第2話 鏡の底の幻影
事件現場となった世田谷の邸宅は、かつて昭和初期に建てられた洋館だった。博人は警察の目を盗み、ライター時代のツケで手に入れた警察無線の情報を頼りに現場へ侵入する。
サロンの中央に据えられた巨大な姿鏡。そのガラスの奥には、まるで最初からそこに飾られていた絵画のように、全身を硬直させた男の遺体が封じ込められていた。ガラス表面には傷一つない。乱歩の『鏡地獄』を思わせる、あまりに美しく狂気的な死景だった。
「狂気の芸術家気取りですか……?」
背後から掛けられた声に振り向くと、そこには漆黒のドレスに身を包んだ女が立っていた。博人に依頼書と札束を送ってきた謎の女――霧島冴子だった。
「彼は私の夫でした。そして、あなたの『最初の読者』でもあった人です」
冴子の言葉に博人は耳を疑う。「最初の読者」――それは十五年前、博人が大学の文芸誌に一度だけ投稿し、事件を起こして封印した未発表小説の読者を意味していた。
「何を言っているんだ。俺はそんな小説、誰にも読ませていない」
「いいえ。あなたは忘れているだけ。あの時、あなたを中心とした小さな読書会『パノラマ島』で何が起きたのかを」
冴子が差し出した古いスマートフォンには、十五年前の動画が残されていた。画面の中で、若き日の博人と数人の男女が笑い合っている。しかし、その映像の端には、絶対に存在するはずのない人物が映り込んでいた。頭から足先まで黒衣を纏い、博人とまったく同じ顔をした男――。
「あの男は、あなたの妄想の産物ではありません」冴子は博人の胸元に冷たい指先を押し当てた。「あなたの過去そのものです。彼らが動き出したのは、あなたの中の『乱歩』が目覚めたから」
その時、洋館の二階から重厚なオルガンの音色が響き渡った。曲目は、乱歩が好んだ怪奇な旋律。
博人が階段を駆け上がると、暗がりの中で黒衣の男が鍵盤を叩いていた。男は弾きながら、博人に向かって首だけをゆっくりと捻る。
「思い出してきたかい、博人? 密室の作り方も、人間の殺し方も、すべて君が十五年前にノートに書き殴ったトリック通りだ」
「やめろ……! 俺はそんなこと書いていない!」
「書いたさ。君の深い闇が、僕というペンを使ってね。さあ、次は『人間椅子』だ。君が愛する誰かが、家具の中に縫い込まれる番だ」
黒衣の男が鍵盤を強く叩きつけると、館内の照明が一斉に弾け飛んだ。闇の中で冴子の悲鳴が響き、博人が駆け寄った時には、彼女の姿は消えていた。残されていたのは、床に打ち捨てられた一冊のノート。そこには、博人の筆跡で、これから起きる惨劇のシナリオが克明に記されていた。




