第四話 清掃員、壁の染みを追う
『未確認区域の深部に異常反応』
端末の警告は、赤く点滅したままだった。
整備室の奥にある亀裂から、黒いしみがゆっくり染み出している。真壁さんたちは剣を構え、俺はモップを握り直した。
「さっきと同じ汚染だ。あの先に何かある」
「でも、あの隙間を通るのは無理ですよ」
あおいの仲間が言うと、真壁さんは壁の亀裂を調べた。
「いや、これは壁が割れた跡じゃない。奥に扉があるんだ。古い点検口が、汚染で塞がれている」
俺はモップの先で黒いしみを少しだけこすった。黒い膜が、薄く剥がれる。
その向こうから、また声がした。
「……助けて」
今度は、さっきよりもはっきり聞こえた。
「人がいるんですか?」
「分からない。まず、声の出どころを確認しよう」
真壁さんがそう言って、あおいの仲間と一緒に壁を調べ始めた。俺も端末の指示を確かめる。
『業務:汚染の発生源を確認してください』
『進捗:未確認』
「こういうときくらい、もう少し詳しく書いてほしいな」
端末に文句を言っても、返事はない。
黒いしみを少しずつ拭き取ると、壁に四角い金属板が現れた。中央には、古びたつまみがついている。
「点検口ですね。開きますか?」
あおいが尋ねる。
「やってみる」
真壁さんがつまみを回した。だが、固くて動かない。
「汚れが詰まってるんじゃないか?」
「金属に汚れが詰まるって、どういうことですか」
「俺に聞かれても困る」
俺は金属板の縁をモップで拭いた。
すると、さびた部分がぼろぼろと落ち、つまみが軽く動いた。
「おお、回った」
「久瀬さん、今のはただ拭いただけですよね?」
「そうだけど」
点検口が、ぎいっと音を立てて開く。
狭い通路の奥に、小さな部屋が見えた。壁際には倒れた棚があり、その下に誰かがうずくまっている。
「助けてくれ!」
今度の声は、録音ではない。
「生きてる!」
真壁さんたちが中へ入り、棚を持ち上げた。下から出てきたのは、作業着を着た中年の男性だった。顔は汚れ、額には血がにじんでいる。
「大丈夫ですか?」
「足を痛めた。だが、命に別状はない」
男性はそう答えると、俺の手にあるモップを見た。
「君は清掃担当か?」
「はい」
「なんで清掃担当が、こんなところにいるんだ?」
「端末に業務命令が出ていたので」
男性は、俺の端末を見て、しばらく黙った。
「……そうか。まだ動いているのか」
「この端末のこと、知っているんですか?」
「いや。ここの管理システムを知っているだけだ。俺は施設保守の御厨。点検中に、通路が崩れて閉じ込められた」
「どれくらい前からですか?」
「たぶん、三時間くらいだ」
三時間。誰もいない場所で、助けを待つには長い時間だ。
御厨さんは、手に持っていた通信機を見せた。電池切れ寸前のランプが点滅している。
「これで救助を呼んだが、通信が通らなかった。声が聞こえたなら、何度も呼びかけたかい?」
「はい。最初は、別の人かと思いました」
「別の人……?」
御厨さんの表情が曇った。
「俺以外にも、誰かいるのか?」
「それは、まだ分かりません」
そのとき、点検口の奥から、また声が聞こえた。
「……助けて」
全員が振り返る。
今度の声は、さっきより遠かった。部屋の奥、さらに先にある通路から響いている。
御厨さんは、首を横に振った。
「俺じゃない。俺はもう声を出していない」
真壁さんが、点検口の奥をのぞき込む。
「まだ誰かがいるのか?」
「いや……あの先は、閉鎖されているはずだ」
御厨さんの言葉に、あおいが不安そうに俺を見た。
俺も、端末へ視線を落とす。
赤い警告表示の下に、新しい文字が出ていた。
『異常反応を確認』
『発生源:さらに奥』
「発生源の確認、まだ終わってないらしい」
「久瀬さん、まさか行くつもりですか?」
「業務が残ってる」
「ここまで来て、まだ仕事の話をするんですか……」
「定時を過ぎる前に終わらせたいんだ」
誰も笑わなかった。
点検口の奥から、黒いしみが静かに流れ出してくる。
その向こうで、誰かがもう一度、助けを求めた。




