前向きと、後ろ向き。
すべての作業が終わった。遺体は、米酢の紙を貼られ、筵で巻かれた。その頃になると、豚顔官吏の指示で他の官吏が棺桶をもって現れた。「もー、遅いですよ。もっと早く来てくださいよ」と文句が止まらない思遠だったが、その顔は安堵で緩んでいた。
かくして、井戸の御遺体は、本来の安置場所へと連れていかれた。
「お疲れさまでした。あー、まだ、鼻の中に色々な匂いが……」
片付け作業も済ませ、思遠がお茶を入れて戻って来た。
「この匂いは、鼻が忘れるまで匂い続けるわ。私の鼻は記憶力ないのですぐ忘れますけど」
女は得意そうに笑った。
思遠は、机に盆を置き、淹れて来た銭茶を注ぐと、「貴女は」と遠慮がちに口を開いた。
「……本当に、一体何者なんですか?」
女は、注がれた茶杯に口をつけながら、じっと思遠を見つめた。
「非常に助かりました。今日の作業は、とても一人ではできなかった。貴女が居たから、手早くきちんと行えた。だからこそ、なおの事不思議なのです。普通、裕福な身分ある女性が、こんな事しませんし、できませんよ。匂いもキツイし、失礼ですが汚い。戦場帰りの男だって嫌がります」
「そうなの?」
「そうです」
「で、なにか、私の過去、ピンと来た?」
思遠は首を振って、着席し、茶器を机の脇に移動させた。
「まったく、分かりません。それより、手を出してください」
「ん?」
「その後、変わりはないか診ます」
「あー、頭。治って来ましたよ」
思遠に、いいから手を出せと、机を指で叩かれ素直に従った。
思遠の荒れた手が、女の手首をつかむ。手のひらを上に向けられて、両方の親指側、手首辺りを三本の指で押さえられた。女は興味津々な様子で、その姿を眺めた。
「……どう?」思遠の手が離れたのを合図に、女の口が開く。
「特に、変わりはなさそうですが、真っすぐ歩きにくい、ふらふらする、見え方がおかしい、そんな事はありませんか?」
「ないよ」
「そうですか……でも、気を付けてください。酔っぱらって頭をぶつけた方で、後から大いびきをかいて眠り始めて、昏睡しお亡くなりになった人を見たことがあります」
「えぇ……、で、もし、そうなったらどうすればいいの?」
彼女の質問に、思遠は菩薩のような微笑みで首を振った。
「え? 治療法とかないの? ほら、金の鍼とかで、秘穴をついて治るみたいな」
思遠は目を閉じ、彼女の冥福を祈るように胸に手を当てた。
「えぇ⁉ あの、ほら漢方!超ドロドロの薬湯みたいなので、シャキーンと治るみたいな」
「医療は、仙術ではありません。大体、治りません」
「そ、そんな、はっきり⁉ お医者さんなのに?」
「やめました」
「えーなんで?」
「人に病は治せないと悟ったからです。今は、生きるために日常的に使用する薬や、薬湯を売ってます」
「そうなんだ。じゃあ……私、もうすぐ――魂が2つに割れちゃうかもしれないのか」
しゅん、と肩を落として、女が落ち込んで見せた。
「……それは」
「思い残すことが無いように、ご飯たべたいし、お風呂入りたい!」
死に怯え、泣きだすかと思った相手は、元気に立ち上がり、思遠は唖然と見上げた。
「これも乗りかかった船ですし、ゴシツイさん。最後の夜を一緒に楽しみましょう」
「はあ?え?ちょ……ちょっと、はああ?」
「この辺で一番おいしいお店はどこですか?」
「あ、あなた、一銭も持ってないですよね!」
「今日、働いたじゃない」
「確かに」
「さ、行くぞ。いっぱい食べれば治る!」
「治りません」
「もー、超ネガティブだよね。どうせ死ぬなら、前のめりだよ」
「死んだときにうつ伏せだと、前面が痣みたいになるのでお勧めしません。前のめりで亡くなって放置された兵士たちは、そんな感じでした」
「ゴシツイさん、背が高くて、綺麗な顔で、雰囲気柔和だけど、絶対女にモテないでしょ」
「……だから何ですか。別に求めていません」
「そう? もったいない」
「余計なお世話です」
「はい、すいません。じゃあ、行こう。ほら、お金もって」
「……」
思遠は、女の良いように扱われている自分に気が付いたが、言われるがまま、銭を束ねて入れている袋を探しに立ち上がった。




