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鈴木灯子さんへ
前略
温かいご返信を頂き誠にありがとうございます。あのような正直気味の悪い手紙に次の機会を与えて頂いたこと、まずは感謝申し上げます。思い返してみても恥ずかしくなるような手紙に対して、そこまで真剣に向き合って頂けたのは望外の喜びでございます。
改めましてこんにちは灯子さん。新座秀子です。先日は水まんじゅう美味しゅうございました。ご出身の大垣の夏の名物なのだそうで、何も知らずに食べてしまいましたが、わらび餅の皮の清涼感であんこの優しい甘味を包んだ触感に、流れる水のせせらぎをそのまま口にしたような感覚を覚え、灯子さんのふるさとの味で夏を先取りしたような気分になれました。姉共々御礼申し上げます。今度の機会には私も横浜銘菓にて返礼差し上げたく思います。
灯子さんのご家族のお話、大変面白く読ませて頂きました。お父様はこのコンセルヴァトワールの第一期生でいらっしゃったのですね。思いがけず大先輩のお話を伺うことができ、感銘を受けています。設立当初のコンセルヴァトワールのお話にはやはりバブルの香りが漂い、その痕跡が校舎の現代建築群にも表れているような気が致します。私の両親もなにげに最後のバブル世代ですが、浮いた話は聞いたことが無かったので、信じられないようなお話ばかりで驚きました。
お母様のお話も大変興味深く読ませて頂きました。ご実家が戦後改革の煽りを受け大変苦しい思いをなさった下りは、学校の勉強で知識として知っていた出来事が、実際にその時代を生きた人々にどのような影響をもたらしたのかについての貴重なお話として読ませて頂きました。私の両親の実家も戦後多少の動揺を受けたとは聞いていましたが、灯子さんのお母様のご実家のお話を伺い、私もそうした話を聞いてみようかと思いました。
さて、今回はお約束通り、等々力の先生のことについてお話させて頂きたいと思います。私はその人のことを常に等々力の先生と呼んでいました。ですがここで松戸浄子先生と本名を挙げることについても何らの憚りがあるものではありません。松戸先生、と呼ぶことは私にとって自然なことではありませんが、筆を執る便宜の上で私は度々等々力の先生ではなく松戸先生、と書いてきました。そのためここでも、等々力の先生と松戸先生の両方の言い方をすることがありますが、ご了承下さい。『こゝろ』の剽窃はそろそろ止めて本題に入りましょう。
私が等々力の先生と出会ったのは、小学校二年生のことでした。その頃私はまだお気に入りのリコーダーが手放せない小さな子供でした。前の年からピアノを習いに近所の小さな教室に行っていましたが、最初の内は上達も遅く、取り立てて見るべきところのない、神童とは縁もゆかりもない一介の児童生徒に過ぎませんでした。
私は昔から泣かない子供だったと記憶しています。それは普通の子ならピアノの先生のレッスンで必ず泣かされていたのを、私の場合一度も泣かされたことがないということに由来する記憶です。それは私の場合口答えもできなかったために他の生徒よりも従順に見え、レッスンの厳しさが和らいでいたためであるかもしれません。しかしともかくも私はピアノのレッスンを受けながら、冷静に考える余裕を持った生徒だったのに違いありません。手ではピアノを弾きながら、自分が本当にやりたいのは、大好きなリコーダーのように私の声の代わりになる吹奏楽器であることを理解するのに、それほど時間は必要としませんでした。
その頃NHKの教育テレビで、『クインテット』という音楽人形劇をやっていました。灯子さんもご覧になっていたかもしれませんが、登場人物のシャープくんとフラットさんがそれぞれ金管楽器と木管楽器を演奏する様子を見て、私もこういったことをやりたいと両親に訴え出したことから、ピアノの先生に相談して、電車で通える範囲の何軒かの音楽教室を紹介してもらうことになりました。いずれも名だたる演奏家経歴を持つ個人経営の教室で、私は両親とそれらの教室を回りながら、貴金管楽器はトランペット、トロンボーン、ホルン、木管楽器はフルート、オーボエ、サクソフォーンなどを体験しました。私の適性が木管楽器、それもシングルリード楽器にあることはすぐに分かりました。金管楽器は鳴らそうとしても上手く唇を振動させることができず、音らしい音を作るのが難しかったのに対して、木管楽器はアンブシュアのコツさえ掴めば、後は楽器の方が音を作ってくれる感覚を持ちました。
教室巡りの中で最後に訪れたのが等々力の先生の教室でした。鬱蒼とした等々力の渓谷を渡る橋の向こうにある大きな洋館を初めて訪れたときの感想は、まるでケーキ屋さんみたい、だったことを記憶しています。大倉山の小学校の近くにアルザス風の建築をしたケーキ屋さんがあったので、同じようなコロンバージュの雰囲気についそのような感想を持ったのです。外観もメルヘンなら松戸浄子先生ご本人も絵本の中から抜け出してきた魔法使いのような出で立ちでした。平素から演奏会に着ていくような極彩色のドレスを身にまとい、癖の強い髪を長く伸ばしたその姿はいかにも芸術家といった風で、第一印象から私は圧倒されてしまいました。
私が本物のクラリネットに出会ったのは、その日が初めてのことでした。等々力の先生はまず私にクラリネットという楽器を知っているか尋ねました。私が縦に頷くと、『クインテット』のフラットさんが吹いているやつね、と先生は言われました。等々力の先生は純人なのに私の考えていることが分かるのか、と驚きましたが、続けて先生は、クラリネットという楽器は極めて豊かな表現力を持っている一方で、それを十分に奏でるには極めて技術を必要とする楽器です、と言われました。それは事実上どんな楽器にも言えることですが、今から考えれば、クラリネットは楽器の構造上クラリネットは特に魅力に匹敵する欠点がついて回る楽器だという話です。
今から考えれば、あの時等々力の先生が仰ったこともよく分かります。運指は必要以上に複雑ですし、チューニングは合いませんし、シャープ調は吹きづらいですし、いくつかの無理やり出している音は汚く感じます。ですがそれを上回る表現力の魅力を持っている楽器がクラリネットというものなのです。
当時の私には等々力の先生が仰っていたことを十分に理解できていたとは思えません。むしろ黙っている代わりに早く楽器の体験をさせて欲しいと思っていたのに違いありません。先生のお話はしばらく続きました。一緒に来た母もややじれったそうにしているのを察してか、ようやくお話が止んで体験に移ると、私は難なくマウスピースを吹いて音を鳴らし、先生を驚かせました。各部を組み立てて開放音のFを鳴らしたとき、私はその円やかな音色に衝撃を受けました。更に運指を教わって下のFから上のFまでのFdurのスケールを鳴らしたとき、私はその低音部の響きに心を奪われました。私はすぐにこの楽器を気に入りました。ミステリアスな音色のフルートでも、明朗快活な音色のサクソフォーンでもなく、クラリネットという楽器の太くて丸い音色こそ、私が求めているものだと幼心に感じました。
等々力の先生は私の音感がいいねと褒めてくれました。私は勝手に運指を模索し、スケールを出して遊んでいました。特に最低音のDやE♭の音は気に入って何度も鳴らしていました。先生はB♭durの運指を教えて、私はなんとか指を回してみました。何度目かの挑戦でぎこちないながらもスケールの上下行に成功したとき、等々力の先生はこの子は飲み込みが早くて助かると感心してくれました。私は嬉しくなってE♭durやFdurのスケールも鳴らしてみました。褒めてくれるのが嬉しくなってずっと吹いて遊んでいる内に、いつの間にか母と先生の間で話はまとまっており、じゃあ明日からレッスンに行きましょう、ということになっていました。
松戸浄子先生はその当時五十二歳で、東京の私立音大を卒業された後、ベルギーの王立音楽アカデミーに留学され、その後国内外で主にアンサンブルの演奏家として活動してこられました。そのアンサンブルで国際的な音楽賞にいくつか入賞されると、今度は活動の場を地元等々力での教育活動に移し、これまで何十人もの生徒をコンセルヴァトワールやグランゼコールに送り込んでこられました。専門のクラリネットだけでなく、ソルフェージュや楽典、ピアノまで教えられるということで、その当時私の他にも何人かの生徒がいたと記憶しています。その多くは東京のリセに通っているグランゼコールの志望者であって、私のように受験目的でない習い事として教わりに来る生徒は珍しいものでした。
私がレッスンに通い始めた頃、等々力の先生は再び演奏会活動を始めようとされており、その準備に関する苦労話でレッスン時間の半分は飛んでしまいました。小学校二年生の子供にするような話ではありませんでしたが、聞き役としては受験にピリピリしている上級生よりも向いているように見えたのかもしれません。すぐにレッスンの後半は紅茶とおやつを頂きながら先生の話に付き合う時間となり、私も楽しみな時間になってゆきました。先生のお宅で出されるおやつは近所のパティスリーのケーキから、取り寄せ物の銘菓まで幅広く、週に二度の楽しみとなっていました。紅茶もちゃんと茶葉から淹れるアールグレイのミルクティーで、最初は独特な香りを我慢しながら飲んでいましたが、次第に好きになってゆきました。
私は幸運にも上達が早い方だったので、レッスンの前半が練習、後半がお茶会というメリハリの付いたレッスン形態が取れたのだとは思いますが、灯子さんもおそらくお察しの通り、早い内から私は等々力の先生に気に入られていました。それは他の生徒が受験生で気が立っていたり、あるいはそもそも、楽器のレッスンにソルフェージュにと忙しすぎて、本来やりたかったようにできなかった分を私のレッスンに回していたという面もあったのでしょう。ですが、それ以上に先生のお考えにあったのは、衣食住の一部を共にすることによって、一人の人間、一人の音楽家を一から育て上げることにあったのではないかと、今なら考えられます。
そのことは通い始めて二年後の小学四年生になったとき、初めてうっすらと私の頭の中に現れ始めました。それは先生が私をしきりにジュニアのコンクールに出させようとしていた時期のことでした。私は始めてまだ二年しか経っていないのに、幼少期からトレーニングを積んだ英才俊才と競えるはずがないと断りましたが、それでも先生は、経験が人を育てるのだから、と無理を言って、私をコンクールの予選に登録してしましました。後にも先にも私がコンクールの舞台に立ったのはこの一度だけです。結果は散々なもので、もちろん私は予選で敗退してしまいました。
この時の等々力の先生の気合いの入れようは相当なもので、衣装選びやヘアメイクにかけた時間は練習時間もかくやというものでした。この世に存在などしない秘蔵っ子のお披露目に先生は夢中になり、それだけにその夢が覚めたときの落胆は大きなものに見えました。それ以降先生は私をコンクールに出させようとはしませんでした。私もあまりいい思い出ではなかったので、そちらの方が気楽に過ごすことができていいと思いました。しかし先生はそれでも一人前の音楽家を一から育てるという野心を失ったわけではありませんでした。神童の発掘こそ叶いませんでしたが、むしろこれまでの努力が足りなかったものと奮起されて、お月謝は今のままでいいからソルフェージュやピアノまでこちらで観させて欲しいと言い出されました。
丁度その頃、私はようやく姉に向けてクラリネットを吹いてみることができました。習い始めた頃から度々吹いて見せて欲しいと乞われてはいたのですが、その頃はまだ姉も楽譜を集めて読んでいるだけの子供でしたので、姉には聞こえもしない音楽を吹いて見せることには不謹慎さにも似たためらいがありました。姉はまだ遠いところにある音楽にコンプレックスを持って反抗しているだけの子供に過ぎず、音楽を今ここで共にする同志としては見ることができなかったのです。今からすればなんという驕りと思われるでしょうが、当時は本当にそう思っていたのです。
姉に吹いて見せたのは、コンクールで挑んだメンデルスゾーンのクラリネットソナタでした。ヨーロッパの街角を散策するのに向いていそうな曲調、というとざっくばらんとし過ぎていますが、コンクールの傷心も癒えない内に姉の前で吹いていると、案外京都の郊外の雰囲気に曲調が合っているような気がして、本番の時よりもいい指遣い、息遣いで演奏することができました。ですが、尻尾の毛を赤く逆立たせて、楽譜とこちらを交互に見やる姉の様子は、初めて見たときには異様に感じられました。思えば姉も生の音楽に対して覚りの倣いを使うのは、これがほとんど初めてのことだったのでしょう。それが目の前で自分のために演奏されるものならなおさら初めてのことだったに違いありません。
ピアノの伴奏も無しに吹き終わった後、姉はしばらくじっとしていました。感想を聞いてみると、姉は猛烈な勢いで楽譜の上にコメントを書き込んでゆきました。書き終えたものに目を通してみると、等々力の先生に言われた通りの箇所に、言われた通りのことが書いてあり、まるで聞こえて理解していたかのような正確なコメントに驚きました。初めて私が姉を共に音楽する同士として認めた瞬間でした。これを等々力の先生に見せてもいいかと聞いたところ、初めは乗り気だったものが、段々と気弱になっていって、終いにはもう見ないでと楽譜を取り上げられてしまいました。はじめは目の中に火の点いたようだった姉の意気を消沈させてしまったことに、私は改めて不謹慎さにも似た罪悪感を覚えました。
そうはいっても私はこのことを先生に話さずにはいられませんでした。コンクール以来気を落としていた先生に、京都に住む耳の聞こえない天才音楽少女の話をすれば、たちまち食いついてくるだろうと単純に考えたのです。果たして等々力の先生は姉の話に強く関心を向けました。姉と私との関係や、姉の人となり、姉が音楽に興味を持った理由などを根掘り葉掘り聞いてきた上で、やはり姉の書き込んだ楽譜を見たいと言われました。そこで私は姉に手紙を書いて頼んでみることにしました。等々力の先生が姉のことを高く評価しているとも書き添えて返信を待ったところ、二週間ばかりして、恥ずかしそうに言い訳の文章を重ねて添えて、書き込みの入った譜面を送ってきてくれました。
先生はそれに目を通すと、私に対して、行ったことが何一つ直せていなかった訳ね、と言いつつも、姉の書き込んだコメントについては、この子はセンスがいい、耳が聞こえないのにいい景色を見ているね、と評価してくれました。そうして、私からも手紙を書かせてもらえないかと言われましたので、姉の才能が認められたと思った私は、お手紙を預からせて頂きます、と伝えました。次のレッスンまでには封緘されたお手紙をご用意されており、私は自分の手紙と一緒にそれを封筒に入れて姉に送りました。後で姉に聞いたところによると、それは京都で音楽教室をやっている知り合いに対する紹介状と共に、姉に音楽の専門教育を受けることを勧める内容の手紙だったということです。
姉は前の手紙にも書いた通り、中学でリセの音楽教室に通い始めるまでは独学でピアノも音楽理論も勉強していた程ですから、このときも紹介された教室には通わなかったのに違いありません。ですが姉に話を聞く分には、どうやら紹介状を持って一度見学には行ってみたようなのです。姉はあまり多くを語りませんので、恐らくは先生との相性が合わなかったものと思われますが、ともかくこれが一つのきっかけとなって、姉の家にアップライトピアノが一台購入されたことは大きな画期となりました。姉はそれまでに入手していた譜面をピアノで弾き始めるようになり、やがてそのピアノで作曲を始めるようになっていったのです。
一方その頃、私は等々力の先生のところでソルフェージュとピアノも習うことになり、週に五日も等々力に通うことになりました。ソルフェージュと言っても、私はコールユーブンゲンなどの視唱はできないので、それ以外の聴音筆記と楽典、初見視奏に力を入れてきました。等々力の先生はピアノの先生に、当時このコンセルヴァトワールでピアノ科の講師をされていた浦沢畔人先生を招聘されました。浦沢先生は丸々とした熊のような先生で、前のピアノ教室の先生とは違ってとにかく優しい先生でした。私はすぐに浦沢先生のことを気に入りました。浦沢先生とのレッスンが終わると、松戸先生と三人でお茶にするのですが、そのときに浦沢先生が教鞭を執っているコンセルヴァトワールでのお話をされるのが私の楽しみになってゆきました。
小学生の私にとって、コンセルヴァトワールの愉快な日常は、まるできらびやかな異世界のお話でした。現在の私からしてもそれはどこか異世界のお話だったのではないかと思われるようなお話ばかりだったようにも思われますが、浦沢先生のお話は非常に上手く、私を夢の世界へと誘い、コンセルヴァトワールへの憧れを形成させるには十分なきっかけを作られました。実際どうして私がコンセルヴァトワールに入ろうと思ったのか尋ねられると、こうしたお話から感じていた親しみの要素が一番大きかったのではないかと思われます。もちろんバスクラリネットを専攻できるのが実家の近くではコンセルヴァトワールだけだったというような事情もありますが、そうした事情に先立って、私の中にコンセルヴァトワールへの憧れが形成されていたことは確かです。
そのバスクラリネットとの最初の出会いは小学校六年の頃のことでした。私は真面目な生徒だったので、コンクールまでの期間は等々力の先生の演奏会には少なくとも一度は足を運び、楽屋への挨拶を欠かしませんでした。それがコンクールの失敗を受けて、なんとなく演奏会からも足が遠ざかってしまい、そのまま二年近くが経ってしまいました。等々力の先生も無理に演奏会へと誘わなくなって久しく、このまま先生の演奏会とは縁がなくなってゆくものかとも思われたときのことでした。あるとき浦沢先生が、今度コンセルヴァトワールの講師陣でボランティアコンサートをやるから、是非とも私に聴きに来て欲しいと言われました。松戸先生の演奏会には行かない癖に、他の先生の演奏会に行くのは不義理だと思った私でしたが、松戸先生も一緒に誘って行くならいいかと考え、べーリックホールまで一緒に行く約束を取り付けてしまいました。
ボランティアコンサートは一般向けに有名な曲を並べた華やかな催しでした。ピアノの浦沢先生の他には弦楽四重奏、木管五重奏のメンバーがいて、流石はいずれもコンセルヴァトワールの講師陣、演奏の成熟のレベルが並の演奏家とは比べものにならないことは少し聴くだけで分かりました。それと同時に私が驚いたのは、クラリネットの持ち替え楽器として現れた、巨大なクラリネットに似た見知らぬ楽器のことでした。テナーサクソフォーンのように湾曲したネック、銀色に輝く大きなベル、チェロのように突き立てたエンドピン、枯れた低く太い音色、あの楽器は一体何だろう、という疑問ですぐに私の頭の中は一杯になりました。
コンサートが終わった後、私は等々力の先生と一緒に本日の演奏メンバーに挨拶に行きました。楽屋などはありませんので、その場で楽器を片付けている途中にお邪魔してしまいましたが、私はちょうどクラリネット奏者の山中さんが件の楽器を分解しているところに遭遇しました。改めて見ると一メートルほどもある非常に大きな、頼もしい楽器です。私は浦沢先生への挨拶もそこそこに、山中さんにその楽器は何かと聞いてみることにしました。果たしてそれが私とバスクラリネットという楽器との出会いでした。
松戸先生と浦沢先生の生徒だと伝えると、山中さんは快くまたその楽器を組み立てて見せてくれました。B♭管クラリネットの一オクターヴ下の音が出るというその楽器を構えた山中さんの姿はどれだけ美しくまた格好よく見えたことでしょう。それはまさしく魔法の杖を構えた魔法使いの姿にさえ見えました。浦沢先生は、秀子もバスクラが吹けるようになりたくなったみたいだと、本人は冗談めかして言いましたが、私にとってそれは冗談どころではなく、運命の出会いと言ってよいものを感じたのでした。それは四年前初めてクラリネットという楽器を知ったあの日の感動に匹敵するものでした。灯子さんなどはクラリネットを四年もやってきて、バスクラリネットのことを少しも知らなかったなんて阿呆なことが通るものかと思われるかもしれません。しかし実際にそうであったからこそ、将来を変えてしまうほどの衝撃がこの時私を襲ったと言えるのです。
私は次のレッスンのとき、早速等々力の先生に私も持ち替え楽器でバスクラリネットを吹けるようになりたい、と談判しました。等々力の先生は驚いた様子も見せず、じゃあ中学生になってからね、と言われました。私は帰ってからすぐにバスクラリネットの値段や、バスクラリネットを取り上げた曲の楽譜を調べました。安い機種でも普通のクラリネットの倍はする高い買い物ですから、ちゃんと両親を説得するだけの理由を説明できなければなりませんので、私は頭をひねりました。特に、それは今やっているクラリネットとはどう違うの、と聞かれたときにどう説明するかについては夜も眠れなくなるほど考えました。ピアノの一台もぽんと買ってもらえる私の姉の場合と違って、魅力的な楽器と運命的に出会ったというだけで、新たに高価な楽器を買ってもらえるほど、私は音楽的な才能に恵まれている訳ではありませんでしたから、結局両親にはバスクラリネットのことを言い出せないまま、中学生になるその日を迎えることになったのでした。
その頃姉が最初のリートを書き、私と一緒に演奏したことは前回の手紙に書いた通りです。これを皮切りに姉の書いて送ってきた曲は全部で十三曲に及びます。そのうち三曲がクラリネットソナタ、六曲がバスクラリネットソナタであり、残りは軽いリートが三曲と、ピアノ編曲版のバスクラリネット協奏曲めいたものが一曲となり、姉が非凡な作曲の才能を存分に発揮していたことがこれらのレパートリーからも明らかです。これらを一緒に演奏するたび私は姉と一緒に音楽することを楽しむと共に、姉に対する畏敬の念も覚えるようになりました。私ごときが触れていいような才能ではない、という思いが私の中に確かな存在感を持っていたということは事実でした。その思いのために、思春期の一時期は姉から距離を置いた方が安心できると考えて、なんとなくそわそわしていたことは、今となっては笑うにも笑えない話です。
ともかくも中学生になった私は、進学最初のレッスンが終わったら、両親にバスクラリネットのことを相談しようと考えて、いつものように電車に乗って等々力へと向かいました。中学の制服を等々力の先生に見せるのは初めてだったので、少しうきうきした気分で電車に揺られていたのを覚えています。世の中は東北の大震災から一ヶ月も経っておらず、計画停電も行われていた時期でしたが、新生活の喜びはそれらの不安にも優り、明るい気分で私は等々力の先生の下へ向かいました。等々力渓谷の木々も若芽を吹いて、私を祝福してくれているような気分だった、というのは少々文飾が強すぎるでしょうか。
等々力の先生は制服姿を褒めてくれた後で、私からの入学祝い、と言って、いきなり銀色に光る新品のバスクラリネットを私に差し出されました。私は事態が呑み込めず、しばし呆然としました。それはセルマーのLowC管バスクラリネットで、新品は車が一台買えるほどの値段がしたはずです。先生は事態を呑み込めないでいる私に対して、秀子は将来絶対にいい演奏家になれる、私はそれに賭けてみることにした、そのバスクラは私の賭け金だ、と言われました。先生は、その代わり今日からはB♭管クラリネットではなくバスクラリネットを専攻してもらうし、秀子にはきっとコンセルヴァトワールに行ってもらう、とも言われ、私はますます混乱して、とりあえず等々力の先生に最初から順を追って説明してくれるよう求めました。
先生の言われたことによれば、私がバスクラリネットと出会った件の演奏会の時から既に先生は私のバスクラリネット転向を考えていたようです。それは単に私が強く興味を示したからだけではなく、先生の中で私の演奏スタイルや身体とのバランス、今後の指導方針を総合考慮した結果らしいのですが、先生にとってもこれは思い切った判断だったらしく、それゆえ新品の楽器を買うほどの覚悟を必要としたというのです。持ち替え楽器と言ったのに専攻でバスクラリネットを演奏してゆくことにさせたのは、コンセルヴァトワールとこれからの音楽市場での競争力を考えてのことと仰いました。これはニッチトップを目指せということと今のところは理解しています。
何より先生は私に演奏家になるよう初めて言われました。これまで習ってくる中で欠けていた、何のためにクラリネットを吹くのかという目標をようやく提示された形ですが、未だコンクールの失敗を引きずっていた私は、演奏家になるためにまたコンクールに出されるのかとげんなりしました。しかし先生はまず私にコンセルヴァトワールに行くよう言われました。現代の音楽市場で演奏家を目指すにはコンクールに出場して他人から目をかけられるのを待つか、あるいは自力で音楽産業の中に飛び込んで、活躍の場を自ら作ってゆくかの大きく二つの道があって、コンセルヴァトワールへ行くのは後者の道への最短距離に当たるのだそうです。コンセルヴァトワールから音楽産業の中核人材を目指すこと、それが秀子がバスクラリネットで生きてゆく道になるのだ、と先生は熱弁されました。
コンクールに出なくて済むのなら、コンセルヴァトワールから演奏家を目指すのもいいな、と私は思いました。音楽を仕事にする、ということをまだ具体的にイメージできなかった、というのが正直なところでしたが、好きなこと、得意なことを仕事にしてやっていけるならそれもいいなと思いました。クラリネットに愛着はありましたが、どうせ一からバスクラリネットを習うなら、専攻ごと変えてしまうのも同じことかと気楽に考えましたし、何より私のために用意された楽器を目の前にしては最早引っ込みがつかなくなっていることはひしひしと感じられました。一番心配なことは、持ち替え楽器ではなくバスクラリネット一本で本当に将来やってゆけるのかいうことでしたが、それについては深く考える暇もなくレッスンが始まってしまいました。
リードを据えて初めてバスクラリネットを吹いた時のことも、鮮明に覚えています。最低音のCを鳴らしたときの管体の震え、気柱のうねり、身体に伝わる振動、それらの確かな存在感に、私は初めてクラリネットに触れたあのときのように魅了されました。B♭管クラリネットと同じ運指で吹ける曲を吹いてみようとしましたが、キーが重く、また離れていて上手く指が回りませんでした。指の運動にスケールやアルペッジョを吹いて慣らした後で、コラールを鳴らしてみたところ、普段の一オクターヴ下の響きが体を揺らしました。
これ以降私は等々力の先生の下で、コンセルヴァトワールへの進学を目指してバスクラリネットを習うようになりました。浦沢先生は引き続きピアノのレッスンに来てくれましたが、私がバスクラリネットに転向したと聞くと、驚くよりもまず心配した様子で、山中先生はもう東京の音大に移られたよ、と言われました。今の講師陣でバスクラを見られるのは星野先生ぐらいかな、とぶつぶつ言っていましたが、一年後にご自身も大阪の音大に移られてしまうとは思いもよらない様子でした。浦沢先生は最後まで明るく楽しい人でした。後任の荒川先生は東京の音大で講師をしている、グランゼコールの院を出たばかりの若い先生でした。私としてはこの先生はコンセルヴァトワールの受験対策専用の方と構えて、一緒におやつを食べることもありませんでした。等々力の先生も、ソルフェージュの一環と称して自分でピアノを教える機会も多くなり、概して荒川先生に対する信頼は乏しい師弟でした。
等々力の先生との関係はコンセルヴァトワールに入る直前まで続きました。最後のレッスンの日、私は入寮の少し前から我が家に滞在していた私の姉を初めて先生の所へ連れてゆきました。姉の倣いのおかげで、先生は最初、本当に耳が聞こえないのが信じられない様子でした。姉は等々力の先生に、お正月の演奏のために作曲したピアノとバスクラリネットのためのソナタの譜面を見せました。先生はそれに目を通されると、私たちに向けてこの曲を演奏してみせるよう促しました。演奏はお正月よりも叙情的に、ダイナミクスを強めてなされました。元々ノスタルジックな曲調でしたが、今日で最後と思うと涙が出そうなほど演奏にも感情が入りました。姉もよくそれに追従したものだと思います。初めて触るピアノで、ややテヌート気味なところはそのままに、尻尾の毛を逆立てて私の演奏に目を凝らし、奏法に変化を付けるのは大変なことだったと思われますが、姉はなんともなげにそれをやってしまうのでやはり私と姉との才能の違いというものを感じさせました。
演奏が終わると、先生は珍しく拍手をされ、それから講評に入りました。とても素晴らしい曲、素晴らしい演奏だったと言いつつも、作曲者の目の前でどこが駄目だったか、どう直すべきか、忌憚のない意見を言えるのは先生らしいところでした。思えば先生ももう六十歳です。人生何年時代なのかはともかく、ひとりの音楽家として最後の仕事が視界に入ってくる年頃で、私と姉を音楽界に送り出すことに少しでも喜びを感じてもらえていれば幸いに思います。
最後のおやつはいつものパティスリーの渋皮栗のモンブランで、紅茶は特別な中国紅茶のアプサンスーチョンでした。先生は姉に様々なことを質問されました。姉自身のこと、ピアノのこと、作曲のこと、そして私との関係のことに至るまで、話好きな先生はかつて私にそうしたように、姉本人に対しても根掘り葉掘り聞き出そうとされました。姉自身も話好きなのでこれに応えている内に、気付けば夜になっていました。そろそろお暇しなければならない頃だと思って姉を促すと、それを察した先生の方から別れを切り出されました。また何かあったらいつでも来てくれていいからね、と私たち姉妹の両方に向けてそう言われると、等々力の先生は門の外まで出て、私たちが橋を渡りきるまでずっと見送ってくれました。
一番最初に会ったときは絵本の中の魔法使いにように見えた等々力の先生も、卒業を迎えた私の目には、老境を迎えた一人の尊敬すべき音楽家として対等の存在に見えました。もちろん卒業しても先生は先生で、私はずっと生徒のままであるのに違いありませんから、これは不遜な考え方です。ですが、卒業を機に私の中では、これからは一人の音楽家として立たなければならないという思いが強くなりました。それは先生が私をそう育てたかったように、自立して経営力のある演奏家として、等々力の先生を一つの参考とする立場になるということを意味します。コンセルヴァトワールでの学びが続く中において、新たな先生に師事することになったとしても、これからは精神的に自立した一人の音楽家として自己管理してゆかなければなりません。
これ以降私は等々力の先生に連絡を取っていません。最後のレッスンからちょうど一ヶ月が過ぎて、先生のことを書いていると、何だか懐かしくなってきました。身の回りも忙しくて先生のことを思い出す暇もなかったというのが正直なところですが、これを機に先生にも手紙を書いてみてもいいかもしれません。灯子さんにも地元に残してきた大切な人はいらっしゃいますか。筆まめな灯子さんのことですから、既にご交信されているかもしれません。横浜と等々力なら、何かあったら顔の出せる距離ですが、横浜と大垣ではそうも行きませんし、心細さや恋しさはより一層のものがあるかと思われます。灯子さんは筆が上手ですから、お手紙を受け取る側のそうした心細さや寂しさ、恋しさを埋めることもできましょうが、私はまたしても下手な手紙を長々と書いてご迷惑をかけてしまい、申し訳ありません。
書いても書いてもなかなか自信がつかないのは、きっと勘所をことごとく外してきた技術的な問題なのでしょう。これを才能やセンスの問題に還元されると、私には手の届かないものとなってしまうため、認めたくはありません。どうか灯子さんも文通指南のつもりで根気よくお付き合い頂きたく思います。週明けからはいよいよ本入部ですね。私たちも姉や上野さんに負けないように、引き馬からちゃんと乗れるようになってゆきましょう。それでは失礼致します。
匆々頓首
四月二十七日
新座秀子




