第3話 人間椅子の告白
爆音のような闇が去り、静寂が館を包み込む。博人は倒れ込みながら、床に落ちたノートを拾い上げた。
黄ばんだ大学ノートの表紙には『RANPO SICK』の文字。ページをめくると、十五年前に博人自身が書き殴った文字で、これまでの事件――真鍮の仮面、鏡の中の死体――が寸分違わず描写されていた。
そして、次のページには血のような赤いインクでこう記されていた。
『第三幕:革張りの安楽椅子。彼女の温もりは、その縫い目の内側に消える』
「冴子さん……!」
博人はノートを懐にねじ込み、無我夢中で夜の街へ飛び出した。
向かったのは、ノートの余白に住所が書き込まれていた浅草の廃家具工房。乱歩の『人間椅子』を彷彿とさせる、古びた革の匂いと木屑が充満する暗がりだ。
工房の奥、スポットライトのような月光が差し込む場所に、ぽつんと置かれた大型のアームチェア。巨大な肘掛け椅子は、まるで満腹になった獣のように重々しく鎮座していた。その革の縫い目は、真新しい赤い糸で不格好に閉じ合わされている。
「うそだろ……」
博人は震える手でポケットからナイフを取り出し、椅子の縫い目に刃を突き立てた。
ぷつり、と糸が切れる音。破れ目から溢れ出してきたのは、綿でも羽毛でもなく――暖かな人間の吐息と、かすかな鼓動の振動だった。
「冴子さん! 今、助ける!」
夢中で革を切り裂き、中に閉じ込められていた冴子を抱き起こす。彼女は浅い呼吸を繰り返しながら、うわごとのように博人の服を掴んだ。
「逃げて……博人さん……あいつは、あなたの記憶の底にいる……」
「あいつ……あの黒衣の男は何者なんだ!?」
冴子は虚ろな目を博人に向け、震える唇を開いた。
「『パノラマ島』の読者会で……十五年前、あなたが殺したのよ。あなたの影を……あなたの双子の兄を」
衝撃の言葉が脳裏を殴りつける。双子? 兄?
忘れ去られていた記憶のフタが、不快な音を立てて開き始めた。
「そうだ、博人」
頭上、工房の二階キャットウォークから、聞き覚えのある声が降りてきた。
闇の中から姿を現した黒衣の男は、愛おしそうに手すりを撫でながら下を見下ろしている。
「君は自分の狂気を直視できず、僕を殺して井戸に捨てた。そして『自分はただのライターだ』と自分自身に催眠をかけ、平穏な日常に逃げ込んだんだ」
黒衣の男――兄の「博文」は、ニヤリと口元を歪めた。
「だが、君が書き残した『RANPO SICK』の原稿が、僕を地獄から呼び戻した。殺害リレーは終わらない。君が完結させない限りね」
博文が手を鳴らすと、工房の奥からガタリと音がした。
薄暗がりの棚から滑り出てきたのは、乱歩の『押し絵と旅する男』を思わせる、巨大な額縁。そこに飾られていたのは、失踪したはずの博人の元妻の姿だった。
「さあ、博人。次の原稿執筆を始めようか」
博人の頭痛が激しさを増し、視界がぐにゃりと歪んでいく。目の前にいる黒衣の男は本物の復讐者なのか、それとも、自分自身の脳が作り出した究極の妄想なのか。現実と狂気の境界線は、完全に消え去ろうとしていた。




