24話「武田佳織里の県大会」
50m自由形が開始される頃、武田佳織里は応援席ではなく二階の通路を歩いていた。
本当ならば一年生は学校指定の応援席で応援に積極的に参加しなければいけないのはわかってはいるが、よく見える位置で50m自由形を泳ぐ選手を見たいがために場所を探して歩いているというわけだ。
間近で見える応援席の方が見えると思われがちだが、半分は不正解で半分は正解。間近で見ても確かに見えなくもないが、ちゃんと泳ぎを観察することには適していない。コースロープや他校の選手が重なったり、波が起きることによって見えづらくなるためだ。それは仕方のないことで横から見てるのだから当然と言えば当然か。
逆に上から見た場合はどうかと言えば、前にも大会を想定した時の練習でも少しだけ触れた話だが、全員の泳ぎの流れが見えるために少しでも水泳をやっている人間なら、どこで息継ぎをしスピードを加速したかがわかってくるために、上から見た方のが勉強になるというわけなので、武田佳織里のこの行動は正解だ。
ちょうどいい位置から見える場所を見つけ手摺に手を置きながら50m自由形が始まるのを待つ。本当は椅子に座りながら見たいがこれ以上贅沢なことは厳禁だし、いい位置で見れるだけ感謝したいと思った。
「あれ、佳織里ちゃんじゃん」
まだかまだかと始まるのを心待ちにしている時に、宵宮夏美が話しかけてきて隣には霜月真冬が一緒にいた。武田佳織里は桜木春香と秋空楓のことを見送った帰りなのだと二人を見ながら即座に気がつく。
「応援席に行かないの?」
「えっと…」
部活の誰かに見つかれば、そう言われるのは当然のようにわかっていた。
第三者が見れば、フラフラしててサボっていると勘違いされててもおかしくはない状況ではある。「理由を言えば納得してももらえるのだろうか?」と思いつつも、声をあげることができない。
その理由は自分自身でも気がついていた。怒られるのが怖いからだ。
少しの間、静かな時間が過ぎ去り霜月真冬が声をあげた。
「夏美、佳織里は上から見たいんだよ」
「上から?」
「そう。傍から見るのもいいけど上から見るのもいい勉強になるの。そうなんでしょ、佳織里」
「へぇ〜」
「ええ、はい」
「今度からはちゃんと言って。怒らないから大丈夫だよ。サボってる人の区別くらいわかるから」
「わかりました」
そう言われて安堵する。はっきり言えなかった自分が悪いが、否定されて怒られる方だと完全に思い込んでいたが、予想と反して二人は怒ったりはしなかった。
普通ならばこんな場所をウロウロしているなら、「応援席に戻って、応援しなさい。あなたは一年生なんだから」と言われても仕方がないと思ってもいる。
「どうして、怒らないんですか?」
「ん?どうしてって、言われても。水泳のことをちゃんと理解しようとしている人を怒るはずないでしょ。佳織里が努力しているのは知っているし、春香と楓のスパルタ教育にも耐えてるんだから、サボるわけないと思っているしね」
「素直に信頼してるって言ったら?」
「うるさい!」
そう顔を赤らめながら犬の様に吠えながら言うのと同時に50m自由形が開始された。
霜月真冬と宵宮夏美が横に立ちながら観戦するのを気にしないで、50m自由形を泳いでいる選手達に釘付けになりながら、男子女子関係なく見て「自分自身の泳ぎに組み込めないのか?」と必死になりながら、気がついたことがあればメモ帳に書き込んでいく。
武田佳織里は桜木春香と秋空楓からの指導を受けているのはご存知の通りかと思うが、主に二人は「クロールの泳ぎの改善」「飛び込み」「ドルフィンキック」の三点に絞って練習を教えている。
初心者であるために最初から手取り足取り教えるのは苦労するかと思えばそうでもなかった。それは、泳ぎのことに関して何も知らないからこそ感じることで、簡単に教えてできる様になっているわけでは決してない。
ただ、経験者と初心者の正しい泳ぎを教える際にほんの些細な違いなだけだ。
それは、経験者は一度体に染みついた泳ぎを矯正すること、初心者はまっさらな状態なところに正しい泳ぎを体に染みつける、この違いなだけだがかなり教えることにかかる時間も違うと言える。
経験者の方が一度体に染み付いた泳ぎを正しい泳ぎに直さないといけないが、それが難しいこと。手癖で泳いでしまうのが普通で簡単には治せないからこそ、人の根気が必要といえる。
一方の初心者は、体に泳ぎが染み付いていないので正しい泳ぎをストレートに手癖として覚えさせることができるため、難しい道のりではないが、かといって簡単でもない。
どちらにも言えることはただ一つ、泳いでいる人のやる気次第だ。
武田佳織里はプールで行われている泳ぎを目で泳ぎながら、桜木春香と秋空楓の県大会前の会話を思い出す。
「佳織里、県大会で他の人の泳ぎを色んなところから観察して見た方がいいよ」
「観察ですか?」
それはとある練習の終わりの時、いつものように軽く二人からの指導を受けた後の話だった。
唐突に桜木春香がそう口を開いたので驚いてしまってはいるが、いつもならここで今日のダメなところや改善すべきところを話すところだから、急に県大会の話を振られて困惑してしまう。
「そう。今でも、色んな人のクロールの泳ぎを間近で見ているとは思うけど、大会だと私と楓以上に速い人も沢山いるからさ。色んな角度から見て、泳ぎの仕方を盗んで自分の泳ぎにした方がいいんだよ」
「私も色んな人に教わって…見て覚えて自分の泳ぎにした…だから、ちゃんと見た方がいい…応援とかは後回しでいいよ」
本来ならここで先輩として言うことは「応援をちゃんとしなさい」だと思うが、しなかった。それは、応援をしたところで自分自身が速くなるわけじゃない、これは空想の夢物語ではないからだ。
だったら、初心者で将来的に大会に出場を目指している武田佳織里には、応援なんかよりもやらなけれないけないことを言ったまでで、県大会での行動を矯正したわけでは決してない。
「後は、佳織里が自分で決めることだよ。私達は言うことしかできないからさ…」
「はい。ありがとうございます」
そう桜木春香に真っ直ぐな瞳で見つめられ、内心怖がりながらも見つめ返して答える。
だからこそ、色んな人の泳ぎを二階から見ることにしたのだが、これは正解だったと武田佳織里は感じた。
今、武田佳織里がもっとも苦手と感じているのがドルフィンキックで、その次に飛び込みだったわけだが、二階から見ているとドルフィンキックをどう動かし、どのタイミングで浮上しているのが見てとれる。
『上からはドルフィンキックがどう動かしているのがよく見える。人によって、動かし方は様々だし、上手い下手もあるけれど、先輩のアドバイス通りに角度を変えて見ると見える世界は違うんだ。上からはドルフィンキックはよく見えるけど、飛び込みがよく見えないから今度は下に行こう。でも、桜木先輩と秋空先輩の泳ぎを見たい』
間近で、毎日二人の泳ぎを見てきたが、あれは軽く泳いでいるだけで本気で泳いでいるわけではないだろうと武田佳織里は薄々勘付いていた。
だからこそ、本気で泳ぐ姿が待ち遠しく感じるし、心が躍り出すそうなそんな感覚に囚われている。
そんなかで最初に泳いだのは桜木春香だ。
桜木春香の泳ぎは丁寧というよりは豪快や力強いという言葉の方が適切かもしれない。普段から元気があり、周りに気配りができる彼女からは想像ができる泳ぎであったが、50m自由形とは決着がすぐにつくため、他の距離が長い自由形よりも波が荒いし、力強い泳ぎをする人が多い。
それでも、ただ力任せに泳いではだめだ。焦ってもだめ。短い距離で後から巻き返せない距離だからこそ、冷静な頭で考えて一つ一つの動作を間違いないように丁寧にやらなければいけない。言葉にすれば簡単だが、飛び込み台に立ち、笛の音と共に始まるこの大会において緊張で頭が真っ白になるなんてことは、何回も大会に参加している人でさえも陥ること。
大会での一番考えなきゃいけないのはメンタルかもしてないと思わせるほどに、飛び込み台に立つと緊張でどうにかなってしまいそうになる。それは誰もが、経験したことだろう。別にそれが、水泳でなくてもスポーツでなくてもいい。本気で何かに打ち込み、結果を残すことを望んでいる人にとって一度は通る道だから。
数組後に秋空楓の番がきた。
秋空楓の泳ぎは桜木春香とは真逆で丁寧という言葉が相応しい泳ぎだ。飛び込みからドルフィンキックまで水飛沫が上がらず、波もあまりたたない。誰もが真似したくなるお手本のような仕草に思わず隣にいた宵宮夏美が「綺麗だな」と独り言を呟いてしまうほどに。
だからといって、桜木春香の泳ぎがダメというわけで決してない。荒々しく見えているだけで、実際に泳ぎをちゃんと目で追っているとミスもなく丁寧な泳ぎを続けている。簡単に言ってしまえば、人それぞれに力加減もあり癖もあるために、そう見えているだけにすぎないのだ。
武田佳織里は二人の泳ぎに目を輝かせて見つめている。彼女が目指している泳ぎがそこにあるからだ。だが、その道のりは先が遠すぎて見えないほどに長い。理想が高すぎるといえば確かにそうかもしれないが、いつの日かあんな風に泳いで見たいと思えば思うほどに「頑張ろう」と前向きになるから苦ではなかった。
壁にぶつからないわけではない。武田佳織里は毎日壁にぶつかりまくっている。そんなところを、桜木春香や秋空楓、いつも仲良くしてくれている桜坂花蓮と南條愛美、他の水泳部メンバー達、そして、吉岡理恵が助けてくれて、壁を壊したり飛び越えたりすることができているだけだ。
「ああ、なりたい…」
無意識のうちに心の声が口から出てしまう。
「本当にこうなりたいって思うのにできないのが悔しいよね」
すると、隣にいる宵宮夏美がそう呟いた。
やはり、仲良くしている他の三人は大会に出場していて一人だけ出れていないのは悔しいのだろうと武田佳織里は思ったが口には出さない。どれだけ、気にしてないような顔をしても、言葉で言っても、最終的にはこうして目の当たりにすると本音が簡単に出てきてしまう。
「私はただ言葉として言うのではなくて、絶対に大会に参加するためにやれることは全部やります」
「そっか…そうだよね。私だって、大会に出たい」
本音と本音がぶつかりあう。来年でもお互いして、50m自由形を選択するだろうことはわかりきっているからこそ、「負けたくない」と心の底からひしひしと煮えたぎってくるのはきっと、先輩だからとか後輩だからというわけでない。
お互いして認めあい、俗にいうライバルだと感じているからだ。
「もうそろそろ、下に行くよ」
二人して喋っている間に割り込んできたのは霜月真冬だった。
ずっと話をかけるタイミングを伺っていただけで、ここにいるのがつまらないわけでは決してない。ただ、話に割り込んではいけないなと思っていたからで、二人は大会出場していない組で、霜月真冬は大会出場している組だからだ。
話に入ることを許されるわけがないから黙って聞いたわけだけど、宵宮夏実と武田佳織里の想いは充分に伝わってきた。
「それもそうだね。春香と楓のことを迎えないと。じゃ、私達は先に行くね」
「はい」
そう呟いて、50m自由形が終わるまで見続け、自分自身の泳ぎに反映できないか考える時間はあっとゆうまに過ぎていってしまっていた。
「私さ、選手コースやろうと思ってるんだよね」
武田佳織里に声が聞こえない距離まで離れた後、唐突に宵宮夏実は霜月真冬に宣言した。その宣言に驚き、呆気にとられ、足が止まってしまうほどに。
「なんで今更?」
数歩前を歩く宵宮夏実に対して、そう質問する。
「いやだって、やるにしては遅すぎる」「今更やっても大会には出られないかもよ」とは口が裂けても言えない。心の底奥深くに押しとどめ、でっかかった気持ちに蓋をした。
「真冬が言いたいことはわかってる。でも、佳織里ちゃんを見てるとさ。本気になりきれていない自分が恥ずかしくなってくるんだよ」
そう悲しそうな、今にでも泣いてしまいそうな顔でそう言いながら話を続ける。
「初心者なのにさ…あんなに本気で…水泳に対して真面目に向き合ってて…ただ、「大会に出たい」って言葉を並べているだけの自分が嫌いになったんだよ」
「夏美…」
霜月真冬の目から見ても武田佳織里は遅い。目の前にいる宵宮夏美よりもだ。それなのに、諦めずにコツコツと出来ることから取り組んで、秋空楓と桜木春香に教えてもらう話までして、大会に出るために本気でやっている。その行いは、尊敬してしまう。
逆に宵宮夏美は言われた練習をしているだけ、はっきり一言言わせてもらえばそれで終わってしまう。武田佳織里のように誰かに教えを乞うこともしていない。
宵宮夏美は大会に出たいとは言いつつ、本心では内心ではこう思っている。
「どうせ、やっても出れない」と。
だからこそ、その心にある負の気持ちを打ち破って前に進みたい。隣にいた、武田佳織里を見ているとますます感じたことだ。
「私だって…いつまでも、このままではいられないからね」
そのまま歩いていく。
だけど、霜月真冬は歩くことができなかった。
いつも仲良くして、隣にいながらも気持ちにも気づいてあげられず、宵宮夏美のことを気にかけることができなかったことが悔しくて、悔しくて、歩くことができない。
「あんたが前へ進むなら、私が背中を押してあげる」
練習を見てあげよう。アドバイスをしてあげよう。なんでもいいから、宵宮夏美のことを助けてあげよう。そう思いながら後を追った。




