第八話 国防総省長官室
国防総省長官室で、ルクレツィアはマギスレートの予定表に目を走らせていた。
レティシアの報告はすでに頭の中で整理されている。両家の祖父母からは、卒業まで干渉しないという言質を取った。残るのは本人の意思だけ。だが、その本人が正規の手順を経ない編入に、まだ踏み切れずにいるという。
ならば、こちらから動けばいい。
国防総省長官が直々に面談する。それ以上の後ろ盾はこの国に存在しない。あの少女がどんな誠実さで迷っていようと、その迷いごと上から押さえてやればいい。
それに——一度、自分の目で見ておきたかった。あの戦闘記録の少女が、どういう人間なのか。
予定表を確認する。統括AIアストレイアに事務を任せるようになってから、分刻みの拘束からは多少解放された。それでも、向こう数日は予定で埋まっている。
2日後の昼の予定をひとつ消した。
それだけで面談の枠が空いた。
ルクレツィアはマギスレートを置き、窓の外へ視線を向けた。帝都エリシオンの街並みが、昼の光の中に広がっている。
この予定を潰す価値はある。そう判断していた。
◇
テロ事件のあと、エリシオン帝立学院は通常通りに再開していた。
校舎は何事もなかったように授業を続け、生徒たちもおおむねいつも通りに過ごしている。変わったといえば、正門と裏門に常駐する騎士の数が増えたことくらいだ。それも、数日もすれば誰の目にも馴染んでいた。
綾目はいつも通り登校していた。
授業を受け、ノートを取り、淡々と一日を過ごす。表向きは何も変わっていない。だが、その内側でひとつの問いが、ずっと宙吊りになっていた。
騎士学校への編入。
即答すれば夢が叶う。両親のような騎士になる道が目の前に開かれている。手を伸ばせば、届く。
なのに、その手が伸びなかった。
試験を受けて落ちた者がいる。自分はその試験すら受けていない。書類選考で魔力クラスを理由に弾かれた。なのに、特別選抜科に試験なしで入る。それは、横入りではないのか。
答えは出なかった。
その夜、綾目は刀の手入れをしていた。
父の形見の刀だ。鞘から抜き、刃に打ち粉を当て、丁寧に拭っていく。錆びさせないため、劣化させないため。それだけの作業だった。だが、この刀を手にしている時だけは、心が静かになる。
かつては、父がこの刀を振るっていた。幼い綾目に構えを教えてくれたのも、この刀の持ち主だった。今はもうその手の感触も、声も、薄れかけている。残っているのは、この一振りと、毎朝の素振りに刻まれた軌道の記憶だけだ。
刃に自分の目が映っていた。切れ長の、無表情な目。
(父さんなら、どうしただろう。母さんなら)
答えは返ってこない。二人とも、もういない。それでも、こうして刀と向き合っていると、問いの輪郭だけは少しずつはっきりしてくる気がした。
マギスレートが震えた。
レティシアからのメッセージだった。
「2日後、騎士学校への編入に向けてお偉いさんとの面談を設定したよ。その面談を受けてから決めてほしい。場所と時間は追って連絡するね」
(お偉いさん)
綾目は刀を鞘に納めた。
特務騎士局の関係者だろうか。編入の件を扱える立場の人間。それなら、話を聞く価値はある。
綾目は短く返信した。
「分かりました。よろしくお願いします」
◇
面談の朝。
綾目はエリシオン帝立学院の制服に袖を通した。
先日、レティシアに買ってもらった白いワンピースもある。だが、これは正式な面談の場だ。学生にとっての正装は制服だろう。そう考えて、迷わず制服を選んだ。
約束の時間に、インターホンが鳴った。
迎えに来たレティシアの背後に車が停まっている。それを見て、綾目は一瞬足を止めた。
いかつい軍用車両だった。装甲を思わせる無骨な車体。とても女子学生を送迎する車には見えない。
「ごめんね、今日これしか空いてなくて」
レティシアが苦笑しながら言った。明るく品のある服装の彼女と、その隣の無骨な軍用車。釣り合いの取れない組み合わせだった。
「いえ。問題ありません」
綾目は助手席に乗り込んだ。
車が走り出す。窓の外を帝都の街並みが流れていく。しばらく眺めていた綾目は、ふと違和感に気づいた。
風景の方向がおかしい。
「……騎士学校はこの方向ではないですよね」
レティシアが前を向いたまま笑った。
「そうだね。今日の面談は私たちの直接の上司とだから」
綾目の頭の中で思考が動いた。
(特務騎士局の直接の上司。局長か、副局長か)
だが、すぐに打ち消す。
(いや。その二人には、もう会っている。アンディール局長と、アルス副局長。「直接の上司」が二人を指すなら、こんな言い方はしない)
では、その上。特務騎士局が所属するのは——国防総省。
(その、直接の上。ということは……)
車が、速度を落とした。やがて、大きな建物の前で停まる。
窓越しに見上げたその建物に、綾目の予想は確信に変わった。
◇
国防総省の廊下は重厚だった。
磨き上げられた石の床。高い天井。すれ違う人間は誰もが軍服をまとい、足取りに無駄がない。建物そのものが帝国の権力の中枢であることを、空気で語っていた。
綾目はレティシアの半歩後ろを歩いていた。表情には出さない。だが、内心では緊張が背骨を伝っていた。
ひとつの扉の前で、レティシアが足を止めた。
重厚な両開きの扉。その前に立っただけで、空気の密度が変わったように感じる。
レティシアが綾目に顔を寄せ、小声で言った。
「圧が凄いけど——緊張しないで、頑張ってね」
綾目は、小さく頷いた。
(なぜ、私のような短命種の子供に、国防総省長官が直接会うのか)
その疑問は消えなかった。テロを止めた功績。それだけで、国のトップが直々に会うものだろうか。何か、別の理由があるのではないか。
答えの出ないまま、扉が開かれた。
◇
広い部屋だった。
壁際に書棚が並び、重厚な調度品が配されている。正面の大きな窓からは、帝都エリシオンの街並みが一望できた。
その窓を背にした机に、一人の女が座っていた。
銀色の長い髪。赤い瞳。気品のある顔立ちは、二十代の後半に見える。だが、その佇まいには外見の年齢とは別の重さがあった。気品と威圧感が、同じ場所に同居している。見た瞬間に、格が違うと分かる存在だった。
そして——部屋にはもう一人いた。
壁際に一人の少女が静かに控えていた。
淡い色合いの銀髪。繊細な顔立ち。小柄で華奢な体つき。綾目と同じ年頃に見える。だが、その表情には何も浮かんでいなかった。喜びも、緊張も、警戒も。まるで、精巧に作られた人形のように、ただ静かに立っている。
何を考えているのか、まるで読めなかった。
レティシアがその少女に向かって軽く手を振った。
少女は小さく会釈を返した。それだけだった。
(二人は知り合いのようだ)
綾目は内心でそう思った。
(あの子は何者だろう)
机の向こうの女が口を開いた。
「よく来た。座ってくれ」
静かな声だった。感情の起伏をまるで感じさせない。それでいて、有無を言わせぬ響きがあった。
「始めまして、比良坂綾目。私はルクレツィア・ヴァレンシュタイン。国防総省長官だ」
◇
綾目は勧められた椅子に座った。
ルクレツィアは手元の書類に視線を落とした。
「エリシオン帝立学院の入試の点数を確認した。学力については帝立アーマリア騎士学校の入学基準を十分に満たしている」
淡々とした口調だった。事実を読み上げるだけの声。
「実技については——先日の件が何よりの証明となる。魔力クラスを除いた評価では、入学ラインに何の問題もない」
綾目は黙って聞いていた。
評価されている。その実感より先に、胸の奥であの問いが、また頭をもたげた。言うべきか。言わずに流されるべきか。
迷いは、一瞬だった。
この人の前で口にしないまま頷くのは誠実ではない。そう思った。
「……一つ、よろしいでしょうか」
「言ってみろ」
「私は騎士学校の入試を書類選考の段階で落とされています。魔力クラスD−を理由に、試験を受けることすら許されませんでした」
綾目はまっすぐにルクレツィアを見た。
「正面から試験を受けて、それでも落ちた人たちがいます。その中で、試験を受けていない私が特別選抜科に編入する。それが——横入りにならないのか。そこに、迷いがあります」
言い終えて、綾目は、ルクレツィアの反応を待った。
ルクレツィアは表情を変えなかった。まるでその問いが来ることを、最初から知っていたかのようだった。
静かに答えた。
「正規の入試は魔力クラスという、一つの物差しで人を測る」
赤い瞳が綾目を捉えていた。
「その物差しは——キミを測れなかった。それだけのことだ」
綾目の目が、わずかに動いた。
「キミは先日、その物差しでは測れない力で学院の全員を守った。死者はゼロだ。帝国はそれを評価する。これは横入りではない。別の道から正当に評価された。ただ、それだけの話だ」
言葉が綾目の中に、落ちていった。
感情的な慰めではなかった。同情でもなかった。ただ、冷たいほどに筋の通った、論理だった。
試験という物差しが、自分を測れなかった。だから、別の物差しで測られた。それは、ずるをしたわけではない。逃げたわけでもない。
胸の奥でわだかまっていた「横入り」という感覚が、その論理に、静かに上書きされていく。国防総省長官がそう言うのだ。これ以上の言葉はどこにもない。
綾目は少し間を置いて頷いた。
「……分かりました」
「では、決まりだ」
ルクレツィアは、書類を閉じた。
「編入手続きはこちらで済ませておく」
どうする、とは聞かれなかった。葛藤に正面から答えた上で、当然の帰結のように話は進められた。それでいて、綾目の中には押し付けられたという感覚がなかった。自分で納得して決めた。そう感じられる言い方だった。
◇
「それと——」
ルクレツィアが壁際の少女に視線を向けた。
「帝立アーマリア騎士学校に編入したあと、困ったことがあれば彼女を頼るといい」
少女がわずかにこちらを向いた。
「ソフィア・ネーゲルシュタイン。同じ特別選抜科のクラスになる。——キミの魔眼の件も承知している」
綾目は、ソフィアと呼ばれた少女を見た。
ソフィアも、綾目を見返した。
感情のない静かな視線だった。値踏みするでも、警戒するでもない。ただ、そこに視線を向けている、という以上のものが読み取れなかった。
お互い何も言わなかった。
(魔眼の件を承知している。——つまり、この子も知っている)
綾目は内心で考えた。
(同じ特別選抜科。何者なんだろう)
レティシアが二人を見ていた。その目に、ほんの一瞬柔らかいものがよぎる。
(ソフィアちゃんと、綾目ちゃん。うまく友達になってくれるといいけど……)
報告書には書かなかった計画が、静かに動き始めていた。
◇
「話は以上だ」
ルクレツィアの言葉で面談は終わった。
綾目、レティシアが退出しようと立ち上がる。
その時、ルクレツィアも席を立った。
机を回り込み、綾目の前に歩み寄る。綾目より頭ひとつ分、背が高い。間近で見ると、その美しさはいっそう際立った。
ルクレツィアが手を伸ばした。
そっと綾目の頬に手を当てる。
冷たい手だった。
綾目は、動けなかった。
赤い瞳がすぐ目の前にあった。深く美しい瞳だ。綺麗な人だ、と素直に思う。だが次の瞬間、綾目は心臓を直接掴まれたような冷たさに襲われた。敵意でも悪意でもない。得体の知れない冷たさだった。
その瞳がわずかに圧を増した。
目に見えるものではない。だが確かに、視線の奥から、押し潰すような何かが伸びてきた。試すような、底の知れない圧。
綾目は、目をそらさなかった。怯えもせず、まっすぐに見返した。
ルクレツィアの目の奥で、何かがわずかに動いた。
ルクレツィアが口を開いた。
「期待している」
それだけだった。
手が頬から離れた。
綾目は何も言えなかった。ただ、小さく頭を下げ、レティシアとソフィアに続いて部屋を出た。
扉が閉まった。
◇
長官室に静寂が戻った。
ルクレツィアは、また窓の方へ向き直った。帝都エリシオンの街並みが、昼の光の中に広がっている。その遥か向こう——封じられた、あの穴の方角を、見ているのかもしれなかった。
やがて、口の端がゆっくりと上がっていった。
「……期待通りだ」
静かに、しかし、確かな重さを持って呟いた。
最後に少しだけ圧をかけた。あの年頃の子供どころか、歴戦の騎士であってもまともに受ければ目を伏せる程度のものを。だが、あの少女は——目をそらさなかった。怯えもせず、まっすぐに見返してきた。
戦闘記録で見た胆力は本物だった。あの場限りの火事場のものではない。芯から据わっている。誠実で、まっすぐで、まだ何も知らない。それでいて、容易には折れない。
「さて——私も、動くとするか」
その言葉が、誰に向けられたものなのかは誰も知らない。
ルクレツィアは窓の外を見つめたまま、しばらく動かなかった。




