きっと忘れてしまうだろうと思ったから
「イーサン様が元気になれるなら、なんでもします」
「じゃあ……マクシー。僕が大きくなったら、お嫁さんになって」
体調を崩して床に臥せる彼を、なんとか励ましたくて。
一度だけ、応えてしまった。
彼とは六歳差。
幼な子が口にした夢現での言葉などいつか忘れてしまうだろうと考えたマクシーは、そっと微笑みかけた。
「私でよければ。だから、イーサン様。必ず元気になってくださいね」
その一度きりのささやかな会話が、彼の人生を大きく狂わせてしまったのかもしれない。
◇
十五歳のマクシー・アルエットは、とある侯爵家が募っていた家庭教師の仕事を自ら進んで請けた。
アルエット男爵家は、没落一歩手前の財政状況にある。
そのため、資金をなんとか工面して学園に通わせてくれている両親の負担を少しでも減らしたい一心で、マクシーは自分ができる仕事を探していたのだ。
当時、九歳の侯爵令息であるイーサン・ハインツと出会ったのは、それがきっかけだった。
「降りてください! お願いですから……!」
しかし家庭教師というのは名ばかりで、実際には、世話係に近いものだった。
勉強をしなければならない時間に、邸内の裏庭にある大きな木の高い所まで登ってそっぽを向くイーサンに、マクシーは顔を青くしながら必死に呼びかける。
雇い主に任された大切な子息に何かあれば、解雇どころでは済まされない。その思いはもちろんあったが、落下でもして打ちどころが悪ければ最悪、死に繋がる。
それが何より恐ろしかった。
「うるさいな。どうせきみも、すぐに辞めてしまうんだろ」
「辞めません! だからどうかお願いです、降りてください……!」
イーサンの母親は、彼を産んですぐに病で亡くなっている。
その後、ハインツ侯爵家当主である彼の父親が男手ひとつでなんとか育てようと懸命に努めたが、それには限界があった。
幼少の頃から、イーサンは原因不明の体調不良に悩まされていた。そのため、学園へ通うことが難しかった。
そのうちハインツ家が手がける事業が急速に大きくなり、息子にさける時間が減ってしまったことによって、彼のために家庭教師を雇うことにしたのだった。
しかし、イーサンは雇われた家庭教師を度々ひどく困らせた。
度々起こる体調不良でままらない自身の体に、イーサンは日々憤りを感じていた。その鬱憤を、彼は家庭教師にぶつけていたのだ。
悪態をついたり、勉強をすっぽかしてどこかへ行ってしまったり、無視を決め込んだり。
彼の傍若無人ぶりに耐えきれず、これまで短期間のうちに何人も家庭教師が辞めてしまっていた。
そうして、ついには没落寸前のアルエット家にまで家庭教師の話が回ってきたのだ。
没落寸前の男爵令嬢に見合う以上の給金を出すほどだ。ほとほと困り果てていたのだろうと、察するに難くなかった。
イーサンを必死に呼ぶマクシーの声を聞いても、ハインツ家の使用人は誰ひとり手を貸そうとはしない。何か問題があっても、自分たちに飛び火が来るのは避けたいからだ。
イーサンの横暴ぶりは使用人にまで及んでいたため、彼らは必要以上に近付きたがらなかった。
ハインツ家に雇われて二週間。
そんな家庭状況に気付かざるを得なかったマクシーは、自分までイーサンを見捨ててはいけないと思ってしまった。
「私、待っていますから! イーサン様が降りてきてくださるまで」
「しつこいよ。いい加減、静かにしッ——!?」
掛けられた声に反応して振り返った拍子に、イーサンが木から足を滑らせた。
バランスを崩したのを目にしたのと同時に、マクシーは咄嗟にしゃがんで地面に手をついた。
刹那、彼女の目の前の地面が一斉に草木で生い茂る。その葉は柔らかな新緑ばかりだった。
それがクッションとなり、背中から落下するイーサンを受け止めた。
「ああっ……よかった……! イーサン様、お怪我は……!?」
落下のショックで反射的に震えている小さな手を握ったマクシーは、一気に訪れた恐怖と安堵に涙を零した。
対するイーサンは驚きのあまり、暫く呆然としてしまっていた。
高所から落下したにも関わらず、突然真下に現れた緑のクッションのおかげで無事だったことはもちろんだが、それだけではない。
本気で心配してくれているマクシーに、心から驚いたのだ。そんな彼女の流す涙を、イーサンは幼いながらも美しいと感じた。
「……マクシーは、魔法が使えるの?」
「い、いえ……ほんの少し、魔術が使えるだけで……」
途端に、イーサンは琥珀色の瞳を輝かせた。
そんな彼の様子に、マクシーは目を丸くする。おかげで涙も止まってしまった。
初めて見たイーサンの新鮮な反応には驚いたが、毛嫌いされていると思っていたマクシーの名を、イーサンが覚えていてくれたことがなにより嬉しかった。
「すごい、すごいよ!」
「そう、でしょうか」
「うん、ほんとにすごい! ねえ、僕にも魔術を教えてよ!」
イーサンを受け止めた緑のクッションを出現させたのは、マクシーだった。
彼女には亡くなった祖母からの教えにより、多少の魔術の心得があったのだ。
「そうですね……私は構わないのですが、先に旦那様に相談してからにしましょう」
まずは怪我がないか確かめなければ。
そう決めてからハインツ邸に戻るために立ち上がったマクシーの手を、この日、初めてイーサンから握りしめた。
幸いにも怪我はなかったが、その日の夜、イーサンは体調を崩した。
——そういう経緯のあと、冒頭のやり取りが交わされることとなった。
「イーサン様が元気になれるなら、なんでもします」
マクシーは本気でそう思った。
ここに来てからというもの、彼が体調を崩さなかった日はない。
原因不明の高熱に悩まされ、ほとんど毎日のように寝込んでしまうイーサンの姿を見るのは、とても辛いものがあった。
ただ励ましたかった。その一心で口にした言葉だった。
「じゃあ……僕が大きくなったら、お嫁さんになって」
飲み物が欲しいとか、どこかへ連れて行ってほしいとか、そういう要望を待っていた。
けれどまさか、そんなことを言われると思っていなかったマクシーは驚きを隠せなかった。
「そばにいて……お願い、マクシー……」
高熱により潤んだ琥珀色の瞳は、今にも溶け落ちてしまいそうな危うさを孕んでいた。
縋るように伸ばされた手は熱く、弱々しく、あまりにも頼りなくて。
イーサンを護らなければと、その時のマクシーは強く思ってしまった。
「私でよければ。だから、イーサン様。必ず元気になってくださいね」
数日も経てば、きっと今夜のことは忘れてしまうだろう。
少し寂しく思いながらも、マクシーはそっと微笑みかけた。
昼間はからりと晴れ渡っていた空が、夕暮れ時には、周りの音を掻き消すほどの大雨に様変わりしていて。
激しい雨音はまるで二人きりの世界を作り出すように、イーサンの部屋を包み込んでいた。




