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鈴木灯子様


 前略


 先日は初めてのお手紙を頂きまして、誠にありがとうございました。短い中にも鈴木さんのお人柄、ご来歴が伝わってくる温かいお手紙でした。私もいつかあのような簡潔なお手紙を書けるようになりたいと思い、頂いたお手紙を何度も読み返しております。

 はじめまして、器楽科バスクラリネット専攻一回生の新座秀子と申します。出身は横浜市の大倉山というところで、誕生日は十月十八日のてんびん座、血液型はAB型です。どうぞ下の名前で秀子、とお呼びください。私もご厚意に甘えて灯子さん、と呼ばせて頂きます。

 灯子さんに倣って、私も自己紹介から始めさせて頂きます。簡単なプロフィールは先程述べた通りですが、付け加えて申し上げるならば、家族構成は両親と姉が一人、そして母親がもう一人おります。これについては少々複雑な事情があるので、後程詳述致します。姉というのはすでにご存知の通り、双子の姉の小椋麻優子がその人です。二卵性なのであまり似ていないとはよく言われますが、灯子さんは最初からお気付きになったのには驚きました。

 まずはこの姉のことから始めさせて頂きますと、生まれ育ちは京都府京都市の生粋の京娘です。父親を早くに亡くしたため、私の実の母親で裁判官を務めている小椋悠季子さんと二人で暮らしていました。一昨年の夏までは同じく裁判官を務めた後に大学教授になった実の祖母も一緒に三人女所帯で暮らしていましたが、七十歳という赤毛人としては大往生を遂げ、現在に至っています。小椋家は南近江に本家がある赤毛人の名家の庶流に当たり、近代以降は代々京都の司法官を輩出しています。代々覚りの倣いを家の風としており、姉も人心や物心を覚り言葉に変える力を持っています。

 姉は生まれつき耳が聞こえない障害を持って生まれ育ちましたが、覚りの倣いのため、殆ど聴者と変わらない暮らしをすることができています。その変わり倣いを使いすぎてお腹が空くと言っては、暇さえあれば何か食べているようになったのですが。それでも姉は音楽を音そのものとして聴くことができないことに非常なコンプレックスを持っていて、かえって楽譜そのものに強い関心を持つようになりました。京都の家には出版譜や複写したものなど数百点の楽譜のコレクションがあり、小説でも読むようにして、姉は音楽を視覚から理解するようになりました。

 やがて姉は文章を書くように楽譜を書き始めるようになりました。私が最初にそれを見せられたのは小学六年生の夏のことでした。単旋律にピアノの伴奏を付けた、音楽の教科書に載っていそうな歌曲を姉は書いたのでした。私はその頃B♭管のクラリネットを習っていましたので、姉のピアノ伴奏に合わせて私が主旋律を吹きました。それは単純ながらも、とても感動的な体験でした。それ以来、私が姉の下を訪れる度に姉は私と演奏するための曲を書いて送ってくるようになりました。私が中学からバスクラリネットを始めると、姉もバスクラリネットとピアノのソナタを書くようになりました。一般の女子校に通いながら、姉は独学でピアノと作曲を身に付けました。その上達の度合いは目覚ましく、やがて姉は京都のリセに附属する音楽教室のピアノ科奨学生に選ばれるほどの腕前に成長しました。

 私は当然、姉はそのリセからグランゼコールに進学するものと思っていましたので、姉が京都のコンセルヴァトワールの見学に行ったと聴いた時は驚きました。言うまでもなく、コンセルヴァトワールは純粋音楽の探求を行う学府ではなく音楽産業の中核人材の育成を図る学校法上の高等専門学校です。私はここで姉がピアノの道ではなく、商業作曲の道を選んだことに気づきました。その姉がどうしてここ横浜のコンセルヴァトワールに来ているかというのも、突き詰めれば私ともっと音楽していたかったからと言うほかはありません。姉の音楽に対するコンプレックスは、私と一緒に音楽する体験を通じて姉の中では昇華されたものと言えるでしょう。

 自己紹介のはずなのに姉の話が何段落も続いてしまい、そろそろ私自身の話に入らなければいけません。私は姉と同じ年、同じ日、同じ時間に小椋悠季子さんを実母に、小椋冬樹さんを実父として京都に生まれました。私は姉と同じ赤毛人の子供として生まれたものの、生まれつき尻尾に悪性の腫瘍があることが分かり、やむなく断尾して純人になりました。その影響で器質的に声を作れない体になりましたが、尻尾を切ったおかげでがんの再発もせず、これまで元気に育つことができています。

 私は生まれてすぐに、今の両親である映像作家の母の新座雛子と、スポーツカメラマンの父の新座数馬に引き取られ、一年後その養子となりました。父が男の赤毛人という稀な遺伝子の持ち主であるため、ご存知の通り赤毛人の夫婦同士の間に子供はできませんから、双子の生まれた機会に妹の方である私を悠季子さんから母に与えたという形になります。母は純人の間に生まれたため、小椋家の番子として赤毛人の習いを受け、その後小椋家の養子に入って悠季子さんとは姉妹に当たる関係となりますから、この養子縁組は姉妹の間で、双子の姪を介して行われたものとなります。

 私は横浜の家に引き取られてから、喋れない代わりに音の出るおもちゃをなどを気にいるようになりました。木琴や太鼓、音の出る絵本、トイピアノなどを経て、リコーダーにたどり着いたのは四歳か五歳の頃だと言われています。灯子さんが本物のピアノを触り始めたのと、おおむね同じくらいの年頃のことです。私は誰に教わるでもなくリコーダーが上達し、母が撮ったホームビデオの中には家族の前でリコーダーのリサイタルを開いている映像が残っているそうです。やがて私も小学校に入る時期になりましたが、声が出せない私は特別支援学級でほとんどマンツーマンの授業を受けることになりました。学校から帰っても友達がいないので、両親は私が音楽に興味があるなら、と近所のピアノ教室に私を通わせ始めました。

 めきめき、というほどのこともなくほどほどにピアノは上達しましたが、加えて物心のついた私はリコーダーに代わって吹奏楽器を何か習いたいと両親に要求するようになりました。NHKの『クインテット』を見ていた影響で、世の中にはクラリネットという楽器があるということは知っていましたが、実際には教室をいくつか体験してみた中で、世田谷の等々力にある松戸浄子という先生がやっているクラリネット教室に行ったのが私とクラリネットとの出会いでした。クラリネットの音色、特に低音域の豊かな響きに魅了された私は、早速B♭管クラリネットを習いに東京まで往復する生活を始めることになりました。

 等々力の先生の所では、クラリネットのレッスンの他、やがてソルフェージュやピアノも習うようになりました。ピアノのレッスンでは当時横浜のコンセルヴァトワールにいた浦沢畔人先生がわざわざ等々力までやってきてご教授下さり、私の中にコンセルヴァトワールに進学するという目標が形成されました。小学生の間は私はB♭管を吹いていましたが、中学に上がったとき、等々力の松戸先生がバスクラリネットを贈って下さいました。クラリネットの低音部の響きを気に入っていた私は、更にそのオクターヴ下の響きと、楽器自体の頼もしい大きさとにすっかり魅了され、それからはバスクラリネットを習うようになりました。現在使用しているセルマーのLowC管バスクラリネットはその時に贈って頂いたものになります。

 浦沢先生は途中で大阪の音大に転出されたものの、私はコンセルヴァトワールを第一の進学志望先としてレッスンを続けました。その頃は姉と同じ学校で学ぶことになるとは考えもつかないことでした。今年のお正月に会ったときも姉はまだそのことを秘密にしていました。二月の大雪の日に、受験会場で偶然遭遇するまで、私は全くそのことを知らなかったのでした。思えば自身のコンプレックスを私と音楽することへの情熱まで昇華させた姉と違い、私はずっと私のままで、周囲の人々に恵まれてここまでやってきたに過ぎません。誇るべき姉に対して、私は実に誇るべきところのない妹です。これが自己紹介の結びになるとは、なんとも情けないお話で恐縮です。

 先程触れたついでに、両親についても簡単にご紹介致します。私の両親は共に赤毛人です。母は純人の家系に生まれたので、早くから京都の小椋家に番子に行っていました。父は反対に東京の赤毛人の旧家に生まれ、毛人の番子が何人か身の回りの世話についていたと聞いています。正反対の二人ですが、大学の報道部で映像記者と写真記者を務めていた縁で結ばれ、横浜の大倉山に居を構えました。結婚して四年目に私が生まれ、二人の子になったことは先述の通りです。

 母は京都にいた頃より八ミリ映画を撮っており、報道記者を目指して上京してから、NHKの取材カメラマンを経て、今は主にものづくり系のドキュメンタリー映像を撮っています。小さな制作スタジオで社長兼監督を務めており、作品は主にミニシアターや、最近ではオンライン配信でも配給されていますが、ごくたまに日曜日の午後に民放で放送されていたりもします。クリエイターの制作現場だったり、音楽コンクールの内幕だったり、あるいは人気レストランの裏側など、これまで色々なものを題材に作品を撮ってきましたが、中でも私が好きな作品は『王と鳥:アトリエメーヴェ(株)展』という、完成しなかったアニメ映画の美術展を作る話です。ソフト化もされているので、気になったら調べてみてください。

 父は通信社の運動部員を経て、今はフリーランスのスポーツ写真家をしています。以前は陸上競技の大会を追いかけていましたが、私の親になってからというもの、主にパラスポーツの大会を追いかけるようになりました。写真は新聞やスポーツ雑誌にも掲載され、また、インターネットメディアの『みんなのパラスポ』とは公式写真家として契約しています。今年の三月もオンラインの大手スポーツメディアと契約してパラリンピックを追いかけ、ロシアのソチに飛んでいき、日本選手団の活躍を取材してきました。両親ともメディア業界の人間で、取材のため家を空けることも多いながら、私のためとなると惜しみなく時間を割いてくれる、タフで温かい二人のことが私は大好きです。

 最後に、私の実の母親である小椋悠季子さんについてお話しします。悠季子さんは京都小椋家の現当主であり、母の一歳上の姉に当たり、京都の裁判所で裁判官をやっています。母が番子を務めていた十六年間を共に過ごし、生まれつきの循環器系の病気で一年間療養していた時期があるため、歳の差はありながらも、母とは同学年でずっと過ごしてきました。

 母が番子に入ったのは四歳の頃のことでした。山崎の蒸留所で技師として働いていた純人の父が、税務署長をしていた私の実の祖父を介して、養育費と引き換えに半ば押し付けるように番子に入れてしまったそうです。母はそんな自分の実家のことをずっと恨み、また恥じてきました。気の毒に思った小椋家では、母を我が子同様に扱い、自然と母と悠季子さんの関係は姉妹のそれに近づいてゆきました。やがて母に実家で離婚騒動があると、その機に小椋家が手を回して、母を正式に小椋家の娘として養子に迎え、母と悠季子さんは姉妹になったのでした。

 母は高校時代から八ミリ映画を撮っていたのは先述の通りです。これがNHK放送コンテストの銀賞を獲ったことをきっかけとして、母は映像報道の道を志し、東京の大学に進学することを考えるようになりました。小椋家では、家職である京都の司法官の職を継ぐのは悠季子さんではなく母でもよいとまで考えていたのですが、悠季子さんの後押しもあり、母は上京して、悠季子さんは京都に残り、家職を継いだのでした。

 悠季子さんは大学時代の同期に当たる橋詰冬樹さんと大学院時代に学生結婚をしました。私の実の父に当たります。冬樹さんは医師として、勉学や職務に臨む悠季子さんの身体を支えてきました。結婚から三年後、待望の子供ができました。悠季子さんの健康上の不安もありましたが、周囲の人々、特に産婦人科医になった冬樹さんの懸命な支えもあって、ともかく無事に私たち双子が生まれてきました。しかしそれ以降、今度は冬樹さんが体調を崩しがちになり、私たちが四歳の頃にがんがもとで冬樹さんは亡くなってしまいます。

 遺された悠季子さんは祖父母と一緒に障害のある姉を懸命に育て上げました。覚りの倣いを持つ人は大抵鷹揚なものですが、悠季子さんほど優しい人を私は他に知りません。小さい子姉はよく癇癪を起していましたが、悠季子さんがそれに怒ったところを私は見たことがありません。必ず姉の心に向き合って共に解決策を探ろうと考えるのが悠季子さんのやり方です。お蔭で姉は清く正しく美しくとまでは言わないものの、公徳心を持つ立派な人間に成長しました。

 自己紹介のはずが、家族の話ばかりになってしまいましたことをお詫び申し上げます。灯子さんのようにもっと簡潔に家族のこと、お友達のことなどを話せれば良かったのですが、なにぶんこれまで家族とばかり付き合ってきたもので、話題に事欠くこと著しいのです。

 初対面に近い相手からプライベートな情報を延々話されて、もしかしたら気持ち悪いと思われたのではないかと心配です。もし次があるならば、等々力の先生のことについてお話させて頂きたいと思います。私の手紙下手ばかりを露わにして終わるのも実にお恥ずかしいばかりですが、どうか今後の成長を信じてこれからもお付き合い頂ければ幸いです。明日もまた仮入部でお会い致しましょう。それでは失礼致します。


 匆々頓首

 

 四月二十日

 

 新座秀子

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