逃走
「よし、犯人を捕らえろ」
豚顔官吏に命令され、少年官吏が捕縛用の縄を取り出した。狐顔官吏が慌てて思遠の報告書を懐にしまおうとして、落とした。
書類がパサリと娘の目前に広がった。
娘は震える手を伸ばし、その報告書を掴み――走った。
「っ⁉」
何が起きたのか分からず、狐顔官吏は報告書を拾おうとした姿勢のまま動きを止めた。
「馬伝書使! この書状を100里先の駅站まで届けなさい!」
娘は、書状を父親の胸に押し付け、その体を強く押した。
心、ここにあらずの様子だった馬季走は、娘の言葉に電撃が走ったように開眼し、眼差しが変わった。
頭の中を覆っていた雲が晴れていく。
そして押し付けられた書状を見下ろし、握りしめる。
走らなければ、早く。
届けなければ、すぐに。
いそげ
走れ
頭に命じられた足が、大地を駆けた。
遅い。
なんて、遅い足だ。
どうなっているんだ、俺の足は。
集中しろ。
前だけを見ろ。
ほら、道が見えるだろう。
風迅、いいか。
早く走るには、前を見ないといけない。
目の前じゃない。
もっと、先の前をみるんだ。
その先に、頭も体も連れて行くんだ。
凄い。すごいぞ。
お前は、女の子だが、きっと伝書使になれる。
俺は馬より早く走るが、お前は風より早い。
「待て!」
「止まれ!」
一呼吸置いて、事態を把握した狐顔官吏と豚顔官吏が老人を捕まえようと走りだした。豚顔官吏は、足が遅く話にならず、狐顔官吏が追った。少年官吏は取り出した縄の始末に手間取り、完全に出遅れてしまったようだ。
「走って!誰にも捕まってはなりません!走って!」
娘の叫びは、風となって父親の背中を押した。
馬季走は、一足ごとに、心臓から熱い血が湧きだし、漲ってくるのを感じた。
段々、分かるようになってきた。
道の先が見えて来た。
群衆の間、木々を掻き分ける狭い路地、高低差のある石段。
毎朝、見るともなしに見ていた景色が、鮮明に理解できた。
走れ
走れ
「そいつを止めろ!」
「待て!」
老人が走っている。
目は血走り、口元はうっすらと笑みを浮かべている。
人々は本能的な恐怖で身を引いた。
「誰か、そいつを、捕まえてくれぇ!」
「……止まれ、じいさん!」
走るのが、俺の仕事だ。
どこへでも届けた。
妨害のあった戦況報告も、災害の起きた土地への伝書も。
矢も、刀も、嵐も、俺の道を邪魔することはできない。
目的地に着くまで、俺は止まらない。




