(最初から……私を買い取って、ここに連れてくるつもりで準備していたんだ……ッ!)
計画的な犯行。洗練された獲物の準備。
汚れた肉をそのまま食べる者はいない。あるいは、綺麗な状態にしてから弄び、残酷に処分するつもりなのか。
少女は涙をこらえ、震える手でボロボロの布切れを脱ぎ捨てると、命の終わりを覚悟しながら、湯船へと身を沈めた。
少女が湯に浸かり、怯えながら身を清めている間。
ヴォルガンは大急ぎで屋敷の中を走り回っていた。
本来なら仕立ての良い女性用の着替えがあればよかったのだが、急に連れてきた上に、使用人たちも一か月間のユウキュウで誰一人としていない。
ヴォルガンは、自身のクローゼットから一番生地が柔らかく、比較的サイズの小さな自分のシャツを一着引っ張り出した。
大柄なヴォルガンの服など少女にはブカブカで、膝まで隠れてしまうだろうが、裸でいさせるよりは遥かにマシだろう。
シャツを手に取ったヴォルガンは、さらに欠かせないものを取りにメイド長の部屋へと向かった。
(あんなに痩せこけて……手足にも擦り傷や打撲の跡があった。一刻も早く手当をしてやらねば)
メイド長が日頃から使用人たちの怪我や病気に備えて管理していた、重厚な革張りの『医療カバン』。ヴォルガンは棚からそれを取り出すと、シャツを抱えて脱衣所の前へと急いだ。
少女は、温かい湯の中でさえ、恐怖に震え続けていた。
泥を落とし、体を洗い、自分は今、男が求める「綺麗な商品」あるいは「清潔な獲物」になった。
(……もう、終わるんだ……)
諦めと絶望が入り混じった溜息をつき、少女が湯船から上がり風呂場から出たその時だった。
脱衣所の扉が、乱暴に開かれた。
ヴォルガンの巨大な影が脱衣所へと踏み込んでくる。
(ヒッ……あ……ぁ……ッ!)
少女は恐怖のあまり、その場に縫い付けられたように動けなくなった。
バスタオルすら手に取る間もなく、濡れた体、生まれたままの姿で、無防備な裸体を男の前に晒してしまう。
(ひっ……! 襲われる……ッ! 乱暴にされて、めちゃくちゃにされる……ッ!)
頭に浮かんだのは、身の毛もよだつ陵辱の恐怖だった。少女は身をすくませ、震える手で首元の『祈りの結び紐』をぎゅっと握りしめることしかできない。
だが、ヴォルガンの目に映ったのは、そんな邪念など微塵もない。あまりに惨めで、今にも壊れそうなほど華奢で、そして全身傷だらけの幼い命だった。
「動くな。……まずは手当だ」
ヴォルガンは低く地鳴りのような声で告げると、手にした大きなシャツを脱衣所の台に置き、少女の足元に重厚な革カバンを置いた。
パチン、と金具が外れる硬質な音が脱衣所に響く。
ヴォルガンは親切心の塊だった。湯上がりで血行が良くなった今のうちに、脚の傷口を消毒し、膏薬を塗って治療してやろうと考えていたのだ。
だが——カバンの口がパカリと開かれた瞬間、少女の視界に飛び込んできたのは、銀色に光り輝く狂気の拷問具(にしか見えないもの)の数々だった。
鋭利な刃を光らせるメス。
無骨で恐ろしい形状の小さなノコギリ。
太く長い針のついたガラス製の注射器。
そして、怪しげな薬が満たされた小瓶の数々——。
(あ……ぁ……ッ!)
少女の瞳孔が限界まで見開かれた。
事前に沸かされていたお風呂。逃げ場のない誰もいない屋敷。
そして、今、無防備な裸の自分の前で開かれた、この恐ろしい器具の数々。
すべての点と点が、少女の中で最悪の形で結びついた。
——解体されるんだ。
——この化け物に、生きたまま切り刻まれるんだ……ッ!
男は自分を綺麗に洗わせた上で、この恐ろしい器具を使って生きながら肉を剥ぐ気なのだと確信し、少女の血の気が完全に引いた。
ヴォルガンは相変わらずの凶悪なシワを眉間に寄せたまま、カバンの中から消毒液の瓶と緑色の膏薬(軟膏)、そして真っ白な包帯を取り出した。そして、裸の少女の前へと片膝をつく。
「……動くなよ。痛くはしない」
低く、逃げ場を奪うような重低音。
その手にある怪しげな軟膏の壺と包帯を見つめながら、少女は恐怖のあまり声も出せず、毒を塗られ、縛り上げられ、最後に解体されるのだと死を覚悟しながら、ただただ白目を剥きそうになっていた。




