26話「桜木春香の50m自由形」
50m自由形の決勝は、桜木春香が三組目で秋空楓が四組目となっていて、どちらも四コースに選ばれている。
今回の県大会では九コースの完全に使用ではなく、人数によって八コースでの試合も行われていて、決勝では完全に八コースでの試合の流れとなっていた。
二人はベンチに座って、自分の組が呼ばれるのを待ちながら、呼吸を整え、緊張を和らげながら、お互いして桜木春香と秋空楓の存在を消して、自分のことだけに集中し始める。
そんな中、ベンチでは両者の両隣で、桜木春香と秋空楓を意識しているものがいた。
それは、三コースと五コースの選手だ。
桜木春香の三コースの選手は田村穂乃果で、五コースの選手は正源司絢音であり、秋空楓の三コースの選手は生田麻衣花で、五コースの選手は生駒沙友里であった。
全員してどちらの選手も、知り合いとかではなく、学校も同じではない。
この決勝という、上の大会に行ける切符の圏内には入っているため、別に手を抜いても行けるわけだが、全員がこう思っているわけだからだ。
「この組で一番速いやつを抜いて、この組みで一位となり、なおかつ全体順位でも一位となりたい」と。
別に桜木春香と秋空楓を抜いたところで一位になるかはわかないけど、端っこの八レーンにいる選手でさえも、組で一位を取ることと順位で上に行きたい気持ちは同じだった。
数分が経過し、桜木春香の組が呼ばれる時間となる。
『絶対に、四コースの女の子よりも前に出て一位取ってやるんだから』
『予選はいつもより少し遅い結果になっちゃったけど、決勝は勝つよ』
田村穂乃果と正源司絢音は心の中でそう思いながら、呼ばれるのを待つ。
「三組の皆さん、移動を開始してください」
二組の人達が泳ぎ始めたため、三組の人達は飛び込み台の後ろに一人用の椅子があり、そこに座る。
50m自由形の決着は速い。
ターンでの折り返しがなく、失敗しても取り返しがつかなく、今まで築き上げてきた泳法を全力でぶつける。
それが、50m自由形だ。
「ふう〜」
桜木春香は深呼吸をし、体調と気持ちを整える。
周りは見ない。どうせ見ても何も変わらないし、逆に見ることによって緊張して、飛び込みと泳ぎが失敗したら元も子もないからだ。
『もうそろそろ、呼ばれるな』
そう思ったのと同時に、放送が流れ始めた。
一コースから順番に三組の選手の紹介がされいく。学校と選手の名前が呼ばれたのと同時に、椅子から立ち上がり、一礼をして飛び込み台の前に立つ。
この一連の動作が大会においての基本だ。
「礼に始まり礼で終わる」なんて言葉がある。それは、柔道や剣道などのスポーツではよく聞く言葉だし、やるのが当たり前で、スポーツ観戦をしない人であっても耳にした人はいるだろう。
水泳でも同じことをする人はいる。名前が呼ばれた時の一礼と泳ぎ終わった後に一礼をすることだ。絶対ではないため、やらない人もいるが基本的にやる人が多い。
笛の音が鳴り響き、その音に合わせて選手達は飛び込み台の上に立ち、飛び込みの体勢を整える。
「Take your marks」
英語の「よーい」の掛け声が聞こえた時、会場は静かになり誰一人として会話をしていない。
誰も会場からいなくなったのではないかと錯覚してしまう。
電子音の笛の音が聞こえ、一コースから八コースまでの選手が一斉にスタートした。
『やば…少し出遅れた…』
四コースの桜木春香は両隣の選手よりもほんの少しだけ遅れて飛び込みをしてしまい、ほんの少しだけ遅れる形となる。
『緊張しないように気を遣ったつもりなんだけどな…やっぱり、していたのか』
そんなことを思いながら、気持ちを直ぐに切り替えた。
今の先頭は田村穂乃果で、追いかける形で正源司絢音がいて、その直ぐ後ろに桜木春香がいる。
桜木春香が一位を取れないほどの絶望的な状況下というとそうではない。
この三人の速さは拮抗していて、一瞬の判断ミス、疲れがあれば直ぐに抜かされる位置にいる。
先頭の田村穂乃果は一位になった時は「よし、一位。このまま行く」と考えていたが、彼女の中に疲れが滲み出てくるようになってしまっていた。
彼女の体に泳ぎ疲れがあるわけでもない、変な飛び込みをして体を痛めたわけでもない、なら何故と思う人が大勢いることだろう。
それは、ほんの直ぐ後ろの二人だ。
正源司絢音と桜木春香の圧が凄い。
観客席の一般の人とプールサイドで見ている部員、そして、他のコースで泳いでいる人間が感じ、引くくらいに醸し出していた。
『本当に嫌…一瞬でも気が抜けば、私は一位じゃなくなる…それは、断言できる。でも、もう半分だしここを乗り切れば私の勝ちよ』
そう考えてるくらいには気持ちを持ち直し、更に加速をするために力を使う。冷静な判断ができている、そう彼女は思いつつ、最後の15mでも最後の力を残すべく、力を温存する方向にシフトしていく。
一方、後方の正源司絢音と桜木春香の方は熾烈な争いを繰り広げていた。
『ああ、もう鬱陶しい!私とそこそこ距離離れていたはずなのに、もう近くにいるし、虫みたいに纏わりついてくる。先頭の人に集中したいのに、集中できない』
これはわざと桜木春香がやっていること。
わざと鬱陶しく迫り、集中力を削ぎ落とし、完全に集中力を失ったところで抜く。作戦といえば作戦かもしれないが、前を泳ぐ人間は常に後ろを警戒していなければいけないので、作戦とも言えないのかもしれない。
一番後ろを警戒して疲れるのが一位の人、次に前を抜かすことを考えながら後ろから抜かされないように警戒して疲れるのが二位の人、だからこそ、桜木春香は飛び込みに出遅れて良かったかもしれないと思った。
最初こそ、焦ったが一位を維持しながら泳ぐのはどれだけ神経を使うかを知っている。この位置で冷静な頭でいつ抜かすを考えた方が効率がいいし、疲れないと感じていた。
そして、冷静な頭の中で抜かすタイミングを組み立てる。
『うーん、前の二人が私のことを考えないで気が抜けるタイミングはどこだろう。私の体力には余裕がある。はっきり言えば、どこでもいけるけど…速さは拮抗しているし、無難に15m付近で仕掛けるか、抜かす余裕を与えないように…』
考えが纏まったのが早くて助かったような感じで、15mに近づいていく。
正源司絢音も抜かすチャンスを窺っていた。
『15は少し早いか?いやでもなぁ…よし!10mにしよう』
そう思った瞬間に横切るものがいた。桜木春香だ。
『ここで仕掛けるか…前のことも後ろのことも気にしなければいけない位置は辛いな』
予定を変更して慌てて仕掛けにいく。後ろの桜木春香に抜かされないように、先頭の田村穂乃果に食いつくことを意識しながら。
でも、急に予定外に速度を変えた分、桜木春香の方が優勢。それでも、泳ぎのミスはない。闘争心むき出しの狂犬のような彼女の速さについていけなかっただけだ。
抵抗虚しく、正源司絢音はここで三位に陥落していく。
『もっと早く仕掛けるんだったな…もう、予定変更。今の順位を死守する』
桜木春香はそのままの勢いで先頭の田村穂乃果を標的に定め、追跡する。
先頭を泳ぐ、田村穂乃果は後ろから迫る桜木春香の存在に気がついていない。
彼女は今、一位を死守すること、後ろからの圧で手がいっぱいで、体力的ではなく精神的に疲れ始めている。
そこにきて、もうすぐ終わるという安心が乗っかり、油断が溢れ出てきてしまった。
だから、後ろからくる猛獣のような狂犬の存在に気がつかないでいる。
『うぇ!嘘!もう、こんな位置にいる』
気がついた時には、遅い。後の祭りという言葉が相応しいほどに。
桜木春香はピッタリ横付けし、煽り運転をするのか如くくっつている。
泳ぎはあくまで丁寧に行いながら、がむしゃらに手と足を動かし、一位を取ることしか頭の中にないほど。それ以外のことなど、全て捨てた。
『初手で一位なんて取るんじゃなかった。こんなに精神的に疲れるならね!でも、あんたには抜かさせないよ!』
桜木春香は後数mの距離で、完全に前へ出ようとは考えていない。
『前へ出なくてもいい…先にタッチをすればいいんだからね!』
桜木春香は更に速度を上げる。
こんなところで負けてはいられない。こんなところで負ければ、秋空楓に顔向けできない、と思いながら手を掻き、バタ足で掻く。
徐々にだが、桜木春香が前に出始めているように見える。ほんの少しだが。
『私も負けられないのよ!』
負けじと残りの体力を全部使い、手で掻き、バタ足で掻いた。
そのまま二人は、ゴール。だが、二人が到着したのはほぼ同時。
二人はその感覚を理解していて、すぐにゴーグルを乱雑に取り、電光掲示板を見つめる。
するとー
「よし!」
水面を叩きつけながら、喜んでいる人物がいた。
死闘の末に、先にゴールしたのは桜木春香だ。
三組の結果は、一位桜木春香、二位田村穂乃果、三位正源司絢音で全員、関東大会出場という形になった。
こうして、桜木春香の50m自由形の決勝は終わり、次の舞台は秋空楓の50m自由形に移ることになる。




