第三話 清掃員、未確認区域に入る
未確認区域へ向かう前に、俺たちは一度、非常扉の前へ戻った。
あおいは仲間の肩を借りている。足は動かせるようだが、無理をさせるわけにはいかない。
「先輩の反応は、こっちです」
あおいが手元の端末を見せた。地図には、点がひとつ表示されている。非常扉の向こう、俺の端末に表示された地図にはない通路の奥だ。
「救助隊を呼ぶのが先じゃないですか」
俺がそう言うと、あおいの仲間のひとりがうなずいた。
「呼びました。でも、この階だけ通信が不安定で……救助隊が来るまで、かなり時間がかかるそうです」
「だったら、待つべきだと思うけど」
「先輩は、怪我をしている可能性があります」
あおいは歯を食いしばっていた。
その顔を見て、俺はため息をつく。
「分かった。確認だけだ。見つけたら、すぐ戻る」
「久瀬さんも来てくれるんですか?」
「端末に『未確認区域の状態を報告せよ』って出てるからな。業務なんだ」
あおいの仲間たちが、妙に感心したような顔をした。
「こんな状況でも任務を優先するとは……」
「違う。業務時間中に放置したら、明日も呼ばれそうだからだ」
俺たちは非常扉をくぐった。
その先は、ひどく古い通路だった。壁の塗装は剥がれ、天井の配管から水が落ちている。探索者が使う通路というより、建物の裏側にある機械室のようだ。
清掃員としては、かなり気になる。
「この床、後で拭くの大変だな……」
「久瀬さん、今は床より前を見てください」
あおいに注意された。
「分かってる。床も前も見てる」
通路を進むと、壁に黒い汚れが続いていた。非常扉にこびりついていたものと同じ色だ。汚れは奥へ向かって、細い筋のように伸びている。
端末が震えた。
『異常汚染の痕跡を確認』
『発生源を特定してください』
「やっぱり、ただの汚れじゃないんだな」
「久瀬さんの端末、何が表示されているんですか?」
「清掃に関すること」
「それだけで、さっきのスライムを止めたんですか?」
「俺もまだよく分かってない」
説明できることがないので、そう答えるしかなかった。
通路の奥から、金属を叩くような音が聞こえた。
――ガン、ガン。
「先輩!」
あおいが声を上げて走り出そうとする。仲間が肩を支え、俺たちは慎重に音の方へ向かった。
通路の突き当たりには、広い整備室があった。
中央に、大きなスライムがいた。
青白い身体の表面を、黒い膜が覆っている。膜は脈打つように膨らみ、その向こうに人影が見えた。
「いた……!」
あおいが駆け寄ろうとしたが、仲間が止めた。
人影は、倒れた棚の下に挟まれていた。意識はあるらしい。手に持った金属棒で、床を叩いている。
「おい! 聞こえるか!」
仲間の探索者が呼びかける。
「聞こえてる! 助けに来るのが遅いぞ!」
「文句を言えるなら、元気そうだな」
「元気じゃない! 足が棚の下だ!」
声が返ってきた。ひとまず生きている。
しかし、黒い膜をまとったスライムがこちらを向いた。表面に泡が浮かび、黒いしぶきが床へ飛ぶ。
「下がってください! 私が引きつけます!」
あおいの仲間のひとりが前へ出た。剣を構え、スライムを反対側へ誘導する。
ところが、スライムは動かなかった。
ただ、倒れている男と俺たちの間に立ちふさがっている。
「……こいつ、あの人を狙ってるんじゃないのか?」
「じゃあ、どうして逃げないんですか?」
「知らないよ。スライムの気持ちなんて」
黒い膜が、また大きく脈打つ。
男が、棚の向こうから叫んだ。
「そいつ、俺が近づくと襲ってくる! こっちに来るな!」
その瞬間、俺の端末に表示が浮かんだ。
『汚染された粘膜を除去してください』
『対象:大型スライム一体』
「いや、対象が大きすぎないか?」
俺の仕事道具は、長柄ブラシとモップだけだ。武器らしい武器はない。
けれど、あの黒い膜は、非常扉に付着していた汚れと同じに見える。
「俺が近づいてみる」
「危険です!」
「たぶん、汚れを落とせばいいんだ」
「たぶんで行くんですか?」
「他に方法がない」
俺はモップを構えて、スライムへ近づいた。
黒い膜が、こちらを向く。
次の瞬間、粘液が飛んできた。
「うわっ!」
身をよじると、粘液は壁に当たった。モップの先が黒い膜にかすった。
淡い光が走る。
膜の一部が、すっと消えた。
黒い膜の下から、スライムの青白い身体がのぞく。そこに、硬い結晶のようなものが浮かんでいた。
「核が見えました!」
探索者が叫ぶ。
「久瀬さん、そのまま膜を剥がしてください!」
「剥がしてくださいって、雑巾がけみたいに言うな!」
俺はモップを動かした。拭き取るたび、黒い膜が少しずつ薄くなる。
スライムが大きく揺れた。床を伝って、こちらに迫ってくる。
仲間の探索者が剣を振り、進路をふさいだ。
「あと少しです!」
「このモップ、長さが足りない!」
「もう少し伸ばせませんか!」
「モップは伸びない!」
俺は柄を両手で握り、最後の黒い塊をこすった。
膜が剥がれ、核が完全にむき出しになる。
「今だ!」
探索者の剣が、結晶を正確に打ち砕いた。
スライムは大きく震えたあと、音もなく床へ広がった。黒い膜は消え、ただの青い粘液だけが残る。
整備室に、静けさが戻った。
「よし。あとは床を拭けば……」
「久瀬さん、今は人を助けるのが先です」
あおいの仲間に止められ、俺はモップを下ろした。
探索者たちが棚を持ち上げ、挟まれていた男を救い出す。男は足を痛めていたが、意識ははっきりしていた。
「助かった。俺は真壁。あおいのチームのリーダーだ」
「久瀬です。清掃員です」
「清掃員が、あの魔物の核を露出させたのか……?」
「汚れを落としただけです」
真壁さんは何か言いたそうな顔をしたが、結局、首を横に振った。
「まあいい。ここから離れよう。まだ安全とは限らない」
そのとき、端末が短く鳴った。
『業務達成:異常汚染を除去』
『報酬:《汚れ落とし》が《汚染除去》に変化しました』
「名前が変わった」
『追加業務が発生しました』
「まだあるのか」
表示された文字を見て、俺は固まった。
『汚染の発生源を確認してください』
整備室の奥。壁に開いた細い亀裂から、黒いしみがゆっくりと染み出している。
その向こうから、今度ははっきりと声が聞こえた。
「……たすけて」
真壁さんの顔から、冗談めいた表情が消えた。
「この先には、誰もいないはずだ」
俺の端末に、赤い警告が浮かんだ。
『未確認区域の深部に異常反応』




