第二十二話 お姉ちゃんは大変にご不満です。世界の常識を教えましょう。
その日は朝から雨だった。しとしとと降り続く5月の雨が窓ガラスを優しく叩いている。目覚めた葵が最初に感じたのは、いつもより重い布団の感触だった。
……重い。
もぞりと身じろぎする。しかし自分の身体は思うように動かない。というか。何かが乗っている。
「ん……」
薄く目を開けると、そこには豊満な胸元があった。葵の顔くらいの柔らかな果実。いうまでもなく優羽である。人間国宝級の絶対的おっぱいが葵の顔面の上、30cmほどの距離にぶら下がっている。
(朝からこれは、破壊力が高い。俺がまだ男だったら死んでいた)
「……んぅ」
葵は小さく唸って、どうにか抜け出そうと試みる。体格の良い優羽に上から乗られてしまっている。143cmの小柄な身体ではどうしようもなかった。
(重力操作を使えば抜けられるけど、消費MPがもったいない。朝から魔法はあまり使いたくない)
だから葵はおとなしく枕に戻ることにした。諦めである。
たぶん今日も手をつないでの登校になるだろう。
「葵ちゃん。」
優羽の、いつもより少し低い声が降ってくる。おかしい、ご機嫌ナナメな声だ。
葵は金色の瞳をぱちくりと開いた。
「お姉ちゃんは、大変にご不満です」
「んぅ?」
「高校に入ってから、毎週毎週毎週!ずぅーっと!週末はお友達とダンジョンばかり!」
優羽の真っ黒な瞳がじとりと葵を見下ろしている。長い黒髪がさらりと垂れて、葵の頬をくすぐった。
「ん。楽しい」
「わかるけど!お姉ちゃんもそうだった!わかるから…だからずっと、我慢してたけど!」
(あ、これは怒ってるな)
心の中で冷静に分析する葵。優羽の呼吸がやや早い。頬がほんのり紅潮している。これは「本気で拗ねているモード」だ。こうなると結構面倒くさい。
「今週は、お姉ちゃんとも遊んで!」
「ん。優羽姉と遊ぶのも好き」
「ほんと?」
「ほんと」
葵はこくりと頷いた。表情こそ乏しいが、金色の瞳はまっすぐに優羽を見つめている。
優羽は昔から人の本心を見抜くのがうまい。拒否してあとでバレると怖い姉である。それに、本当に優羽と遊ぶのは好きなのだ。
「かまわない。今週は優羽姉と遊ぶ」
「約束だからね!」
「ん。約束」
「んふー。許してあげる!」
優羽の表情がぱあっと明るくなる。向日葵が咲いたみたいだった。同時に、葵にかかっていた重みがふわりと消える。優羽が身体を起こしたのだ。
「やった!じゃあ決まりね!どこ行きたい?なに食べたい?」
「ん。なんでもいい。優羽姉の好きなものでかまわない」
「んふふー。それじゃあ特別なデートコース考えちゃうからねっ!」
「ん。楽しみ」
優羽は上機嫌でベッドを降りバスルームへと向かっていった。軽やかな鼻歌が聞こえてくる。葵はようやく自由になった身体を起こし、小さく伸びをした。
(優羽姉は昔からこうだ。たまに爆発する)
物心ついた頃から、優羽は葵を溺愛している。かわいいものが大好きな姉にとって年の離れた弟はそれはもう格好の愛玩対象だったらしい。これでもまだ、葵が男だった頃は遠慮していた方なのだ。弟は年頃だし嫌がられるかもしれないと気を遣っていたのである。しかし今は違う。葵はどういうわけだか、T Sしている。あろうことか銀髪金目の絶世の美少女である。これを遠慮しろという方が無理な話だった。
(俺が姉のストレス発散に役立ってるなら、まあいいか)
葵はそう結論づけて、ベッドから這い出した。
* * *
「というわけで、今週の週末ダンジョン探索はお休みです」
朝のホームルーム前。葵が簡潔に告げると、真由が大げさに崩れ落ちた。
「えぇーっ!葵ちゃんと潛れないのー!?」
「ん。姉が爆発した」
「優羽さんが……?ああ、そっか。毎週潛ってたもんね」
真由は納得したようにうんうんと頷く。何度か優羽に遊んでもらったことのある仲である。彼女のシスコンぶりはよく知っていた。
「なるほどな。まぁ、たまには息抜きも大事だぜ。俺たちだけで潛っとくか」
「ん。そうしてほしい。ごめん」
「謝ることじゃないって!それに葵ちゃん、レベルが突出してるし。頑張って追い付いちゃうよ!優羽さんと楽しんできてね!」
真由がにこにこと笑う。その隣で、志乃舞が小さく手を挙げた。
「あ、あの……じゃあ今週は四人じゃなくて三人で潛るんですね……」
「おう。俺と真由と志乃舞だな。ま、無理せずいつもの浅いとこで狩ろうぜ」
「はい……!あ、あの健太さん……私、隠密Lv1にも慣れてきましたので……その、頑張ります……!」
志乃舞は顔を真っ赤にしながら、それでもしっかりと宣言した。健太は白い歯を見せて笑う。
「頼りにしてるぜ!俺が敵を受け持つから。後ろからバッサリいっちゃってくれ!」
「は、はいぃ……!」
(よかった。志乃舞もバックアタックに慣れてきた。みんな問題なさそうだ)
葵は小さく息をついて、自分の席についた。
(さて、今週末は姉と遊ぶとして……いつも一緒に潛ってる真由たちには悪いことをしたな。お詫びに、何かお菓子でも買っていこう)
そんなことを考えながら、窓の外の雨空をぼんやりと眺める。木曜日の朝はこうして穏やかに過ぎていった。
* * *
「葵ちゃーん!おかえりー!」
どすん。優羽の豊満な肉体が葵の小さな身体を包み込む。181cmと143cm。その差は38cm。体格の差もあり、葵の身体はほぼ360°すっぽりと埋まってしまう。
「んぅ……ただいま。なに?」
「金曜日の夜はつまり週末!これは世界の常識!」
「…むぅ」
葵は小さく抗議の声をあげたが優羽の腕はまったく緩まない。土曜日の朝まで待てなかったらしい。今週末の葵は優羽のもの、そう決まった瞬間である。
(まあ、ちょっとこうなるとは思っていた)
葵は観念して、されるがままになった。カバンを背負ったまま抱きしめられる格好である。玄関先で5分ほどそうしていただろうか。ようやく解放された頃には葵の銀髪はくしゃくしゃに乱れていた。
「いっぱいかわいがるからね!覚悟して!」
「ん。まぁ、優羽姉ならなんでも良い。」
リビングに入ると、母が夕食の準備をしながら微笑んでいた。
「葵、おかえりなさい。今週末は優羽が葵を独占するんですってね?」
「ん。」
「もう、お姉ちゃんったら。まぁ葵が嫌がってないからいいけどね。今夜は三人でご飯にしましょう」
食卓に並んだのは葵の好物である肉じゃがとサバの味噌煮だった。しかし、葵が席につく前に優羽が自分の膝をぽんぽんと叩く。
「はい、葵ちゃんはお膝ね」
「ん」
葵は何の躊躇いもなく、優羽の膝の上にちょこんと収まった。もうすっかり慣れてしまっている。優羽は嬉しそうに葵の小さな身体を抱え込み自分の箸で肉じゃがをつまむ。
「はい、あーん」
「ん。あーん」
葵は大人しく口を開け差し出されたじゃがいもを受け入れる。もぐもぐと咀嚼する葵の頬がふくらむ。優羽はその様子を至近距離で眺め、うっとりとした表情を浮かべる。
(姉の膝の上でご飯を食べる。一般的には異常な光景だろうか。まぁいっか。美味しい。)
葵は内心でそう呟きながら、次の肉を待つ。母は対面で微笑ましげに二人を見守っていた。
「優羽、食べさせにくいでしょう。自分のご飯もちゃんと食べなさい」
「はーい。でもね、お母さん。葵ちゃんがこんなにかわいいのが悪いのよ」
「ん。悪くない」
「葵も嫌がらないって悪いんだからねっ」
「む……」
夕食後、すぐにバスタイムである。優羽は宣言通り葵を風呂に入れると言って聞かなかった。
「はい、お風呂いくわよ」
「ん。自分で洗える」
「ダメ。今週末は葵ちゃんは私のもの」
「……むぅ」
広い浴室で、優羽は手際よく葵の銀髪を洗っていく。シャンプーの泡がふわふわと立ちのぼりラベンダーの香りが広がった。
「葵ちゃんの髪、本当に綺麗。さらさらでつやつやでお姉ちゃん誇らしい」
「ん。ありがとう」
葵はされるがままに目を閉じる。優羽の大きな手が頭皮を優しくマッサージする感触は正直気持ちがいい。子どもの頃からこうだった。風呂に入れてもらうのは、実は嫌いではない。
(優羽姉の手は大きい。あったかい。安心する)
「はい、次は身体ねー」
「ん。そこは自分で」
「ダーメ」
優羽は泡立てたスポンジで葵の背中を優しく擦り始める。細い肩、小さな背中、くびれた腰。葵はされるがまま浴室の壁を見つめていた。
「葵ちゃん、肌もつるつる。お姉ちゃん自分のお肌が悔しくなってきちゃう」
「優羽姉もきれい。スタイルも完璧」
「んもー!葵ちゃんに言われると照れちゃうなぁ」
(優羽姉は日本人的にすごい美人だ。モデル体型で巨乳でそれでいて顔は和風のべっぴんさん。遺伝的に俺は母親似で……ああ、だから銀髪金目なのか。これはこれで嬉しいけど優羽姉が母さん似なら彼女も美少女だったかも……)
「……葵ちゃん、ボーっとして。気持ちいい?」
「ん。気持ちいい」
風呂から上がると今度はリビングのソファでテレビを見ながらのスキンシップタイムである。ホームコメディの笑い声が流れる中、優羽は葵を膝の上に乗せ後ろからぎゅうぎゅうと抱きしめていた。
「葵ちゃんあったかい。柔らかい。いい匂い」
「ん。優羽姉もあったかい」
葵は優羽の胸元に背中を預けされるがままになっている。テレビの内容はあまり頭に入ってこないが、それはそれでいい。優羽の体温と匂いに包まれていると不思議な安心感があるのだ。
(TSして姉妹になってから、優羽姉の手をつなぐことにも慣れてしまった。おかしいな)
弟だった頃は手をつなぐのも少し恥ずかしかった。自分より男らしい姉に、なんとなく反抗心があったのだ。しかし今は違う。優羽の大きな手は何よりも頼もしい。
(俺が男だったらこの状況はさすがにまずかった。いや、男だったらそもそもこんなことにはならなかったか)
そう考えると、TSしたのは悪いことばかりではないのかもしれない。葵はぼんやりと思った。
「ねえ、葵ちゃん」
「ん?」
「明日のデート、すっごく楽しみにしてるんだからね。ちゃんと準備してきたんだから」
「ん。楽しみ。どこに行くの?」
「ふふ、それは明日のお楽しみ。でもね特別なコースを考えたのよ」
「特別?」
「特別ぅ!」
優羽はぎゅうっと葵を抱きしめる力を強めた。葵の小さな身体がむにゅりと沈む。
「んぅ……くるしい」
「あっごめん!つい力が……」
「だいじょうぶ」
(姉は昔からこうだ。愛情表現が物理的。まあ慣れた)
そして、就寝時間。優羽の部屋のダブルベッドに二人は並んで横たわっていた。もちろん、葵は抱き枕である。優羽の長い腕が葵の腰に回され逃げられない。逃げるつもりもないのだが。
「おやすみ、葵ちゃん」
「ん。おやすみなさい。優羽姉」
「いい夢みような」
「ん」
(姉は暖かい。心臓の音が聞こえる)
暗闇の中で、葵は目を閉じる。規則正しい心臓の鼓動が背中越しに伝わってくる。それはとても落ち着くリズムだった。父が死んで、家族が三人になってからこうしてくっついて眠る夜が増えた。母と寝ることもあるし、優羽と寝ることもある。互いの存在を確かめ合うように。明日は特別なデート。優羽が張り切って考えたコースが待っている。
(楽しみだ。優羽姉は俺の最初のヒーローだった)
幼い頃、優羽はいつも葵を守ってくれた。近所の大きな犬からも転んだときの擦り傷からも、学校での些細なトラブルからも。優羽は葵の盾であり矛であり、絶対的な味方だった。
(その優羽姉が楽しみにしてるなら、明日は全力で楽しもう。女の子同士のデートなんてまだ慣れないけどまあなんとかなる)
葵は小さく息を吐き意識を手放した。金曜の夜は更けていく。窓の外では、星が静かに瞬いていた。




