27話「秋空楓の世界」
桜木春香の泳ぎを、秋空楓は飛び込み台の後ろにある椅子に座ってみていた。
『やっぱり、春香の泳ぎは好き…』
思わずうっとり見惚れてしまっていることに気がついて、次は自分の番のことを忘れそうになってしまう。
『気を引き締めないと…こんなんじゃ、春香に呆れられてしまう…』
自分自身に鞭を打ちながら、頬を軽く叩き、自分が泳ぐ50m自由形に集中する。
そんな秋空楓の隣、三コースの生田麻衣花は秋空楓のことを睨みつけているがの如く見ていた。
『なんで、そんなに冷静にいられるのよ。他の人達は眼中にないわけ?』
秋空楓の表情は、あまり豊かではない。はっきり言ってしまえば無に近いだろう。だが、決して緊張していないわけでも、他の人達を意識していないわけではない。
ただ、表情に出ていないだけで、ちゃんと緊張している。
秋空楓にとって、他の人に勝つのは当たり前で、その先にいる人物に勝つことが一番の目標だからだ。
『私は大丈夫。私は大丈夫。絶対に一位を取る。私は大丈夫。私は大丈夫。絶対に一位を取る』
念仏のようにそう唱える少女は、五コースの生駒沙友里だった。
自分は大丈夫だと何回も思うことによって、飛び込みでのフライングや遅れをなくそうという考えだが、実際にやることによって落ち着くことは出来る。
その行いは水泳の大会に限らず、誰もが試したことがあるが、水泳の大会においては飛び込み台の上に立つと緊張がぶり返してきて、心臓の音が支配されることが多い。
生駒沙友里もまた、それに悩まされている人物の一人だった。
『大丈夫。飛び込み台の上に立つと緊張して心臓と足がどうにかなっちゃいそうになるけど…今年はいい調子だから、このままの勢いでいく』
彼女達はそれぞれの思いを胸に、四組の放送が始まっていく。
一コースから八コースまでの学校名、選手の名前が言い終わり、笛の音が鳴る。それにあわせて、飛び込み台の上で構えた。
『なんで、こんなに冷静なんだろう…』
秋空楓自身が驚くくらいに冷静で頭の中も真っ白になっておらず、心臓の音も足の震える音も聞こえてこない。
「なんでだろう?」と少しばかり思い返して見ると、直前に桜木春香の泳ぎを見たせいなのではないかと思えてきた。
桜木春香の泳ぎは豪快で荒々しくて、そんな中に丁寧さもあって、自分とは違う部分があって好き。
いつも、泳ぎを見ても思う。違う角度から見れば、雑という言葉で片付いてしまう泳ぎに見えるのに、なんで速いのだろうか?と。
真似をしようやってみたことがあった。何時間もやってみたけど出来なくて、その時に桜木春香に言われたことがある。
「楓はやっぱりさ、いつもの泳ぎがいいよ。丁寧で、その中に豪快さがあって…私は楓の泳ぎ好きだよ。いつも隣でさ、その泳ぎを私に見せてよ」
その言葉が頭に今でもこびり付いていて、離れない。
お互いの泳ぎが好きだからこそ、今の秋空楓は冷静でいられることができる。
秋空楓の先には、桜木春香がいる。だから、安心して泳げる。
今日の泳ぎも、明日の泳ぎも、来週も来年も全て、桜木春香に見せる泳ぎだから。
『春香のために泳ぐからか…』
そのことに気がついたのと同時に、聞き慣れた声が聞こえた。
「Take your marks」
英語の「よーい」の後に、笛の電子音が流れ一斉にスタートする。
今回の三組においては全員が遅れてはおらず、誰もが均一に飛び込みは出来たように見えるが、その後のドルフィンキックの精度とクロールの泳ぎがどれくらい全力を出しつつ、焦らずに丁寧にできるかが三組での勝敗を分けるようにみえた。
『飛び込みも問題ない…ドルフィンキックもいい感じだし、後は四コースと五コースの子を抜けばいい』
『念じていたからか、それとも願いが通じたのかわからないけれど…いい感じでスタートが出来た。今の調子を崩さなければ、関東大会にはいけそうかな?でも、油断はダメだよね』
生田麻衣花と生駒沙友里は、そう思いながら飛び込みからドルフィンキックまでの動作で15mを泳いで浮上して、お互いして隣を見て驚きを隠せないでいた。
何を隠そう、秋空楓がいなかったからだ。
『どこにいるの?』
『私の後ろなのかな?』
呼吸をする度に、後ろを軽く見ていないとわかれば、前を見て秋空楓がいたが、その距離が問題だった。人一人分以上前にいたからだ。
二人がドルフィンキックをやっている間に秋空楓は、二人よりも速く精度はミスがなく、ドルフィンキックを終え15mまでやりきり、クロールを泳ぐのを開始していた。
決して、生田麻衣花と生駒沙友里のドルフィンキックが遅いわけでもない、クロールが下手くそなわけでもない。
単に秋空楓が、予選以上の速さで泳いでいるだけに過ぎない。
『体が軽い…緊張もしていない…凄く泳ぎやすい…待っててね、春香…今行くから』
更に加速をした。突き放されることになる、後ろの二人は一生懸命追いかける努力をするが、追いつけない。 勝負にもならない。「この気持ちを何と呼べばいいのか?」と心の中で自問自答する。
『嘘でしょ…予選じゃ、こんな感じじゃなかったのに…』
『上には上がいるんだな…私も、もっと頑張らないと』
秋空楓の圧倒的な泳ぎに二人は追いつこうとする気力を失っていた。闘争心が剥き出しになる大会でこんな気持ちになるとは思いもしなかったが、いい対戦相手にめぐりあいたことに感謝したいとも思えた。
秋空楓は独走状態が続いているが、彼女の中で今回の出来事について気がついていないことがある。
それは、自分の世界に入っていることだ。
「目の前が見えていない」と言えば聞こえは悪いが、競技で言えば悪いことではない。
自分の世界に入るということは、周りいわばライバルとなりえる選手達との戦いの緊張から解放され、火事場の馬鹿力の如く自分自身の奥底から引き出される思い、力、体力が一気に解放される形となる。
緊張、周り、悲観といった気にしていること、つまり余計なものが入ると途端にいい泳ぎをする選手でも、途端にいいタイムが出なくなったり、泳法や泳ぎの精度にミスが出始てしまう。
では、今の秋空楓の状態を最も適切な言葉で言い表すとするならば、領域やゾーンという言葉が近いだろう。
着替えもせずに、秋空楓の泳ぎを見ている桜木春香はそのことを一瞬で見抜いたし、今回の勝負は負けたと悟る。
でも、負けても悪い気持ちにはならなかった。
「いい泳ぎしてるじゃん」
圧倒的なスピードで秋空楓が一位、かなり遅れてほぼ同列に並びながら二位に生田麻衣花、三位に生駒沙友里がゴールをして、関東大会出場を果たしたのと同時に秋空楓は桜木春香のタイムを抜き去った。
そして、秋空楓の50m自由形決勝は幕を閉じた。
「凄い…」
それ以外、それ以上の言葉が頭の中から抜け落ちたみたいに秋空楓の泳ぎを見ている人達がいた。
桜坂花蓮、南条愛美、武田佳織里は二階のよく見える位置の手摺に寄りかかりながら、桜木春香と秋空楓の泳ぎを見ている。
最初こそ、武田佳織里が予選と同じように見ようと動いたところに、二人が「一緒に着いてってもいい?」と言ってきたために、三人一緒にいるというわけだ。
しかし、半ば無理を言って着いてきてしまったが、二人の泳ぎを違う視点で見れたのは、自分の泳ぎを改善することに繋がるくらいのいい収穫で、着いてきたのは正解だと思えてしまっていた。
それぐらい、二人の戦い、そして、二人の周りにいる人達の戦いは自分自身の泳ぎをちっぽけに感じるくらいに、怒涛の連続で同じ組みになりたくないとすら感じるほどに恐ろしい。
「私は、あの時に教えて欲しいと言ったのは間違いじゃなかった。凄く、ドキドキします。泳いでもいないのに、春香先輩と楓先輩の泳ぎは私の心を動かすんです」
武田佳織里は唐突にそう言葉を発した。
誰かに言った言葉ではなく、自分自身に言った言葉だ。
本気と本気のぶつかりあいがこれほどまでに興奮するのか、と思えるほどに舞い上がっている。
こうなりたい。いや、なるんだ。と思うのは、今日が始めてではない。
でも、再度実感できる。予選の泳ぎを見た時に宵宮夏美に対して言った言葉の熱量以上に今の自分は、目の前で起きた50m自由形の泳ぎをしたいと思えた。
その隣にいる桜坂花蓮と南条愛美は将来的にも50m自由形を泳ぐ予定はない。しかし、彼女達二人は誓い合っていることがある。
それは、共にフリーリレーメンバーに選ばれ、泳ぐこと。
フリーリレーは50m自由形を四人で泳ぐことであるために、この桜木春香と秋空楓の泳ぎを間近で見れたのは奇跡に近いんじゃないかと思えている。
武田佳織里に教えているために、「私達にも教えてください」ということはできない。でも、コツやどのような配分で泳いでいるのかは聞くことはできるだろう。二人して、言語化し教えるのは出来るかどうかはわからないが、もし、この泳ぎに近いようなことが出来れば、自分達の夢に近づくと前向きに考えた。
50m自由形決勝を皮切りに、次から次へと決勝のプログラムは進んでいく。
清流高校水泳部の部員達の一部が予選を突破し、決勝まで足を運んだ人は少なく、その先の関東大会にまで到達した人は片手で数えた方が速い。それでも、清流高校という強豪校でもない高校が行けただけでも、名誉なことなのかもしれない。
関東大会に行けると期待されていた、メドレーリレーだったが奮闘虚しく決勝で敗退となり、関東大会に進むことはできなかった。
正直に言えば、メンバーが田崎怜奈以外に速い人がおらず、一部の部員からは「無理なんじゃない」とまで思われていたが、本当に現実になってしまった。
メドレーリレーは、自由形つまりクロール以外の人選を探すのに苦労する種目であり、「クロールは泳げるけどそれ以外はちょっと…」っていう人も少なくない。
現にスイミングスクールなどの試験で、クロールが一番最初に設定されていて、そこまでは突破する人は多いが、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライとなってくると合格する人は減り、スイミングスクールを辞めてしまうなんてこともあるくらいだ。
だからこそ、泳げる人は喉から手が出るほどに欲しいのが本音。その中でも速い人ならもっと欲しいと思っている水泳部も多いことだろう。
クロールを泳げる選手はいくらでもいる一方で、泳法などが難しく、この先部員が入るかどかもわからない、清流高校水泳部のメドレーリレーの未来は少し暗いかもしれないことは確かだ。
こうして、県大会一日目が終了した。




