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鈴木灯子さんへ


 前略


 連休中は返信もできず申し訳ありませんでした。灯子さんは大垣に帰省されていたようで何よりです。実は私も姉と一緒に京都の家に行っていました。遠く離れて普段は会えない家族に久々に会えるのは良いものです。灯子さんもご家族も、この機会にいいひと時をお過ごしになれていたら幸いです。

 お久しぶりです灯子さん。新座秀子です。先述は金蝶園饅頭美味しゅうございました。酒蒸し饅頭ということで一口ごとに日本酒の甘い香りが立ち上ってきて、粒あんの優しい甘味が二個三個と手を伸ばさせる、病みつきになるお饅頭でした。前回返礼に差し上げましたえの木ていのチョコレートケーキはいかがでしたでしょうか。お気に召したのであれば幸いです。今回は京都銘菓の味噌松風を土産物として皆さんに差し上げましたが、そちらも召し上がって頂ければ幸いです。

 名古屋のリセまで進学されたという灯子さんの幼馴染みのお話、興味深く読ませて頂きました。その方もお父様のピアノ教室に通われていたのですね。私の場合、等々力の先生のところは受験塾のような環境だったからか、そうした生徒間の横の繋がりが絶えて無かったので、幼馴染みとはいえ、教室を通じた横の繋がりのお話は新鮮で、面白く読ませて頂きました。ご実家がピアノ教室ならではの面白いお話はまだまだ秘蔵されていらっしゃるのではないでしょうか。ぜひ灯子さんのその語り口で聞かせて頂きたく思います。

 リセに行かれたその方とは今もお手紙のやり取りをされているようで何よりです。筆まめな灯子さんですから、私のようにずぼらにして、何週間も手紙を寄越さないなどということも無いのでしょう。また、コンセルヴァトワールの学生はとかくリセの生徒に対してコンプレックスを抱きがちですが、その方と同じリセを選ばずあえてこのコンセルヴァトワールを選んできた灯子さんならば大丈夫でしょう。私立の音大に行くよりもトータルで学費が安く済む上に、教職資格の取得まで可能なコンセルヴァトワールは、灯子さんがお父様の教室を継ぐためにも良い選択肢だったと思います。

 さて、今回は灯子さんのご要望に従い、私の二人の母についてお話したいと思います。私の産みの母である小椋悠季子さんと、育ての親である新座雛子の二人は、血の繋がらない姉妹でありながら、本当の姉妹のように深く強く結ばれた特別な関係にあります。それは母がひそかに悠季子さんを呼ぶときの「姉様」という一言を聞くだけでも、悠季子さんがひそかに母を呼ぶときの「雛ちゃん」という一言を聞くだけでも明らかです。

 ここからのお話はかつて夜伽話に悠季子さんから聞いたお話が基になっています。私はかなり正確にそのお話を覚えているつもりです。悠季子さんは布団に潜った私たち姉妹の枕元に正座して、絶えず微笑みを浮かべながら、長々とこの話を語り続けました。語り終えたとき、姉は倣いを使うのに疲れて途中で寝てしまい、最後まで聞き続けたのは私一人でした。時刻は午前一時をとうに過ぎていました。悠季子さんは脚の痺れた様子も見せずに立ち上がると、今日もお疲れ様、続きはまた大きくなってからね、と言って部屋を出ていかれました。以来私はその「続き」を聞いたことはありません。そのためここで語れる以上の詳細についてはご容赦願います。

 昭和四十四年春のことです、北白川の小椋家に一人娘が生まれました。娘は生まれたときから体が弱く、入退院を繰り返していました。両親は娘に悠季子と名付け、その長命を祈りました。小椋家は南近江に本家を持つ赤毛人の旧家です。その京都の庶流が北白川の小椋家に当たり、明治以来京都の司法官を代々輩出してきました。悠季子さんの母も当時は京都地方裁判所の新任判事を務め、特に刑事司法分野では若手のホープとして知られていました。悠季子さんの父は大阪国税局の管内で何度か税務署長を務めた毛人の税務官僚で、少し母親と歳は離れていましたが、単身赴任が多かったものの週末毎には京都の家に帰ってくる、家族思いの父親でした。

 悠季子さんは循環器系の、現在では国指定の難病で、幼少期から入院や手術を繰り返してきました。多忙な両親に代わって当時雇われていた住み込みのお手伝いさんが四六時中面倒を見てくれていたのだと言います。両親より先にヨネさんというそのお手伝いさんの顔を覚えた悠季子さんは孤独な子供でした。両親が番子を取ろうかと考え始めたのは、悠季子さんが三歳になって、一人遊びを始めた娘の孤独がより強く感じられるようになったことがきっかけでした。同年代の番子が始終身の回りで悠季子さんの面倒を見てくれたり、遊び相手となってくれたりすることで、娘の孤独が癒されるのではないかと考えた両親は、周りで番子に来てくれそうな娘はいないかと情報を集め始めました。

 改めて説明するまでもないことですが、公的支援や民間支援事業者の制度拡充につれて、番子制度は当時からもう珍しいものになりつつありました。純人の家に生まれた毛人や赤毛人の子を番子として毛人や赤毛人の家で育てるよりも、母子学級や幼児教室の中で支援を受けて育ててゆくという考え方が一般的になりつつあったのがちょうどこの時代の少し前辺りからです。きょうび番子を探す悠季子さんの両親の姿は珍しく、噂は京都市内を越えて大阪府内にも及びましたが、娘を番子に出してもいいという親を探し出すのは中々時間が要りようでした。

 やがて枚方税務署長になった悠季子さんの父の下に、管内の山崎蒸留所に勤める純人の技師の下に赤毛人の小さな娘がいる、という話が届きました。早速話を聞きに行った悠季子さんの父の前に現れたのが、私の母の父でした。母の父は、自分のところには今年で二歳になる赤毛人の娘がいるが、身近に赤毛人の知り合いもいないので、育て方に困っていると打ち明け、もし小椋家に番子に出しても良ければこちらとしては渡りに船だと言いました。その話し振りには物事を性急に進めてしまいたいような雰囲気があり、悠季子さんの父は不安に思いました。

 私の母の雛子が生まれたのは昭和四十五年の末のことでした。父親は前に述べた通り山崎蒸留所の技師をしていましたが、本来は会社の仕事で全国を飛び回る転勤族でした。母親も父親に従いながらパートタイムの仕事をしてきましたが、思わぬタイミングで子供ができたため、当時は仕事を辞めて専業主婦をしていました。両親は共に純人で、親族にも毛人こそいれ、赤毛人の気配すら無かったところに赤毛人の娘が生まれたのですから、親族間では大混乱が起き、そしてそれはすぐに一族を巻き込んだ疑心暗鬼へと発展してゆきました。みんな、偶然純人の家に赤毛人が生まれる確率よりも、どこかで不貞が行われた確立の方が高いと考え、そして実際に過去に行われた不倫や浮気が次々と発覚していったのです。

 そのような中で母の父も妻の不貞を疑い、夫婦の仲は娘が生まれた途端に冷え切りました。のみならず母の母には夫に後ろめたい事情があったらしく、娘を人目から遠ざけるように、公的支援や民間の支援も受けずに自分一人で育て始めました。母の父は次第に家庭をないがしろにし始め、家に帰らない日も続くようになりました。番子を探しているという小椋家の噂が母の父まで及んできたのは、そんな状態が二年も続いたある日のことでした。渡りに船とは、実際にはこのような事情を背景に発せられた言葉だったのです。

 母と悠季子さんが初めて会ったのは、母が三歳、悠季子さんが四歳になる年のお正月のことでした。言葉の早かった悠季子さんとは対照的に、言葉の遅かった母は、悠季子さんからしきりに話しかけられ、怖くて泣いてしまったそうです。それでも仲良くなれたきっかけは食事を共にしたことであったといいます。母はそれまで赤毛人の子供に必要な栄養価の高い食事を満足に摂れておらず、手足は折れそうなほど細い一方でお腹ばかりが丸い栄養失調状態にあったらしく、ヨネさんの作る赤毛人向けの食事で初めて満足な栄養を接種できたのでした。

 食事の後は安心して寝てしまった母をヨネさんと悠季子さんに任せている間に、小椋家と母の実家の間で番子の契約について話し合いが持たれました。母の父は娘をさっさと番子に出してしまいたがったのですが、母の母は娘を自分の手元に残したがったようです。それは初めて赤毛人の暮らしに触れたことで、余計自分の子育てに意固地になったと言えるものでした。夫婦の間にはお互いに緊張感と嫌悪感が滲み出しており、娘を気の毒に思ったのは小椋家の人々でした。母をこの家庭に育てさせるよりも、自分たちのところで番子にした方がよっぽど母のためになると考えました。しかしこの時は交渉がまとまらず、一旦母は両親に連れられて実家に帰りました。

 しかし両親の間で不和が大きくなると、自分の実家にも寄る辺ない母の母は度々小椋家の下まで駆け込むようになりました。最初の内は娘に食べさせるご飯の作り方を教えて欲しいなどの言い訳を用意していましたが、小椋家の人々の同情を得ると、夫のいる家庭から逃げ出した際の避難所として避難所として小椋家を利用するようになりました。娘の世話は次第になおざりになり、ヨネさんと悠季子さんに預けることを期待するようになってゆき、遂には託児所代わりに娘を預けると、自分はどこかへ行ってしまうようにもなりました。

 そんなことが一年近くも続いた後、母の父が一人で娘を連れて小椋家を訪れました。妻は自分で仕事を始めて家を出ていった、自分は山崎から離れることになって一人では娘を育てることはできない、この通りだから娘を番子に貰って欲しい、という意味のことを言った後、母の父は玄関の三和土に額を擦り付けて頼みました。見るに忍びないその姿に、小椋家の人々はその場で遂に母を番子に取ることを決めました。母の父は抱えてきた札束を押し付けるようにして養育費用を支払うと、そのまま冬の夜に消えてゆきました。

 それから母は番子として小椋家で暮らすようになりました。まだ四歳になったばかりの母に悠季子さんの身の回りの世話は期待できなかったので、当面は悠季子さんの遊び相手をさせつつ、赤毛人の暮らしを教えてゆくことになりました。覚えることは沢山ありました。純人の摂取カロリーの三倍は取らなければならない赤毛人の食事は、四歳になって大人と同じ食事を摂るようになり、また好き嫌いがはっきりしてくるようになった母にとってはは慣れなければいけない課題の一つでした。幸いそれまでに仲良くなっていた悠季子さんがお姉さんとしての手本を見せることで、幼い母は少しずつ小椋家の生活に馴染んでゆくことができました。

 母が次第に番子として悠季子さんの身の回りのお世話をするようになったのは、五歳になってからのことと聞いています。その頃悠季子さんの体調が悪くなってきて、ヨネさんと一緒に看病をしている内に、これまでの「悠季ちゃん」が「お嬢さま」であることを意識しだしたのだと言います。悠季子さんは入院して大きな心臓の手術をすることになり、母は毎日ヨネさんに連れられ病院に通ったと言います。悠季子さんはこれがもとで小学校に入るのが一年遅れ、母と同学年として入学することになりました。

 入学した学校はかつて私の姉も通っていた私立の女子校で、京都中から赤毛人の名家の子女が多く通ってくる学校でした。当然その番子も数は少ないものの集まってきていて、母はそのグループに加わるようになり、友達を作ってゆきました。大抵の番子は年上の「お嬢さま」を持つ中で、同学年の「お嬢さま」を持つ母は珍しがられました。のみならずそこには、番子の中には上級生の「お嬢さま」とは家で始終顔を合わせているため、学校はむしろ解放の機会と捉える子が多かったのに対して、母は四六時中「お嬢さま」と顔を突き合わせていることへの哀れみにも似た感情も向けられていました。

 多くの場合、番子というものは主従契約であると共に兄弟姉妹の契約であるとも見なされますので、「お嬢さま」には番子を教え導く役割が期待されます。大抵の場合、周囲の大人が支えることで何とかやってゆけるのですが、悠季子さんの場合は、同学年として隣に立って一緒に歩んでゆくやり方を取りました。それは当然周囲の大人がそうするようにした結果なのですが、母と悠季子さんは双子の姉妹のように一緒にいるようになりました。のみならず内気な母は「お嬢さま」である悠季子さんを二人きりの時はこっそり「姉様」と呼ぶようになりました。

 母と悠季子さんの仲が良かったのは、単に子供同士始終顔を合わせていたから当然の域を超えて、やはり悠季子さんの面倒見がよかったこと、それと、その悠季子さんの体調が崩れがちなときに、母がその身の周りのお世話を焼いていたことが要因となりました。母はヨネさんから家事のいろはを教わり、中学校に上がる頃には毎日の食事を賄う役割を担うようになっていました。家ではこうした「お嬢さま」に仕える番子として割り切って忠実でありながら、学校では母は「姉様」と実の姉妹のように仲睦まじく過ごす、一種の二重生活が送られてゆきました。

 中学校に上がると、悠季子さんと母は揃って演劇部に入りました。演劇部には女学校時代の名残で先輩が後輩を慈しむ文化があり、美人の悠季子さんは当然として、身体の小さかった母も先輩方に大層気に入られたと言います。悠季子さんはすぐに娘役の端役を割り当てられ、役者として舞台を踏むようになりました。母は一方で内気な性格から、当初は衣装や小道具といった裏方に徹していました。演劇部では年に二回公演の場がありました。公演ごとに悠季子さんの立ち位置はゼロ番に近づいてゆき、また母はその役割を演出や舞台監督に変えてゆきました。

 中学三年生の秋公演のことでした。つかこうへいの『初級革命講座飛龍伝』を演じるにあたり、遂に母が演出を、悠季子さんが主演を射止めました。学園祭の主要な催しの場で公演を成功させれば、高校の演劇部でも評判になるのに違いありません。果たして母の演出は高い評判を得ました。テンポのいい進行と大胆な美術の融合によって生まれた幻惑的な雰囲気の中で、悠季子さんの演じる山崎の吹っ切れた演技が相まって、観客の熱狂を誘いました。中学生の演劇に対して、終演後にスタンディングオベーションが起こり、その光景は今でも忘れられないと悠季子さんは言いました。

 高校の演劇部でも『初級』の評判は高く、当時の部長が直々に部室を訪れて、制作スタッフを高校の演劇部に勧誘しに来るほどでした。当然母と悠季子さんも勧誘を受けたわけですが、しかし高校に進学すると母と悠季子さんは共に放送部に入ってしまったのでした。この時の選択について何があったのか、悠季子さんはあまり話そうとしませんでした。ただ、この話をすると母がひどく機嫌を損ねてしまうというばかりでした。しかし、幸いにもこのとき隙を見て姉が悠季子さんの心の内を読んで、その秘密を解き明かしていたのでした。私はこの手紙を書く前に、それとなく姉にその内容を聞いてみました。姉はうろ覚えでしたが、話の大筋については信頼できると言っていました。以下は姉の話に基づき、私が再構成を加えた「おはなし」としてご笑覧頂きたく思います。

『初級』の公演後、中学演劇部の周りには高校演劇部の姿がしばしば見えるようになりました。それは当然、公演の評判を受けて、有望な後輩に今の内から唾を付けておこうという魂胆より出たものなのですが、中にはより一層進んで、気に入った後輩個人と関係を持とうとする狙いの上級生もいたようです。何人もの部員がその魔手にかかっては、空しく初恋を散らしていったその中に、私の母の姿もありました。相手は俳優部の男役で、高い身長と中性的なショートヘアで主演を欲しいままにする上、演出部にも顔の通じている高校演劇部のエースでした。その人と母は舞台の演出の話題から親交を深めてゆき、互いに性格が合うところがあったのか、母は次第にその人に引かれてゆくことになりました。

 悠季子さんは半分面白がりながらも、二人のことを温かく見守っていました。学校での逢引きやデートの日には番子としての役目を免じることで母の初恋を後押ししました。二人の交際は半年ほど続いた後、突然破局は訪れました。母が付き合っていたその人に、別に付き合っている同級生がいたことが明らかになったのでした。母は泣き、悠季子さんは怒って母を連れ、その人の下まで押しかけました。自分の番子に対してあなたのやったことは見過ごせないと詰め寄る悠季子さんに対して、その人はあくまでも妹として付き合っていただけだと弁解しました。女学校時代の名残で、そうした疑似姉妹関係を築くことがまだ行われていた時代でした。何が妹か、私のお姉さまは小椋悠季子ただ一人だと言い切った母を背に、悠季子さんはその人の顔を平手で打ちました。

 こうして母の初恋は破れ、悠季子さん共々演劇部を避けて入ったのが放送部でした。当時最新の八ミリビデオカメラとその編集機材を備えた放送部から、我が部でドラマを作らないかと勧誘を受け、傷心の母と悠季子さんは新たな領域への挑戦を決めたのでした。とはいえ二人に求められたのは、元演劇部としてのドラマ作りのノウハウだったので、当初やるべきことは演劇部の頃と変わらず、主演女優の悠季子さんと演出家の母がそれぞれ先輩の言うがままに撮影に臨んでいました。その放送部はNコンのアナウンス部門では出場常連校でしたが、テレビドラマ部門に乗り出すに当たって、元演劇部の母と悠季子さんは大いに重宝がられました。

 最初の一年はそうして先輩の下でドラマ作りに励んでいた二人でしたが、母はすぐに演出の傍ら、自らカメラを持ち、撮影、編集まで自ら行うようになりました。脚本まで自ら書くようになったとき、母の関心はドラマ作りからドキュメンタリーに移っていました。毎日カメラを担いで取材に出かけ、あるいは部室に籠って編集に勤しむ母の傍らで、悠季子さんはドラマ班の人々と共にドラマ制作に取り組んだり、校内放送のアナウンスを担当するなどしていました。一人黙々とドキュメンタリー制作に励む母は放送部の中でも浮いた存在でしたが、悠季子さんは母の制作した作品にナレーションを入れたり、あるいは案内人として出演したりと、協力を惜しみませんでした。母の作品は部内の上映会でこそ評判は今一つでしたが、学園祭など一般の目に触れるところでは評価が高く、Nコンにも初出品で入選するなどして、悠季子さんと共に校内ではちょっとした有名人になってゆきました。

 悠季子さんは病気こそ抱えていましたが、美しくそして頭も良く、正確も穏和かつ毅然とした、才色兼備の麗人でした。家職の裁判官を目指して早い内から勉強していたこともあり、欠席日数も少なくないにもかかわらず成績は常に学年の上位を占め、同級生の憧れの的でした。母も番子として悠季子さんに恥をかかせないよう努め、悠季子さん程では無いものの、好成績を確保し続けていました。母の作った八ミリ映画や校内放送を通じて二人が少しばかり有名になると、周りに集まってくる人も増えるようになりました。初めは同級生から、やがて先輩や後輩も、異端の名監督とその主演女優の噂を聞きつけて放送部を訪ねてくるようになりました。中には悠季子さんを目当てに妹にしたり、あるいは姉になってもらおうとして、恋文まがいの手紙を届けに来る生徒もいましたが、悠季子さんはそれらに一切応じることはありませんでした。稀には母を狙った手紙を渡しに来る生徒もいましたが、悠季子さんを姉と慕う母もこれらに心動かされることは無かったと言います。

 この頃母の実家では、長い別居生活の末に離婚調停が持ち上がることになり、母は両親が自分の親権を押し付け合う様を目撃するという憂き目に遭いました。小椋家の人々も調停の行方を見守りながら、母の様子を気にかけていたと言いますが、それでも母の憂鬱を癒すことはできませんでした。悠季子さんですらこの時期の母には為すところ無かったと言いますから、相当なものです。結局母の回復を為したのは母自身による行動の結果でした。母は自らの生い立ちをテーマに、純人の間に生まれた毛人や赤毛人の子供の問題について独力で取材を進め始めました。悠季子さんの協力すらも断って、母は黙々と制作を続けました。そうして母はNコンのドキュメンタリー部門に出品する一本のテープを作り上げました。

 試写会の評判はいつも以上に散々なものでした。母がこれまで作ってきた作品に見られた底抜けの明るさや外向性とは正反対に、内省的で暗い雰囲気が全編にまとわりつき、カメラワークの端々からじっとりとした湿度が感じられる、ドキュメンタリーと言うよりもかなり芸術性の高い映像作品であることは誰の目にも明らかでした。これまで母の作品を支持してきた部員も、今回ばかりはどう評価したらよいものか頭を抱え、従来から批判的だった芸術派の部員は、最早これはドキュメンタリーと言えるのか、と呆れ果てました。そのうえで本当にこれをNコンに出品するつもりなのか、議論が巻き起こりました。最終的には顧問の鶴の一声で、これまで母の作品を出品してきた前例に倣って、出品を認めることになりましたが、部内には相当の不安と困惑とが沸き起こりました。

 しかしこれが全国大会に進出し、銀賞を受賞してしまうものですから、部内は大騒ぎになりました。選評ではむしろその芸術性の高さが評価され、なおかつ取り扱ったテーマとそこに対する向き合い方が真摯なこと、一般の視聴者に伝達する上での視覚効果が十分に考えられていることなどが述べられていました。当の母はそれ見たことかと威張ることもせずに、じっと喜びを噛み締めていたと言います。それと共に、母の中ではこれで何かが吹っ切れたようです。以降はこれまでにない明るさを取り戻し実家の離婚話についてはもはや他人事として取り合わないようになりました。悠季子さんは一抹の不安を覚えながらも、ともかく母に明るさが戻ったことを喜びました。

 母の実家の離婚調停はもつれにもつれた結果一年以上もかかって、高校最後の年末にようやく決着がつきました。母の親権は母の父が不承不承引き継ぐことになりましたが、最早母は自分の父を父親とは見ていませんでした。悠季子さんは離婚調停の結果を聞いた母から、初めて自分は小椋家の養子に入りたい、悠季子さんと本当の家族になりたい、と告げられました。母は涙を流しながら、自分がどれだけ小椋家の人々を慕っているか、悠季子さんを実の姉のように愛しているかについて話し、さらに自分の父も最早家族とは思えないこと、番子のままで父と関係を持ち続けるのは耐えられないことなどを訴えました。Nコン銀賞の受賞以来、自分と両親とは無関係になったものと常に気を張っていたものが決壊した母は大泣きに泣きました。悠季子さんは母を抱き締めて、自分自身も泣きながら、これからは本当の家族になろうと約束しました。

 それから後の展開は早いものでした。悠季子さんと母は小椋家の両親に膝を突いて養子にしてくれるよう願いました。番子が養子になる例の珍しくないことを調べ、悠季子さんが一通りの理屈を述べた後は、両親が折れるまで頭を下げ続けました。小椋家の人々も体の弱い悠季子さんの保険として、母のことを養子に迎えるのも吝かではありませんでしたが、家族が一人増えるのですから、並大抵のものではない覚悟が必要でした。その覚悟を決めてから母の父に申し出たところ、娘を嫁にやるような清々しさで母の父はこれをあっけなく了承し、後はとんとん拍子に物事は進みました。その年の内に養子縁組が行われ、母は小椋雛子として新しい年を迎えることになりました。これ以降母の両親は小椋家の両親だけとなり、再び母の実の両親が母の前に現れることはありませんでした。私はこれ以前の母の姓を知りませんし、母の実の両親の名前も知りません。悠季子さんのお話を聞くまで、私たち姉妹は母と悠季子さんが本当に年子の姉妹だと思っていました。それでいいのかもしれませんし、私も母の触れたくないことを強いて聞こうとは思いません。

 お正月にお屠蘇で姉妹の杯を交わした母と悠季子さんでしたが、目の前に迫っていたのは大学受験でした。エスカレーター式の女子大学もあるにはありましたが、法曹を目指すに当たって悠季子さんは当然京都大学を受験するつもりでした。母も今や小椋家の一員として進路を選ばなければなりませんでした。倣いこそ違えれども、いざとなれば悠季子さんの代わりになれるように、母も法曹の道へ進むことは運命付けられているかのように思われました。表面上は母もそれを受け入れているかのように見えましたが、しかし母の中には別の進路に対する希望が芽生えていたのでした。

 そのことを母が打ち明けたのは、すでに願書を提出してしまった後のことでした。母は内緒で東京の私立大学に願書を送り、映像ジャーナリズムの道へと進むことを目指していたのでした。これにはさすがに小椋家の両親も立腹せざるを得ませんでした。もっとも、それはなぜもっと早く言ってくれなかったのか、というもので、家の意思に反して勝手なことをしたと咎めるものではありませんでした。しかし小椋家に入った途端、東京に出てゆこうとする母の振る舞いに、悠季子さんを含め小椋家の人々は深く衝撃を受けました。それでも悠季子さんはすぐ母を応援する立場を取りました。共通一次を挟みつつ、二人して何度も頭を下げ、ようやく受験の数日前になって許しが下りました。

 早朝一番の新幹線に乗って、母と悠季子さんの二人で東京へ向かったのは、元号が平成に代わって丁度一ヶ月が経った日のことでした。大学受験を控えながらとは言え、初めての二人旅に母も悠季子さんも気分が高揚していました。東京に着くと勉強もそこそこに観光に出かけ、母は悠季子さんと東京の風景をカメラに収めました。この時の映像は今も残っていて、私も見たことがあります。若いときの悠季子さんがはしゃいでいる姿は、落ち着いている今の姿からは想像もできない可愛らしいものでした。東京では流行りの店に行って美味しいものを食べ、シングルベッドに二人寄り添って寝たと言います。

 翌朝、受験に向かった母を送り出した悠季子さんは、待っている間東京のあちこちの寺社や教会を巡って母の合格を祈りました。特に母の受験した大学と宗旨の同じカトリック教会には念入りにお参りしたと言います。その甲斐あってか、母の受験の手応えは上々でした。悠季子さんはそれを自分のことのように喜び、しかしまた少しだけ寂しい気分になりました。帰りの新幹線の中で、悠季子さんはずっと母の手を握っていました。悠季子さんの不安に応えて母もその手を放しませんでした。姉妹はそうして家に帰るまで手を繋いでいました。

 母の合格の報せが届いたのは、悠季子さんの受験が終わって数日後のことでした。今度は悠季子さんも我がことのように喜んだりはせず、冷静に母の上京の準備に取りかかりました。母は自立の時が迫っているのを感じ、悠季子さんが努めて冷静に振る舞っているのを理解していました。その日から母と悠季子さんは布団を別々の部屋に敷くようになりました。悠季子さんの体調が急変した時のリスクを取っても、母が一人ででも生きてゆけるようにしてあげようという思いやりが優りました。悠季子さんの思いやりは、その他生活の細部にまで及び、それは悠季子さん自身の自立にも繋がってゆきました。それまで互いに依存していた姉妹がそれを断ち切るためには尋常ならざる覚悟を要しました。それはまさに身を切られるような苦しみを伴うものでした。

 そのうち悠季子さんも京大に合格し、いよいよ姉妹の別れの時が迫ってきました。三月の末、悠季子さんは荻窪にある母の下宿先まで訪れて引っ越しを手伝いました。母の荷物は衣類と少々の勉強道具の他は殆どありませんでした。これまで撮影してきたビデオも含め、母は大抵の物は京都の実家に置いてきました。それは自分のいない間でも、帰るべき場所としてちゃんと京都の実家を位置付けているという意思表示なのでしたが、悠季子さんにとっては母が古い生活を脱皮して、一から新しい生活を築き上げてゆくようで、置いて行かれる者としての寂しさを感じずにはいられませんでした。荻窪の街で食品の買い物に出かけたとき、悠季子さんは思い切ってその寂しさを母に吐露しました。母は、大学の休みには必ず京都に帰ってくるから、と約束することしかできませんでした。

 大学が始まると、早速悠季子さんは母に宛てて手紙を書きました。大した用事もない手紙でしたが、これを恒例にして電話を持たない母と連絡を保とうと考えたのでした。母はすぐに返信を出しました。几帳面な母らしく、悠季子さんが京都に帰ってから現在に至るまでの生活の様子や、始まったばかりの大学の様子を事細かに書いて寄越しました。以降、姉妹の文通は大学卒業まで続きました。概ね月に二往復のペースで行われたそれは、姉妹の絆を確かめ、また強める働きを持ちました。手紙には様々なことが書かれました。日常生活のこと、学生生活のこと、最近見た舞台のことやアルバイトのことなど、特に用件がなくとも書くことは尽きませんでした。ことに母は東京という新しい世界に進出した喜びを手紙に綴りました。定期券内の大都会新宿の劇場で新作の舞台を見たような話を聞く度に、家と大学を往復するだけの慎ましい学生生活を送っていた悠季子さんは、母が幸福な学生生活を送れていることに安堵しました。

 母は大学でジャーナリズムを学びながら、更に大学の報道部に入部して、学内新聞の編集にも携わりました。部内初の映像記者として、学校行事を東奔西走し、スチール写真では撮れない動画独特の構図を数多く収めては紙面に掲載し、また自ら主宰した学生と記者との交流イベントでそれらを編集上映しました。その報道部で母と掲載を競っていたカメラマンの中に、後の私の父、新座数馬がいました。一学年上だった父は、母を後輩として可愛がるよりも、最初は同業者としてのライバル心で接していたようです。同じ赤毛人のよしみもあって、母の方からアプローチをかけたところ、次第に取材先に同行するようになり、協力して撮影するようになっていったのだと言います。

 一方その頃悠季子さんはヘルスケアのつもりで大学から弓道を始めていました。話を急ぎますと、このときの同期に医学部の橋詰冬樹さんがいました。冬樹さんは一浪していたので、悠季子さんとは同い年の学生でした。それが機縁となってよく話す仲になっていったという悠季子さんでしたが、実はその時にはもう倣いを使わずとも、冬樹さんが悠季子さんに一目惚れしていたのを分かっていたのだと言います。冬樹さんの視線が悠季子さんを追いかけているのに気付く度に、悠季子さんは偶然を装って視線を合わせ微笑んであげました。そうすると冬樹さんはなんとか誤魔化そうとするのがとても可愛らしいものだったと悠季子さんは言います。法学部のある本部と医学部とは離れているため、普段顔を合わせるはずもなかったのですが、冬樹さんは悠季子さんを探してよく本部を訪れました。そうして出会うと、奇遇ですね、と言ってのけるのですから、悠季子さんは笑ってしまわないように堪えるので精一杯だったと言います。

 母は毎年春夏冬の休みには律儀に京都の実家に帰ってきていました。二人にそれぞれ出会いがあったときでも、姉妹は一旦再会すれば元の通り仲睦まじく過ごすことができましたし、また姉妹も努めて変わらないように過ごそうとしていました。ですが姉妹でデートに出かける回数はむしろ以前と比べて増加しました。それぞれに変化してゆく日常の中で変わらないものを探すように姉妹は互いを求め合いました。列車に乗って城崎温泉まで泊まりに行ったり、比叡山を越えて琵琶湖の湖畔まで行ったり、あるいは大阪の繁華街まで遊びに行ったりと、畿内のあちこちへ足を伸ばしました。ですが三回生の春休みに南紀白浜温泉まで行ったところで、遂に変わらずにいることにも限界が訪れました。

 母が大学に想い人がいることを打ち明けたのは、このときのことでした。悠季子さんは薄々覚悟していましたが、しかし実際に聞くと、腹の奥底がずしりと重くなったような悲嘆が襲ってきて、少しでも声を出せば泣き出してしまいそうな気持ちになりました。母はそんな悠季子さんの様子を見て、どんどん涙声になりながら続けました。見ていられなくなった悠季子さんが止めるまで、母は宿の畳に指を突いて頭を下げ続けました。悠季子さんは母を抱き締めると、一緒に泣きながら母に愛情を伝え続けました。そうして涙が枯れるまで共に泣いた後、悠季子さんは初めての失恋の傷の痛みと、そのあとに残る愛情の温かさとを噛み締めながら、母からそっと手を放しました。

 かくして姉妹の恋は終わりを迎え、母は通信社のカメラマンとなった想い人を連れて四回生の夏の帰省に訪れました。悠季子さんは初めて私の父に会ったときのことをよく覚えていました。赤毛人同士のカップルに待ち受ける様々な苦難を予感しながらも、悠季子さんは二人を祝福する言葉を述べました。昭和軽薄体を形にしたような性格の父に対して悠季子さんはこの人ならかえって母を安心して任せられる、という印象を受けました。小椋家の両親も父のことを気に入りました。そうして母と父とは全身に祝福を受けて東京に帰ることになりました。今や二人の帰るべき場所は京都ではなく東京になってしまったことは明らかでした。

 二人が結婚を見据えた付き合いをしていることから、小椋家が家族揃って東京の新座家に挨拶に行く機会も持たれました。練馬の大きな毛人屋敷に、所詮旧女爵家の一庶流に過ぎない一家は圧倒されました。新座家側の立派な歓待は夜遅くまで続き、両家の親睦を深めたところで、一家は新座家のお屋敷に宿泊することになりました。母は悠季子さんの部屋に同宿し、久しぶりに姉妹水入らずの時間を過ごしました。しかし悠季子さんは、母が男女のことについて急速に色気づいてきたことに深く衝撃を覚えました。同じ部屋に布団を並べながらも、かつてそうしていたときとは決定的に違うものがそこにはありました。母もそのことについては自覚的でした。悠季子さんは布団の裾から手を伸ばしてみましたが、母がこれに応えて手を伸ばすことはありませんでした。

 東京から帰ると、悠季子さんも冬樹さんのアプローチに応えるようになりました。もとより悠季子さんにぞっこんだった冬樹さんは、悠季子さんが反応を返すようになると、軟派だった態度を一転させて真面目で誠実に対応するようになりました。その変わり身の早さにも悠季子さんは吹き出してしまいそうになるのを堪えるので精一杯だったと言いますが、しかしそういったところも愛らしく見えてきたのだと悠季子さんは言いました。冬樹さんへの想いが一種の愛情に転じてきたことに気付いたのは、悠季子さんが大学卒業を控えた冬休みのことでした。弓道部のアルバイトで熊野神社の初詣にそれぞれ巫女さんと祢宜さんとなって動員されたときに、悠季子さんは初めて冬樹さんから告白を受けました。悠季子さんは雰囲気に飲まれ、勢いに任せて告白してしどろもどろになっている冬樹さんをまるで自分の子供のように愛おしく思い、これを受けてみることにしました。

 悠季子さんに恋人ができたという話を聞かされた母は、自分のことを棚に上げて地獄に落とされたような顔をしていたと言います。流石に涙は流しませんでしたが、その落ち込みようと言ったらなかったと悠季子さんは楽しげに言いました。悠季子さんは母に対してちょっとした意趣返しをするつもりがあったようです。冬樹さんと悠季子さんの中も急速に進展し、冬樹さんが医学部を卒業したら結婚しようと約束するところまで行きました。そのため悠季子さんと両親は、今度は奈良市内の橋詰家に挨拶に行きました。冬樹さんの両親は、一家で初めて医学生となった息子が美しい恋人を連れてきたことに驚き、既に結婚の約束までしていると聞いて更に驚きました。

 姉妹の結納はほとんど同じ時期に行われました。小椋家の両親は奮発して絢爛豪華な結納品を用意し、盛大に酒宴が催されました。一回目は東京の新座家で、二回目は京都の小椋家で催され、母は新座家の嫁に、冬樹さんは小椋家の婿になることが決まりました。平成六年十月のことでした。母と父とはその年の年末に結婚式を挙げることになりました。母は念願叶いNHKの取材カメラマンに採用され、初任地として横浜放送局に配属されていたことから、新居は父の交通の便も考えて横浜の大倉山に設けることになりました。これが現在まで私の実家として住み続けている家になります。式は東京のホテルで盛大に催されました。近親者代表として悠季子さんがスピーチに立ち、特に感動的な内容ではなかったにも関わらず、感極まった母を泣かせました。そんな母を泣き虫だと笑っていた悠季子さんの目からも、いつの間にか涙が流れていました。

 翌年の五月に悠季子さんと冬樹さんの結婚式が京都で催されましたが、新座雛子となった母は自分のとき以上にずびずびと泣いていました。春からインターンの冬樹さんと、秋から司法研修所関西支部への入所を控えた悠季子さんの二人が多忙な合間を縫って催されたため、新婚旅行なども無く、母と父の場合よりも控えめに挙行されました。近親者代表として今度は母がスピーチに立ちました。母は滂沱の涙流していましたが、今度は悠季子さんは泣かずに聞き終えることができました。小椋姓となった冬樹さんはそれから、京大病院へのインターンに小椋家から通うようになりました。秋から司法修習に通うことになった悠季子さんは、新婚早々けいはんな学研都市の片隅にある寮に寄宿することになりました。夫婦の別居生活は一年間続き、悠季子さんが京都地方裁判所の判事補に着任して、ようやく夫婦水入らずに生活を送ることができるようになりました。

 悠季子さんに子供ができたことが分かったのは、結婚から三年後の平成十年初春のことでした。冬樹さんはもちろん、母も大喜びしてお祝いを寄せました。子供は双子の娘であることがすぐに判明し、なおさら大きな喜びをもたらしました。特に喜んだのはやはり母でした。頻繁に新幹線に乗って京都を訪れては、少しずつお腹の大きくなってゆく悠季子さんを献身的に支えました。産婦人科医として京大病院で勤務医になった冬樹さんも、夫としての使命感を持って、家庭面のみならず医療面からも悠季子さんを支えました。二人の献身的な支えのお蔭で、悠季子さんは大きなお腹を抱えながら職務を継続することができました。

 双子の娘の妹の方を子供ができない母と父都が養子に貰うという話が京都の小椋家を中心に持ち上がったのは、悠季子さんが丁度産休に入った頃のことでした。当初母と父とは人の子の親になる覚悟ができていなかったためか、遠慮してこの話を断りました。それでも東京の新座家もこの話に乗り気になり、何より悠季子さんと冬樹さんが双子を育てる負担が大きいと説得してようやく両親も私の親になる覚悟を決めたようです。悠季子さんの分娩は冬樹さんが担当しました。平成十年十月十八日の午後一時過ぎ、京都の京大病院で私たち赤毛人の双子が誕生しました。出産に立ち会った母はまたおいおいと涙を流し、生まれたばかりの私たちを抱き上げました。私が母の腕に抱かれたのはこの時が初めてだったと言います。

 私たち双子がそれぞれ耳と尻尾に障害を持って生まれたことが分かったのは、それからすぐのことでした。特に私の場合、尻尾にある悪性腫瘍が命を蝕む危機的な状況にあったため、直ちに断尾の緊急手術を受けました。その影響で脳神経に損傷が生じ、喉を動かして喋ることができなくなったのは以前お伝えした通りです。私たち双子はそれぞれ身体機能に障害を負いながら育つことになったのでした。悠季子さんは子供を無事に産んであげられなかったと自分のことを激しく責めました。冬樹さんは医師として、子供たちの障害については悠季子さんに非が無いことを懇切丁寧に説得しました。母も同じ機会に母親になる者同士として、懸命に悠季子さんを励ましました。

 特別養子縁組の審判を受けたのは、私たち双子が生まれて一年が経った頃のことでした。生まれてすぐに私は横浜の家に引き取られて今の両親に育てられていましたが、生まれる前と同様に母と父とは頻繁に京都を訪れていました。私たち双子はそれぞれの家で小椋麻優子と新座秀子と名付けられました。幼いころから京都の家で共に遊んだ私たちは、自分たちが同い年の姉妹であることを昔から言いつけられて育てられてきました。そのため、私たちは互いの名前が分かるようになってからは、麻優子は私の姉だということを、私は麻優子の妹なのだということを、それぞれ意識し合っていました。

 私の親になってから、両親の仕事にも変化が訪れました。母は報道からドキュメンタリーに軸足を移し、私が六歳の時にNHKから独立して自前の制作プロダクションを立ち上げました。小さなプロダクションですが、映像制作の他、関連書籍の製作や、映像作品のソフト化も行っていて、可能な範囲で手広く営業しています。父は私の障害に向き合ってから、特に障害者スポーツの発信に力を入れたいと考えるようになり、通信社運動部の中でもパラアスリートを取材する部門への移籍を希望し、更にはそれに飽き足らず、こちらも私が七歳の時に独立してフリーのカメラマンになり、パラスポーツを追いかけるようになりました。当初は商売になるのか不安がられましたが、パラリンピックを通じた障害者スポーツの盛り上がりが徐々に高まり、専門メディアの立ち上げにも関わったり、大手スポーツ誌の取材の仕事も入るようになったことで、立派な仕事として成立するようになってゆきました。

 一方、京都の小椋家では悠季子さんに代わって冬樹さんが体調を崩しがちになりました。医者の不養生というべきか、家族に心配をかけたくなかったのか、無理を押して仕事を続けている内にどんどん体調は悪化してゆき、倒れた頃には既に手遅れになっていました。平成十四年秋のこと、同僚の医師にステージ四の大腸がんであると診断された冬樹さんの余命は、もってあと半年と言われました。冬樹さんは家族を遺して逝かなければならない悔しさにも関わらず、絶対に人前では涙を見せず、笑顔の記憶だけをみんなに遺したいと考え、絶えず笑って過ごすようになりました。幼い姉も私も、冬樹さんの記憶と言えば、この晩年の笑顔の優しいお父さんの記憶しかありません。

 治療の甲斐あってか、冬樹さんは春を越え、夏の盛りまでその命を長らえ、最期は眠るように安らかにこの世を去りました。悠季子さんも、お疲れさまでしたと笑顔で見送ることができたと言います。事態を呑み込めていなかった姉と私が初めて涙を流したのは、東山の斎場で遺体が火葬に付されてしまうことを理解したその時だったと言います。泣きじゃくった私たちは冬樹さんの骨を拾うことができませんでした。気丈に喪主を務めた悠季子さんも、娘たちが流す涙には堪えきれず、骨壺を抱いて静かに涙を流しました。冬樹さんは純人ながら、その骨は小椋家の菩提寺である東山の長楽寺にある墓に納められました。奈良の橋詰家の墓へ分骨を納めに向かったとき、橋詰家の両親から、息子は不孝な婿で申し訳なく思っている、という意味のことを言われた悠季子さんは、冬樹さんは夫としても父親としても恥ずべき所の無い立派な人でした、と答えました。

 悠季子さんの話はここまでです。お話すの「続き」はきっと私たち姉妹の物語になることでしょう。冬樹さんが亡くなって以降の悠季子さんの身の周りは、まるで時間が止まってしまったかのように変化がありません。悠季子さんは自分が既に物語の主人公ではなくなったことに関して諦念を持っているかのようです。代わりに変化を続けて止まないのが姉です。姉は自分の身の置き場を、常に自分に自分の意思で選んできました。物語の主人公の座は既に新世代に移ってしまったかのようです。私の物語は前回等々力の先生の話で語った以上のことはありませんが、姉の物語は私の知らない分も含めてもっと彩のある豊かなものが紡がれていることでしょう。

 私が語ることのできる物語はこれで以上となります。三回分の手紙にしてはずいぶん長くなってしまいましたが、これで自己紹介の役割を果たせていれば幸いに思います。灯子さんにはまだまだ秘蔵の物語があることと思いますが、それはまた別の機会にお手紙頂ければと思います。正直、これだけ長い手紙を続けて書いて手が疲れてしまいましたので、少し休憩を挟みたいと思います。次回は近況のご報告になろうかと思いますが、冗長になりがちな癖を改めてなるべく簡潔に書けるよう努めたいと思います。

 灯子さんはそろそろ「昇龍」号には慣れてもらえてきたでしょうか。あの大人しい「昇龍」号が、灯子さんが乗ったときだけ気性をあんなに荒くするのは、傍目に見て不思議でなりません。馬術部二十四期の四人の中で一番よく動き、よく喋るのが灯子さんなので、乗られる方の馬もじっとしていられないのでしょうか。何にせよ灯子さんもこれに気を落として、乗るのを止めてマネージャーになりたいなどと言わずに頑張ってください。私も五十歩百歩の下手なりに「剣龍」号とは息を合わせて付き合ってゆきたいと思いますので、上野さんと「蒼龍」号のコンビのような上ばかり見ていないで、たまには隣で悪戦苦闘している私のことを笑って見ていて下さい。今日もお疲れ様でした。明日もまたよろしくお願いします。それではおやすみなさい。

 

 匆匆頓首


 五月十一日

 

 新座秀子


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