第七話 私の大事な人を泣かせる奴は、絶対に許さない。…私のことである。
家の玄関を開けると、リビングから漏れる明かりが廊下をぼんやりと照らしていた。
「……ただいま」
返事はない。いや、正確には返事ができないほどの静けさがそこにはあった。葵はそっとリビングのドアを開けた。テーブルにはすっかり冷めきった夕食が三人分、手つかずのまま並んでいた。
「……母さん」
ソファに座った母・静香が、ゆっくりと顔を上げた。その目は少し赤く腫れぼったい。
「おかえりなさい、葵」
その声はいつも通り優しい。なのに、なぜか胸がぎゅっと締め付けられる。
「……ごめんなさい」
気づけば、葵は土下座していた。
(やらかした。これは、やらかした)
頭ではわかっていた。連絡なしで夜遅くまで帰らないことがどれだけ母を不安にさせるか。ただでさえ華奢で小柄で、昔から心配ばかりかけていた。ましてや今はこの容姿だ。そして去年、あれほど屈強だった父と祖父を立て続けに亡くしたばかりだというのに。
「連絡もせずに、遅くなって……本当に、ごめんなさい」
「……葵」
「もう二度としません。約束します」
床に額をこすりつけるようにして謝る葵に、静香は静かに近づいてきた。
「顔を上げて、葵」
その声は震えていた。
「お母さんはね、あなたの夢を応援したいの。探索者になりたいってお父さんの後を継ぎたいって……そんなあなたを、誇りに思ってる」
「……母さん」
「でもね、去年……お父さんが帰ってこなかった時、思ったの。もう二度と家族を失いたくないって。あなたが帰ってこないだけで、頭の中にはあの日のことが浮かんで手足が震えて、気がついたら……こんな風になってた」
静香の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
(ああ、これは……効くな)
胸が痛い。というより心臓を直接握りつぶされているような心地だった。どんなに怒鳴られるより、ずっとずっと応えた。
「……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
「うん」
静香は涙をぬぐうと、優しく微笑んだ。
「でも、あなたが無事に帰ってきてくれたからそれでいいの。今日のところは、それで」
葵は立ち上がると、黙って台所へ向かった。冷めた夕食を温め直しお茶を入れ、静香の肩をもむ。
「……お母さん、疲れてる」
「ふふ、ありがとう」
「私にできること、なんでもする」
「じゃあ、お風呂で背中を流してくれる?」
「……ん」
* * *
風呂上がり、葵は優羽の部屋の前で立ち止まった。
(……いるんだろうな)
覚悟を決めてドアを開けると、予想通り仁王立ちの優羽が待ち構えていた。
「葵ちゃん。今日は、お姉ちゃんと一緒に寝ようね」
「……はい」
「逃がさないからね。ぜったいに、逃がさないからね」
有無を言わさぬ圧力だった。
(声、震えてる。ゆう姉も、過保護…なのは、心配だからなんだろうな。)
葵は心の中で呟いた。
優羽のベッドにもぐりこむと、即座に長い手足が絡みついてくる。181センチの長身が143センチの葵を完全に包み込んだ。
「あったかい……葵ちゃん、あったかいよぉ……」
「……苦しい」
「我慢して。お姉ちゃん、今日すっごく心配したんだから」
その声が少し震えていて、葵は何も言えなくなった。
(……悪いことしたな)
「明日は一緒に登校しようね」
「……」
「明日は、一緒に、登校、しようね?」
「…ん。」
「手をつないで」
「…………わかった」
「やったぁ!」
優羽が嬉しそうに抱きしめる力を強める。
(仕方ないけど解せぬ。)
心の中ではそう思いつつも、葵の口元はほんの少しだけ緩んでいた。
* * *
翌朝。
「葵ちゃーん、手、つなご!」
「……ん」
校門までの道のりを姉妹は手をつないで歩く。優羽の手は大きくて温かく、少しゴツゴツしている。武道で鍛え上げた手だ。優羽は昔から身体も大きく、体格が良かった。まるで海外のアクションスター女優だ。それがすごく、うらやましい。
「葵ちゃんの手、ちっちゃくてかわいいね」
「……うるさい」
「ふふ、照れなくてもいいのに」
(照れてない。これは断じて照れてない)
葵はぷいっと横を向いた。春の陽射しがまぶしい朝の住宅街を姉妹は手をつないで歩く。身長差は優に40センチ近くある。傍から見れば微笑ましい光景なのだが、当の葵はというと――
(いつか絶対にゆう姉より大きくなってやる)
と、ありえない願望を抱いていた。無理だ。身長は存在力で多少は伸ばせるが、40センチも伸ばすには存在力が足りなさすぎた。




