1話
二週間の刻が流れ、約束の朝が訪れた。
巨大な屋敷は、驚くほどの静寂に包まれていた。
いつもの足早に行き交う使用人たちの気配も消え去り、広大な玄関ホールにはただ冷ややかな静けさだけが満ちている。
重厚な大門の前には、旅行鞄を手にした老執事が一人、佇んでいた。
「……旦那様」
老執事は、見送りに現れたヴォルガンへ向かって深々と頭を下げた。
「本当にお一人でご不自由はございませんでしょうか。せめて私だけでも残らせていただければ……。一か月もの間、この広い屋敷に旦那様をお一人でお残しするのは、身が縮む思いでございます」
「余計な心配だ」
ヴォルガンは低く地鳴りのような声で吐き捨てた。深い眉間のシワはそのままに、冷たい眼光で老執事を見下ろす。
「決めたことだ。お前も無駄な口を叩かず、体を休めろ。……これは命令だ」
不器用極まりない労いの言葉。
言葉足らずで威圧的に聞こえるその響きだが、長年仕えてきた老執事は、男の不器用な優しさと内に秘めた深い孤独を誰よりも理解していた。
「……お気遣い、心より感謝申し上げます。旦那様も、どうかお身体を大切になさってくださいませ」
老執事は温かな眼差しで深々と一礼すると、名残惜しそうに何度も振り返りながら、重い足取りで去っていった。
遠ざかる足音が完全に消え去り、世界から音が失われる。
ヴォルガンは誰もいなくなった大屋敷の中で、ただ一人静寂の中に佇んでいた。
静まり返った館は、男の孤独をより一層色濃く際立たせる。
ヴォルガンは無言で身支度を整えると、一人静かに徒歩で屋敷を後にした。
向かう先は、かつて亡き妻と出会い、そしてささやかな愛を誓い合った郊外の古びた教会だった。
だが、目的の場所に近づくにつれ、ヴォルガンの肌を刺したのは異様な歪んだ熱気だった。
(……何だ、この雑踏は……?)
不快感に眉をひそめながら足を進めたヴォルガンの視界に飛び込んできたのは、欲望と金銭が渦巻く狂騒だった。
鉄格子の檻がいくつも並べられ、泥と汗に塗れた獣人や異種の者たちが商品として競りにかけられている。下品な商人の笑い声、振るわれる鞭の打擲音、そして買われていく者たちの絶望に満ちた呻き。
静かに妻を想うはずだった場所で繰り広げられていたのは、街の暗部が主催する「臨時の奴隷市場」だった。
ヴォルガンは立ち尽くし、絶句した。
視線を巡らせて初めて悟る。かつて風情ある佇まいを残していたあの聖域は、跡形もなく崩れ去っていたのだ。屋根は落ち、風化した石柱と崩れかけた外壁だけを残して完全に荒廃し、その無惨な跡地が今や奴隷市場として利用されていた。
時の流れの残酷さと、聖域を穢された激しい不快感。胸の奥で冷たい風が吹き抜け、ヴォルガンはすぐにその場を立ち去ろうと背を向けた。
だが、その足が不意に止まった。
一つの檻の隅。泥に塗れた石畳の上に、小さく丸まっている影があった。
薄汚れた布切れを纏った、華奢な身体。傷ついた長い耳——希少なエルフの少女だった。
だが、ヴォルガンの目を釘付けにしたのは、彼女の姿そのものではない。
少女が震える手で強く握りしめていた、首元の粗末な麻紐の飾りだった。
金銭的な価値など皆無に見える泥くさい結び紐。
ヴォルガンはその一筋の紐を見つめたまま、時が止まったかのように動かなくなった。
眉間のシワが限界まで深まり、その瞳に異質で切実なまでの強い光が宿る。
「……そのエルフを渡せ」
ヴォルガンは奴隷商に向かって、押し殺した声で告げた。
「へ? あ、旦那、こいつはエルフですが痩せこけてて……」
「いくらだ」
「は、はいっ! 金貨五十枚で!」
足元を見た不当な提示額だったが、ヴォルガンは一切値切ることなく、ずっしりと重い革袋を投げつけた。
金貨の音に目を丸くする奴隷商の手から鍵を奪い取り、自らの手で檻の鉄扉を開ける。
重い鉄の音が響き、檻の中に影が落ちた。
怯えた少女が体を丸め、さらに強く首元の結び紐を握りしめる。
ヴォルガンは少女の前に片膝をつき、目線を低くした。
あまりに惨めで、可哀想な少女。恐怖に怯える幼い命を安心させてやらねばならない。
ヴォルガンは胸の奥の不器用な情をかき集め、亡き妻がかつて「かわいい」と言ってくれた完璧な笑顔を浮かべた。
パキ、と音がしそうなほど強く引きつった頬。
吊り上がった目がさらに凶暴に歪み、眉間のシワが刻まれ、地獄の悪鬼のごとき凶悪極まりない表情が完成する。
そして重低音の威圧感あふれる声で、そっと語りかけた。
「……安心しろ。もう大丈夫だ。……お前、名前は何という?」
少女の視界に映ったのは、自分を買い取った巨躯の悪魔が浮かべた、血も涙もない「残忍な屠殺者の笑み」だった。
(殺される……ッ! 酷い目に遭わされて、食べられてしまう……!)
「ヒッ……あ……ぁ……ッ!」
少女は恐怖のあまり血の気を失い、声を詰まらせながら、ただ激しく全身を震わせることしか出来なかった。




