第1話 影法師の招待状
三月終わりの湿った夜だった。神保町の古書店街を抜けた雑居ビル三階。田口博人(35歳)の事務所兼自宅のドアポストに、薄青い封筒が滑り込んだのは、ちょうど午前零時を知らせる鐘が遠くで鳴り響いたときだった。
フリーライターとは名ばかりで、ここ数年はゴシップ記事の穴埋めと怪奇系Webメディアの代筆で食いつないでいる。そんな博人の心を支えていたのは、棚一面を埋め尽くす江戸川乱歩の初版本と、いつか自分もあの濃密なエロスと怪奇の世界を綴り上げたいという、腐りかけた野心だけだった。
封筒の中にあったのは、便箋一枚と分厚い札束、そして一枚の白黒写真。
便箋には、万年筆のインクが滲む端正な文字でこう書かれていた。
『私の愛した男を殺した犯人を、追ってください。あなたはもう、物語の舞台に立っています』
写真は、古びた洋館の密室で胸を撃ち抜かれた男の死体だった。その顔を見て、博人は息を呑む。男の顔の真ん中には、まるで嘲笑うかのような大きな真鍮製の「仮面」が打ち付けられていた。乱歩の『悪魔の紋章』を完璧に模倣した手口。
「いたずらにしては、金が本物すぎるな」
札束の帯を撫でながら呟いたその時、背後の闇から声が降りてきた。
「いたずらなどではないよ、博人」
跳ね起きるように振り返った博人の視線は、部屋の隅の闇に縫い付けられた。
そこに立っていたのは、頭から足先まで漆黒のモッズコートに身を包んだ男。ゆっくりとフードを外した男の顔を見て、博人は己の目を疑った。
そこにいたのは、自分だった。
鏡を見ているのではない。肌の質感も、左の眉の上にある小さな傷跡も、すべて博人そのもの。だが、その瞳だけが違っていた。吸い込まれそうなほど深く、底知れない狂気を孕んだ漆黒。
「お前……誰だ……!?」
「僕は君の『影』であり、君が諦めた理想の執筆者さ」
黒衣の男は薄く笑うと、乱歩の『屋根裏の散歩者』のように足音もなく天井の梁へと跳び上がった。
「開幕だ、博人。君が忘れ去った十五年前のあの日から、このグランド・ギニョールは始まっていたんだよ」
男が姿を消すと同時に、街中に救急車のサイレンが鳴り響いた。
ラジオから流れてきたニュースは、世田谷の邸宅で発見された奇妙な遺体の報。姿なき犯人によって、人間がそのまま「姿鏡」の内部に塗り込められていたという。
現実の皮膚がベリベリと剥がれ落ち、妄想の肉が露わになっていく。博人は震える手で乱歩の全集を抱きしめた。自分が追っているのは怪奇殺人犯なのか、それとも、壊れゆく自分自身の正気なのか。
暗闇の向こうで、謎の女の冷たい微笑みと、黒衣の男の嘲笑が交錯していた。




