呉疾医と燕県令
「呉疾医」
女が退出し、足音が遠ざかると、仲豪が表情を変えた。笑顔でつぶれていた目が、ギラリと思遠を捕えた。思遠は、上ずった声で「はぁい!」と情けない声を出し、姿勢を正した。
「この度のご活躍、感謝いたします。これは、ほんの気持ちです」
仲豪の懐から出て来たのは、質のいい銭だった。貧民窟や地方でやり取りされる悪銭とは違い、大きさも重さも揃っている。これだけあれば、何日暮らせることか……と、ぼんやりと天井を見上げ、はっと目を見張った。
「いや、いや、いや。こんなに貰えるはずないですよね」
思遠は、銭を返そうとしたが、ひらりと仲豪が身をひるがえした。
「いえ、足りないくらいですよ。これからはお一人ではなく、あのような女性と暮らすのですから。お金、定期的に届けますね」
ニヤリと微笑む仲豪に、思遠の背筋が凍った。
「ど、どうゆうことでしょうか。え? 彼女の事、なにかご存じなんですか⁉」
「はははは」
誤魔化すように闊達に笑う仲豪。
「え? ちょ、あの、じゃあご家族の方に連絡を取っていただいて……」
「ははは」
仲豪は、笑いながら首を振り、さらに銭を取り出し思遠に押し付けようとした。
思遠は必死に腕をつっぱり、それを押し返した。
「勘弁してください!すごい、関わったら駄目な匂いがします。お金はいりません!彼女を引き取ってください!」
「まぁ、まぁ、そういわずに。彼女――元の場所に戻したら、殺されちゃいますよ」
思遠の背後を取った仲豪は、彼の耳に囁いた。
「……」
動きを止めた思遠の懐に、銭が差し入れられ、ずっしりと重くなった。
「殺されるで思い出しましたが、この度の容疑者。このままだと、10日後に縁坐で家族もろとも死罪だそうです」
「縁坐……あの娘も殺されるのですか?」
「娘も、ではなく。同居する一族全てです。逃亡せずにいたら本人だけだったでしょうが」
「そんな――あの、老人はおそらく犯人ではありません。もっときちんと捜査するようにご指示を……」
県令なら、鶴の一声で容易に官吏を動かせるはず。思遠が縋るように彼を見たが、眉を上げ、口元をきゅっと締めて微笑む仲豪から、無言の『無理です』を受け取った。
「どうして」
「ここにも、こっそり参りました」
あんなに目立つ馬車なのに? つい言いたくなったのは歯に衣着せぬ女の影響か。思遠は喉につまる言葉を飲み込んだ。
「私の耳には、この事件が起きたことすら、まだ入って来ていません。おそらく下の決定に興味を抱かず承認することになるでしょう」
「……」
「まぁ、とにかく、彼女の事、よろしくお願いします」
かつて医官として勤めていた思遠は悟った。これ以上、この話を聞いても無駄だと。上から下へ、正確な詳しい情報など伝わってこない。逆もまた然り。
あの日起きた、大きな事件と関係があるのだろうか?
またしても、あの女のような思考が生まれたが、ぎゅっと目をつぶり追い払った。
「あの、彼女の名前くらいは教えてもらえないのですか」
「さぁ、私には分かりかねますが、そうですね……メイ、という名はいかがでしょう」
「めい、どんな字を書くのですか?」
目の前の空間に書かれた文字は、思遠には理解できなかった。
仲豪は、片方の口角を上げ、挑発的に笑い「異国の文字です」とだけ告げた。




