第二十三話 喋れないわけじゃない。喋らないだけ。だけど、これはきっと大事な言葉だから。
土曜日の朝。葵が目覚めると、ご機嫌でニッコニコの優羽が目の前にあった。朝から美人さんである。
「おはよう葵ちゃん!」
「ん……おはよう」
「さっ、準備して!準備運動したらすぐ出発よ!」
「ん。どこにいくの」
「まずはね、一緒にランニング。日課だもんね。それで朝ごはん食べたら、水族館!それから中華街でランチして山下公園をお散歩して、夕方は赤レンガ倉庫でお買い物!夜はちょっと大人なディナー!」
「ん。楽しそう」
「でしょでしょ!お姉ちゃん全部予約済みなんだから!」
優羽は誇らしげに胸を張る。その勢いに押されつつ、葵はベッドから這い出した。
(姉の本気だ。これは長い一日になりそうだ)
だが、嫌ではない。むしろ楽しみで仕方なかった。ランニングを終えてシャワーを浴び、朝食のトーストをかじりなが、葵はこっそりとスマホを取り出す。健太と真由志乃舞にメッセージを送る。
【今日は姉とデート。明日もたぶん無理。月曜にまた】
すぐに返信が来た。
【真由:了解!楽しんできてね!写真送って!】
【健太:りょーかい。俺らは今日も軽く潛ってくるわ。志乃舞もだいぶ慣れてきたぜ】
【志乃舞:あ、あの……健太さんと二人じゃないですからね。真由さんもいますから!あっでも写真だけちょっと欲しいです……健太さんの……】
(みんな元気そうだ。よかった)
葵は小さく笑みを浮かべ、志乃舞にだけ健太の子どもの頃の写真を送り、スマホをポケットにしまった。外は快晴。デート日和だ。
「葵ちゃーん!準備できた?」
「ん。行こう」
優羽の大きな手が葵の小さな手を包み込む。二人は並んで玄関を出た。5月の風が、姉妹の髪を優しく揺らしていく。
(女の子同士の手つなぎ。まだ不思議な感じはあるけど、悪くない。むしろ……これがデフォルトになってきたな)
「今日は一日、いーっぱい楽しもうね!」
「ん。楽しむ」
こうして、姉妹だけの長い土曜日が始まった。
午前十時。
「わぁ……」
水族館の入り口で、葵は思わず小さな声を漏らした。
「すごい。きれい」
「でしょでしょ!ここね、去年リニューアルしたばかりなのよ」
優羽は得意げに胸を張る。大きな水槽の中を色とりどりの魚たちが優雅に泳ぎ回っていた。エイがひらりと舞い、小さなイワシの群れが銀色に煌めく。
「ん……」
葵は水槽に顔を近づけ、金色の瞳を輝かせた。
「あ、葵ちゃん。見てみて。クラゲがいる」
「きれい。ふわふわしてる」
薄暗い照明の中幻想的に浮かび上がるクラゲたち。優羽は後ろから葵の肩に手を置き、一緒に水槽を覗き込む。
「葵ちゃんって、集中すると口がちょっと開くのよね」
「ん?」
「ほら、今も」
「……む」
葵は慌てて口を閉じる。優羽はくすくすと笑いながら、その銀髪をそっと撫でた。
「お姉ちゃんね、葵ちゃんと水族館に来るのずっと夢だったんだ」
「夢?」
「うん。小さい頃はよく一緒に来てたけど、中学入ってからはだんだん来なくなっちゃったから」
「……そうだった」
「でも今日はこうしてまた来られた。しかもこんなに綺麗な葵ちゃんと」
「ん。俺も嬉しい」
葵は素直に頷いた。優羽の顔がぱあっと明るくなる。
「じゃあもっと楽しもう!次はペンギンさんのショーがあるんだって!」
「ペンギン。かわいい」
「葵ちゃんもかわいいよ」
「……それは違う」
二人は手をつなぎ館内をゆっくりと歩いていく。葵の小さな手は、優羽の大きな手にすっぽりと包まれていた。
* * *
正午過ぎ。中華街は休日の賑わいを見せていた。
「すごい人……」
「中華街はいつもこんな感じよね。さ、あのお店予約してあるの」
「ん。楽しみ」
優羽が選んだのは、落ち着いた雰囲気の広東料理店だった。二人は窓際の席に案内される。
「葵ちゃん、何が食べたい?」
「優羽姉が決めていい」
「もー、またそうやって。じゃあお姉ちゃんが全部頼んじゃうからね」
「ん。まかせる」
運ばれてきた点心や炒め物を、優羽は嬉しそうに葵の取り皿に取り分ける。
「はい、あーん」
「ん……自分で食べられる」
「ダーメ。今日は特別デートなんだから」
「……むぅ」
葵は観念して口を開けた。海老蒸し餃子のプリプリとした食感が広がる。
「おいしい」
「でしょ!ここ、私のお気に入りなの」
「やる。食通。」
「ふふ、葵ちゃんと一緒に美味しいもの食べるのが一番好きなんだ」
優羽は幸せそうに微笑みながら、自分の分の春巻きをかじる。
(こうやって二人で外食するのも久しぶりだ)
葵は黙々と箸を動かしながら、窓の外の喧騒を眺めていた。土曜の中華街は観光客でごった返している。赤い提灯が風に揺れどこからか良い匂いが漂ってくる。
「午後は山下公園をお散歩して、それから赤レンガ倉庫でお買い物ね」
「ん。楽しみ」
「いっぱい歩くから疲れちゃうかもだけど、大丈夫?」
「問題ない。先週高校レコード出した。」
「あ、そっか。葵ちゃん体力測定の覇者だもんね」
「ん。握力以外は完璧」
「ん-?葵ちゃんなら、握力計くらい軽く壊せるでしょ?」
「それは握力じゃない。寸勁は技術。」
「ん-?まぁ、それはそっか。」
優羽は楽しそうに笑った。
* * *
午後二時。山下公園の芝生は新緑に輝いていた。
「気持ちいい……」
「でしょ。今日は本当にいい天気」
ベンチに腰掛け二人は海を眺めていた。遠くに貨物船がゆっくりと進んでいく。カモメが風に乗って旋回し、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
「優羽姉」
「ん?」
「今日はありがとう。楽しい」
「……っ!」
優羽は一瞬息を呑み、それからぎゅうっと葵を抱きしめた。
「葵ちゃんがストレートに言うからびっくりしちゃった……」
「んぅ……苦しい」
「あ、ごめん!つい……」
「だいじょうぶ」
葵は優羽の腕の中で小さく息をついた。
「優羽姉は昔から、こういうの上手」
「こういうの?」
「人を楽しませるの。俺、優羽姉と出かけるといつも楽しい」
「葵ちゃん……」
優羽の声が少し震えている。葵は顔を上げずに続けた。
「父さんが死んで、家族が三人になってから優羽姉が無理してるの知ってる」
「……違うわよ」
「無理してる。でも、今日は本当に楽しそうだった。よかった」
優羽は何も言わず、ただ葵を抱きしめる腕に力を込めた。海風が二人の髪を揺らしていく。
「お姉ちゃんね」
しばらくして、優羽がぽつりと呟いた。
「葵ちゃんが生まれた時から、ずっと葵ちゃんが一番大事なの」
「ん」
「弟ができたのが嬉しくて、守らなきゃって思って。でも気づいたら逆に葵ちゃんに守られてた」
「……」
「葵ちゃんは昔から強かった。お父さんもおじいちゃんも強いけど、葵ちゃんは別の強さを持ってた。誰よりも真っ直ぐで誰よりも優しくて」
「……俺は」
「うん?」
「俺も、優羽姉が大事。一番じゃないかもしれないけど」
「あら、一番じゃないの?」
「母さんも大事。友達も大事。でも、優羽姉は特別」
「……っ、もう!そんなこと言われたら泣いちゃうでしょ!」
優羽は本当に涙ぐみながら、葵の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「優羽姉、髪が乱れる」
「いいの!お姉ちゃんの特権!」
「……むぅ」
しばらくそうしてから、優羽は立ち上がった。
「よし!泣いてる場合じゃないわ!次はお買い物よ!」
「ん。赤レンガ倉庫」
「そう!葵ちゃんに似合うお洋服、いっぱい見つけちゃうんだから!」
* * *
夕方。赤レンガ倉庫のショップを巡り、葵は次々と試着させられていた。
「これもかわいい!あ、こっちも!」
「優羽姉、ちょっと多すぎ」
「だって葵ちゃん、何着せても似合うんだもの。お姉ちゃん選べない!」
「……むぅ」
結局、優羽が選んだのは淡い水色のワンピースと白のカーディガンだった。
「うん、最高!天使!」
「大げさ」
「大げさじゃないもん。ほら、鏡見てみて?」
鏡に映る自分の姿に、葵は少しだけ目を瞬かせた。
(……確かに、悪くない)
「ん。いい感じ」
「でしょでしょ!買っちゃおう!」
「優羽姉も何か買う?」
「私はいいの。今日は葵ちゃんの日だから」
「……む。それじゃダメ」
(大事なこと。喋るのも時には大事、かな。)
「え?」
「デートは俺だけの特別じゃない。2人の特別。だから俺も、優羽姉にプレゼントしたい」
「……葵ちゃん!?」
「俺のお小遣いで買える範囲だけど。優羽姉に似合うの、探す」
優羽は口を押さえ、目をうるうるとさせている。
「葵ちゃん……お姉ちゃん、もう……」
「ん。だから選んで」
結局、葵は優羽のためにシルバーのヘアピンを選んだ。シンプルなデザインだが優羽の黒髪によく映える品だ。
「大事にする……一生大事にするからね……!」
「ん。大げさ」
「大げさじゃない!」
優羽はヘアピンを大事そうに胸に抱きしめた。
* * *
夜。予約していたフレンチレストランは、落ち着いた照明と静かな音楽が流れる大人の空間だった。
「緊張する……」
「だいじょうぶ。俺もいる」
「ふふ、葵ちゃんが一緒なら百人力だね」
優羽はいつも通りの笑顔でブドウジュースを手に取り、葵はオレンジジュースで応じる。
「今日一日、本当に楽しかった」
「ん。俺も」
「来年も、再来年も、ずっとこうやってデートしようね」
「ん。約束」
グラスが触れ合い、澄んだ音が静かに響いた。
* * *
日曜日。
「葵ちゃーん、今日も遊ぼー!」
「……むぅ。今日はさすがに」
「えー!まだ日曜日だよ!週末は二日間!これも世界の常識!」
「……疲れた」
「うそ!葵ちゃん体力測定の覇者でしょ!」
優羽は頬を膨らませるが、葵はソファに座ったまま動かない。
「今日は家でのんびりしたい」
「……そっか。わかった。じゃあ今日はおうちデートね」
「ん。それなら」
結局、日曜日も二人は一緒に過ごした。午前中は掃除と洗濯を手伝い、昼食は優羽の手作りパスタ。午後はリビングで映画を観て葵は優羽の膝枕でうとうととしていた。
「葵ちゃん、寝ちゃった?」
「……ん、起きてる」
「ふふ、寝てる」
優羽はそっと葵の銀髪を梳きながら、テレビ画面を眺める。ロマンティック・コメディのエンドロールが静かに流れていた。
(こんな穏やかな週末が、ずっと続けばいいのに)
優羽は目を閉じ、葵の寝息を聞きながらそっと微笑んだ。
月曜日、また日常が始まる。学校に行きダンジョンに潛り、笑い合う日々。でもこんな特別な週末があるからこそ、頑張れるのだと優羽は思うのだった。




