プロローグ
初投稿
交易都市ルミナ=ガルドは、昼夜を問わず金と欲望の熱気で狂い咲いていた。
ダンジョンから持ち帰られた魔導具の競り市、幾重にも重なる馬車網の喧噪、酒場から流れる冒険者たちの荒々しい歌声とスパイスの匂い。
無数の馬車と商人たちが行き交う活気あふれる街並みの中で、その屋敷だけは異質な静けさをまとっていた。
——カチャン。
銀のフォークが磁器の皿に触れる、かすかな音が響いた。
広大な食堂。中央に鎮座する長テーブルの端に、男が一人ポツンと座っている。
ヴォルガン・ヴォルフ。
並の男なら二回りも小さく見えるほどの巨躯と、岩肌を切り刻んだかのような険しい目鼻立ち。深い傷痕の残る眉間と冷たい眼光は、ただ黙っているだけで他者を射殺さんばかりの圧力を放っていた。
目の前に並べられているのは、最高級の赤身肉を贅沢に焼き上げた豪華な肉料理だ。芳醇なソースの香りが漂っている。
ヴォルガンはその一片を切り分け、無言で口に運んだ。
噛みしめる。肉汁が口いっぱいに広がる。
——だが、何も味わえない。
ただ粘土を噛んでいるかのような、乾いた虚しさが胸の奥を通り抜けていくだけだった。
ヴォルガンは静かにフォークを置いた。
「……下げろ」
その低く地響きのような声に、給仕の若い使用人がビクッと肩を跳ねさせた。血の気を引かせた顔で「は、はいっ!」と引きつった声を上げ、震える手で皿を下げていく。あまりの緊張に皿を落としかけ、冷や汗を垂らす姿を、ヴォルガンはただ黙って見つめた。
給仕が逃げるように食堂を去った後、静かに歩み寄ってくる足音があった。
長年、男に仕えてきた老執事だ。彼は下がった皿と、男の虚ろな瞳を交互に見つめ、深く、痛ましそうに眉をひそめた。
「……旦那様。お顔色が優れませんな。何かお気に召さない点でもございましたでしょうか」
ヴォルガンは何も答えず、ただ手元のグラスに視線を落としていた。
その眼光はどこか遠く、虚空を射抜いているかのようだった。
老執事はそれ以上言葉を重ねることを避け、痛む胸を押し殺しながら深々と一礼した。
「……出すぎたことをいたしました。失礼いたします」
静かな足音が遠ざかり、重厚な扉が閉じられる。
老執事は知っている。かつてこの食堂に、亡き奥様の明るい笑い声が響いていた頃のことを。そして彼女を喪って以来、旦那様がどれほど深い孤独の闇の中で、ただ機械のように働き続けているかを。
執務室に移動したヴォルガンは、机の上に広げられた書類を一冊、親の仇でも見るかのような鋭い眼光で睨みつけていた。
一枚の羊皮紙。そこに記されているのは『ユウキュウ』という見慣れぬ文字列だ。
約一年程前、異国の貿易商から聞かされた奇抜極まりない制度。「働かず休んでいる間も、通常通り賃金を保証する」という、この大陸では狂気の沙汰としか思えない仕組みだった。
ヴォルガンは、屋敷の使用人たちが日夜怯えた顔で自分に仕えていることを知っていた。不器用な自分には、言葉で彼らを労うことなどできない。だからこそ、この制度を導入すれば彼らも少しは休まり、顔色も良くなるだろうと考えたのだ。
しかし——申請数は、ゼロ。一年経っても、ただの一枚も提出されていない。
(なぜだ……? 使い方が分からんのか……?)
ヴォルガンには思いもよらないことだったが、使用人たちの受け止め方は全く逆だった。
『あの悪魔のような旦那様が“休んでいい”などと言うはずがない』
『仕事をサボる不忠者を炙り出し、首を切るための罠に違いない』
屋敷の中ではそんな恐怖の噂が駆け巡り、誰も申請書に手を触れようとしなかったのだ。
「……致し方ない」
ヴォルガンは深くため息をつき、羽ペンを置いた。
遠慮しているのなら、こちらから命令してやるしかない。気遣いのつもりで、彼は出来る限り「優しく」「笑顔で」言葉をかけようと心に決めた。
吹き抜けの天井がそびえる大広間に、屋敷中の使用人たちが集められていた。全員が蛇に睨まれた蛙のように身を縮め、生きた心地もしない様子で床を見つめている。
その正面に立つヴォルガンは、精一杯の「親しみ」と「労い」を込めて、頬の筋肉を引き上げた。
——パキ、と音がしそうなほど強張った笑み。
つり上がった目がさらに細く歪み、眉間のシワが深まり、凶悪極まりない悪鬼のような表情が完成する。
亡き妻はかつて「あなたの笑顔はかわいい」と言ってくれた。ヴォルガンはその言葉を今も疑いなく信じている。
「……お前たち、最近顔色が悪い」
ヴォルガンは低く、威圧するような地獄の底からの声で言い放った。
「二週間後から一か月間、全員強制的に“ユウキュウ”を取れ。一人残らずだ。……もしその期間中、この屋敷に一歩でも足を踏み入れる者がいれば……即座に解雇する。分かったな」
(よし、これで気兼ねなく休めるはずだ)
本人は完璧な配慮と優しい笑顔を見せた満足感に浸っていたが、使用人たちの顔は恐怖で完全に蒼白となっていた。
『ついに全員まとめて処分される』『二週間後に命の保障はない』という絶望的な勘違いが、一瞬にして広間中に駆け巡ったのだった。




