第二話 清掃員、探索者を保護する
地下へ続く階段は、想像していたより長かった。
壁の非常灯は、ついたり消えたりを繰り返している。管理会社の端末に表示された地図では、この先にあるのは地下二階の非常扉だ。清掃担当区域から外れている場所なので、俺は一度も来たことがない。
そして、さっき確かに聞こえた。
――たすけて。
「確認だけだ。確認したら帰る」
念のため、何度も自分に言い聞かせる。こういうとき、余計なことに首を突っ込むとろくな目に遭わない。会社の研修でも、立ち入り禁止区域には入らないようにと何度も言われていた。
ただ、端末には追加業務が表示されている。
『地下二階の非常扉を確認してください』
業務命令に逆らうと、明日のシフトに響くかもしれない。契約社員にとって、勤務評価は大切だ。
……たぶん。
階段を下りきると、通路の先に非常扉が見えた。赤いランプが点滅し、扉の隙間から白い煙のようなものが流れ出している。
「確認だけって話だったんだけどなあ」
端末の地図を確かめようとした、そのときだった。
「誰か、いますか!」
今度ははっきり聞こえた。
声のした方へ走る。通路の角を曲がると、探索者らしい少女が床に座り込んでいた。十代後半くらい。制服の上に防具を着け、片足を押さえている。
その背後では、扉が半分ほど開いたまま止まっていた。扉の縁には、青白いスライムがべったりと張りついている。
「怪我をしてるのか?」
「足を挟みました。抜けたんですけど、歩けなくて……。仲間とも、はぐれてしまって」
少女の顔は青ざめていた。俺は、まず周囲を見た。
通路に魔物の姿はない。だが、床一面にぬめった跡が続いている。さっきまでいたスライムが、どこかへ移動したらしい。
「名前は?」
「水瀬あおいです。見習い探索者です」
「俺は久瀬。ここの清掃員」
少女は一瞬、俺の顔を見た。
「清掃員……?」
「そう。モンスター退治は担当外だから、そこは期待しないでくれ」
俺は彼女に肩を貸そうとした。すると、端末が音もなく光った。
『追加業務が更新されました』
『負傷者を安全区画まで搬送してください』
『報酬:未設定』
「報酬未設定が好きだな、この端末」
ぶつぶつ言いながら、あおいの腕を肩に回す。
「少し歩けるか?」
「はい。ご迷惑をおかけします」
「迷惑っていうか、業務だから」
言いかけたところで、背後の扉が大きく揺れた。
べちゃり。
床に広がっていたスライムの跡が、ひとつに集まり始める。壁に張りついていた青白い粘体が、ゆっくりと盛り上がっていた。
「久瀬さん、後ろ!」
あおいが叫ぶ。
「え、うそ。清掃済みじゃなかったのか」
スライムは、普通の個体よりずっと大きかった。扉の隙間からにじみ出た煙を吸い込むようにして、身体を膨らませていく。
あおいが腰の短剣を抜こうとしたが、痛む足をかばって動けない。
「すみません。私が足手まといに……」
「いや、気にしないで。俺は清掃員だから、こういうときの正解が分からない」
「正解は、逃げることです!」
「それなら得意だ」
俺は彼女を支えたまま、通路の反対側へ下がった。
しかし、スライムの進む先には、さっきの非常扉がある。あおいの仲間は、その向こうにいるかもしれない。扉が閉まれば、合流できなくなる。
端末には、まだ業務の文字が表示されていた。
『非常扉を確認してください』
「確認って、どこをどう確認すれば……」
扉の表面には、黒い汚れのようなものがべったりと付着していた。スライムの粘液にしては、妙に濃い。そこから煙が漏れている。
俺はモップを握り直した。
「ちょっとだけ、触ってみる」
「危険です!」
「清掃員だから。汚れを見ると、放っておけないんだ」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
黒い汚れにモップを押し当てる。すると、端末の表示が一瞬だけ変わった。
『異常汚染を検知』
『《汚れ落とし》を使用しますか?』
「使う」
モップの先が淡く光る。
ひと撫で。
黒い汚れが、紙を剥がすように消えた。
その瞬間、扉の赤いランプが緑に変わる。通路に響いていた警報音も止まった。
そして、膨れ上がっていたスライムが、力を失ったように床へ崩れた。
「……え?」
あおいが目を丸くする。
俺も同じ顔をしていると思う。
『業務達成:非常扉を確認』
『《汚れ落とし》の効果が上昇しました』
「確認しただけなんだけどな」
扉がゆっくりと開く。向こう側から、探索者らしい声が聞こえてきた。
「あおい! そこにいるのか!」
「先輩!」
仲間たちが駆け寄り、あおいを支える。彼女は俺を振り返った。
「ありがとうございました。久瀬さんは、探索者なんですか?」
「清掃員だよ」
「でも、あのスライムを一瞬で……」
「あれは汚れを落としただけだ」
仲間の一人が、床に崩れたスライムを見てから、俺を見た。
「……それを倒したって言うんじゃないですか?」
「いや、清掃と討伐は別の部署だから」
そんなことを話していると、端末が再び鳴った。
『本日の追加業務がすべて完了しました』
『報酬:清掃技術が大きく向上しました』
喜ぶべきなのだろうか。
帰り道、あおいは何度もお礼を言った。俺はそのたびに「業務だから」と返した。
ただ、最後に彼女が言った言葉だけは、笑って流せなかった。
「さっきの扉の向こう、探索者がひとり残っているはずなんです。でも、返事がなくて……」
端末の地図を見る。
地下二階のさらに奥に、表示されていない通路が一本伸びていた。
その先で、赤い警告表示が点滅している。
『未確認区域』
どうやら、今日の業務はまだ終わっていないらしい。




