壱
賑やかな喧騒に紛れて、男の怒声が響き渡る。
秘めやかなネオンに包まれたキャバクラの店内。其の奥のテーブルで、柄の悪い男がサラリーマン風の二人組と揉めていた。
男の年は二十代半ばと言った処で在ろうか。仕立ては良いが、皺の付いたスーツに身を包んでいた。派手な色をした短髪。褐色の掛かった肌。厳つい顔を、憤怒の表情に歪めている。
堅気の人間には見えない其の風貌。だが、ヤクザでもない。
所謂、半グレと呼ばれるチンピラだ。
「てめぇっ……今、俺の顔を見て、笑っただろがっ!」
「そんな事、有りません……」
サラリーマン風の一人が、怯えた表情で声を震わせる。
男に胸座を掴まれて、サラリーマン風の一人は完全に萎縮していた。
男に殴られたのか、白いシャツが赤黒く染まっていた。
瓜倉燈は、慌てて男を取り抑えに掛かった。其の眼は正義感に溢れていて、恐れの感情は一分も無かった。
「君、止めなさい!」
「何だ、てめえ……やんのかよ。警察だからって、嘗めんなよ!」
男は完全に酔っ払っていた。
燈は店から通報を受けて、駆け付けて来た警察官で在った。大体の人間は、燈の制服を見た途端に大人しくなる。警察に逆らっても碌な事に為らないからだ。
だが、男は逆上して、抵抗して来た。
「殺すぞ、くらぁっ……」
殴り掛かる男。
燈は難なく拳を左手で払い退けて、右手を男の腕に絡み付ける。半身を捻って、男の腕を後ろ手に廻して、抑え込んでいた。
警察官は通常、柔道を会得しているのだが、燈の動きは古武術の物で在った。燈の実家は、江戸時代から在る流派の道場を開いていた。
其の為、幼い頃から、兄と共に武道を習っていた。
「……いでででっ。解った、解った……解ったから、離してくれ!」
「暴行罪、及び公務執行妨害で逮捕します」
燈は手際良く男に手錠を掛けていた。其の眼は真っ直ぐで、澱みは一切も無い。
遅れてやって来たもう一人の警察官が、燈を見て溜め息をついていた。
「お兄さん、運が悪いね。こいつ……犯罪者と成ると誰彼、構わず逮捕するから」
「新垣さんは、甘いんですよ。犯罪を犯せば、どんな罪で在っても償わなければいけないんです!」
燈は正義感に溢れた青年で在った。
どんなに小さな悪で在っても、摘み取るべきだと考えていた。其れ故に、警察官の道を選んだのだ。
其れなのに燈は、警察官と言う職業に憤慨していた。
市民の平和を護り、悪を取り締まるのが警察官の仕事だ。其の警察官がヤクザと馴れ合い、互いの利益を貪り合っていた。
相手が犯罪者で在っても、権力に靡き金に尻尾を振る同僚。正しい者が悪と看做され、悪しき者が正者とする現実。
不正が跋扈して、横領や汚職が闇に葬られる実体。其れ等の事柄に成す術がない無力な自分。
そんな日常に吐き気がする程、腹が立った。何よりも、自分自身に腹が立った。
——なら、俺が総ての悪を裁いてやろうか?
「どうしたんだ、燈?」
「いえ、何でも有りません」
何処からか、声がしていた。
男を連行しながら、燈は不穏な気配に身構えていた。
——悪が憎いんだろう?
「嗟、憎いさ……」
燈は無意識の内に、声に答えていた。
——ならば、我を受け入れるが良い。そうすれば、全ての悪を一掃してやろう。
燈の体を、黒い靄の様な物が覆っていた。だが周囲の者は、其れに気付いていない。
どうやら、燈にだけ見えている様だった。
——どうした。我を受け入れよ。そうすれば、お前の望みは叶うぞ?
聞こえて来る其の声は、正義とは対極に位置する様な気がした。
何処か悍ましくて、邪悪な気配を感じていた。
其れは燈に取って、尤も忌むべき存在で在る。
声の気配は得体が知れないが、其の邪悪な本質を本能的に理解していた。
悪に染まるつもりは、毛頭なかった。
「断る。俺は、悪には屈しない」
淀み無い口調。迷い無き声音。
己の正義に堅実で実直な燈は、正に警察官の鑑の様な存在で在った。
故に警察官には向いていなかった。
幾ら正当に己の正義を振り翳そうとも、社会に於いては異端と成ってしまうからだ。現代の日本人は、少数派を敬遠する傾向に在る。皆、長い物には巻かれたがる。冒険を避け、無難を良しとする。堅実に生き、安定を求めるのだ。だからこそ、正義なんて事は二の次どころか、疎かにされて忘れ去られている。
故に燈は周囲の人間から、変わり者として映っていた。
規律や規則に縛られた警察組織の中では、燈の思想は危険視されてしまうだけで在った。
もしも今が乱世の時代ならば、燈は間違いなく英雄に成れたで在ろう。
併しながら平時に於いては、英雄とは危険分子と成り得た。
故に燈には、出世の道は無かった。元より燈には、出世欲が無かった。
在るのは、悪の根絶と言う使命だけで在る。
悪が憎かった。
気が付いた頃には、燈の周囲の靄は消えていた。
男をパトカーに乗せて、真っ直ぐに見据える。一点の曇りも無い視線を受けて、男は狼狽えていた。
「今更、後悔するなら初めからグレるな!」
叱責を受けて、男は黙り込んだ。
「罪を償って、聢りと公正しろ。お前は、未だ若い。今なら、引き返せる。人に顔を背ける様な生き方は已めろ!」
男が何処で途を踏み違えたのかは解らないが、人生はやり直しが利く。
死ぬ気で変わろうと思えば、どんな人間にだってチャンスは必ず訪れる。
況してや男は、未だ二十代だ。将来の可能性を己の手で潰すのは、余りにも勿体ない。
「アンタに、俺の何が解るんだ……」
ぼそり……と、洩らす。其の声は、卑屈に染まっていた。はっきり謂って、男は負け犬だ。そんな男を燈は好きには為れない。
酒の席で管を巻き、他人に暴力を振るう奴は屑だ。人の迷惑を顧みない人種に、明日は無い。愛の無い人間。自分の事ばかり考えている人間に、幸せは訪れない。目的意識も無く只単に、其の日を生きているだけの者には到底、光なんて差しはしない。
「お前みたいな負け犬、理解りたくもない。だが、悔しくないのか? 腹立たしくないのか? 糞喰らえな日常。底辺の世界で、野良犬の様に彷徨う自分。夢も希望もなくて、真っ暗な未来。変えたいとは、思わないのか?」
男は何も答えなかった。自分と重ね合わせて、余計に苛立ちが加速して往った。自分は負け犬なんかでは、絶対に終わらない。必ず事を成してみせる。
男が只、拳を強く握り締めているのを、燈は見逃さなかった。悔しさが無い者に、希望は生まれない。
「おいおい……其れぐらいで、勘弁してやれよ」
新垣が堪り兼ねたのか、制止の声を掛けて来る。
燈は溜め息をついただけで、其れ以上は何も言わなかった。




