第九話 鉄板焼きと騎士学校の話
長官室の扉が閉まると、廊下の空気は嘘のように軽くなった。
綾目はほんの少し、肩の力が抜けるのを感じた。あの部屋にいた間、自分でも気づかないうちに全身が強張っていたらしい。
レティシアが伸びをしながら振り返った。
「お疲れさま。緊張したでしょ」
「……少し」
「だよね。あの人の前は私でも未だに背筋が伸びるもん」
レティシアは笑って、それから思いついたように手を打った。
「そうだ。せっかくだし、お昼食べて行こうよ。ソフィアちゃんも一緒にさ」
ソフィアが綾目を見た。
淡い銀髪の少女の顔には、相変わらず何も浮かんでいない。賛成とも反対ともつかない、静かな視線だった。
綾目もソフィアを見返した。
よく分からない子だ、と思った。何を考えているのか、表情からは何も読み取れない。だが、特に断る理由もない。それに——この子は自分が編入する騎士学校の、現役の生徒だ。話を聞いておくのは悪くない。
二人はどちらからともなく小さく頷いた。
レティシアはすでにマギスレートを耳に当てていた。
「あ、大将? 久しぶり。今から3人、行けるかな。うん、3人。——OK? じゃあ、よろしくね」
短い通話を終えて、レティシアが歩き出す。
綾目はその背中を見ながら歩いた。
(身内以外の大人と出かけることなんて、ほとんどなかった)
先日のレティシアとの買い物もそうだった。店を選び、段取りを組み、さっと電話一本で席を取る。当たり前のように見えるその手際が、綾目にはまだできない。
(大人ってすごいな)
素直にそう思った。
◇
店は帝都の繁華街の一角にあった。
外から見ても、繁盛しているのが分かった。窓の向こうに、満席の気配。鉄板の上で何かが焼ける、香ばしい匂いが入り口まで漂ってくる。
暖簾をくぐると恰幅のいい店主が顔を上げた。
「おう、レティシアさん。お待ちしておりました」
「大将、急にごめんね」
「なんの。奥、空けときましたよ」
慣れたやり取りだった。3人は奥の個室に通された。
座敷の中央に大きな鉄板が据えられている。その向こうに、調味料や道具が並んでいた。綾目はこういう店に来たことがなかった。目の前で料理をする店があるということ自体、知識としては知っていても実際に座るのは初めてだった。
メニューを渡された。綾目はそれを開いて、すぐに困った。
品数が多い。何が定番で、何が美味しいのか、判断する材料がない。
「……何が、オススメですか」
綾目がレティシアに尋ねた。
「お任せします」
ソフィアも、淡々と言った。メニューを開きもしていない。
レティシアが嬉しそうに笑った。
「じゃ、任せて。大将、お好み焼き3つ、定番と海鮮と肉。あと海鮮の盛り合わせと、上の肉の盛り合わせ。野菜焼きも」
「あいよ」
注文を終えて、レティシアが綾目を見た。
「鉄板焼き、初めて?」
「はい」
「じゃ、楽しんでってね」
綾目は、内心で頷いた。
(こういう店では、何を頼むべきかも、何が美味しいのかも分からない。任せて、正解だった)
◇
まず、お好み焼きの生地が運ばれてきた。ボウルに入った具材入りの生地が3つ。
「お好み焼きはね、自分で焼くの」
レティシアが言った。
「やってみて」
最初に、レティシア自身が手本を見せた。
ボウルの生地を鉄板に流し、ヘラで手早く形を整える。慣れた手つきだった。綺麗な円になっていく。しばらく焼いて、ヘラを二本使い、ためらいなくぱっと返した。崩れない。見事な裏返しだった。
「こういうのはね、気持ちが大事なんだよ」
「気持ち、ですか」
「うん。美味しくなれ〜って思いながら焼くの」
根拠はまるでなさそうだった。
次にソフィアが焼いた。
無駄な動きが一切なかった。生地を流す。広げる。その円は、定規で測ったように正確だった。厚みも均一。返すタイミングも、寸分の狂いがない。
「……綺麗ですね」
綾目が思わず言った。
「どうやってそんなに正確に」
「目測です」
ソフィアはそれだけ答えた。淡々と。本当に、ただ目で測っているらしかった。
そして、綾目の番になった。
綾目は生地を鉄板に流した。
——形が崩れた。
円のつもりが、いびつな楕円になる。ヘラで直そうとすると、端が寄って、さらにいびつになった。焼ける間、じっと待ち、頃合いを見て返そうとする。
返せなかった。
生地が、ヘラに半分くっついて、めくれ上がった。慌てて整える。形はもう完全に崩れている。一部が少し焦げた。
(……難しい)
刀は振れる。だが、これはまるで勝手が違う。
なんとか焼き上げて、口に運んだ。
……美味しい。
形は崩れていても、味はちゃんとお好み焼きだった。
そのとき、ソフィアがぽつりと言った。
「初めてにしては、よくやったと思います」
綾目は、ヘラを持つ手を止めた。
評価なのか、慰めなのか、口調からは分からなかった。相変わらず、感情の乗らない平坦な声だった。
だが——言わなくてもいいことだった。
黙っていても、誰も困らない。なのに、この子はわざわざ口にした。
(この子は、言わなくてもいいことを言った)
綾目は内心で、その事実を静かに留めた。
「……ありがとうございます」
そう返すと、ソフィアはもう何も言わずに、自分のお好み焼きを口に運んでいた。
◇
「そうだ。せっかく現役がいるんだから」
お好み焼きを食べ終える頃、レティシアが言った。
「騎士学校の話、聞いておいたら? アヤメちゃん、もうすぐ入るんだし」
綾目は頷いた。それは、ちょうど自分も思っていたことだった。
ソフィアが綾目の方へ、わずかに顔を向けた。
「何を聞きたいですか」
「……一通り、教えてもらえると助かります。私は何も知らないので」
ソフィアは小さく頷いた。それから、淀みなく話し始めた。
「帝立アーマリア騎士学校は3年制です。特別選抜科と、一般科に分かれています」
端的だった。だが、不思議と聞き取りやすい。
「特別選抜科は、4クラス。各クラス、10人前後。文武両道に優れた者を選抜したクラスです。一般科は10クラス。各30人前後。ただし、特定の分野に特化すれば特別選抜科を凌ぐ才能を持つ者もいます」
(私が入るのは特別選抜科。10人のクラス)
綾目は内心で整理した。少人数だ。それだけ互いの顔がよく見えるということだろう。
「生活は全寮制です。特別選抜科は個室。一般科は二人一部屋。外出は申請すれば可能で、審査は比較的緩いです。休暇は週末、祝日、それから夏季、冬季、年末年始」
(個室。それは助かる)
一人の時間が確保できる。綾目にとっては、ありがたい環境だった。
「授業は一般学問、戦闘技術、グラム操縦訓練、戦術戦略論、礼儀作法。グラム操縦は、1学期はシミュレーション訓練までです。実機訓練は、2学期から始まります」
綾目はひとつ気になって尋ねた。
「シミュレーションと実機では、やはり違いますか」
「感覚は異なります」
ソフィアは即答した。
「ただ、シミュレーションで基礎を固めた方が、実機に移った際の適応が早い傾向があります」
的確な答えだった。聞いたことに、過不足なく返ってくる。綾目はこの子の説明が、思いのほか分かりやすいことに少し驚いていた。無感情なのに——いや、無感情だからこそ、余計なものが混ざらず、要点だけがまっすぐ届く。
「行事は」
「年間を通して、いくつかあります」
ソフィアは続けた。
「2学期に実地演習と、騎士道祭。騎士道祭は、学園祭のようなものです。年末に、グラム対抗戦。2年生と3年生による、グラムの集団戦です」
そこで、ソフィアは一拍置いた。
「そして、3学期の上旬に総合戦闘披露会」
「総合戦闘披露会?」
「学年無差別のトーナメントです。銃火器以外は何でもありの実戦形式。各騎士団のスカウトが観戦に訪れます。1年で最も注目される行事です」
綾目の中で何かが、静かに引っかかった。
(学年無差別の実戦形式のトーナメント。各騎士団のスカウト……)
そこで結果を出せば。実力を目に見える形で示せれば。
(——騎士への道が、現実になる)
まだ先の話だ。入学すらしていない。それでも、その行事の名前は綾目の記憶にはっきりと刻まれた。
レティシアが横から口を挟んだ。
「派閥とかって、あるの? そういうの」
「特別選抜科の、一部には、あります」
ソフィアは、淡々と答えた。
「家柄や身分による序列のようなものです。私は関与していません」
「ソフィアちゃんは、そういうの興味なさそうだもんね」
レティシアが笑った。それから、軽い調子で続けた。
「友達は?」
ソフィアの返事が、わずかに遅れた。
「……いません」
一瞬、沈黙が落ちた。
ほんの1秒ほど。
ソフィアはそれ以上、何も言わなかった。表情も変わらない。ただ、その短い間に何か——言葉にならない、わずかな空白のようなものが綾目には感じられた。
(今の沈黙は何だろう)
綾目は内心で首を傾げた。うまく、説明できなかった。だが、確かに何かがそこにあった気がした。
レティシアが、少し慌てたように声を上げた。
「ま、まあ! これからはアヤメちゃんが行くからね! 友達、増えるよきっと!」
ソフィアは、何も答えなかった。ただ、静かに海鮮焼きを口に運んでいた。
◇
料理は次々と運ばれてきた。
海鮮の盛り合わせが焼かれ、野菜が焼かれ、そして——上等な肉の盛り合わせが鉄板に乗った。
じゅう、と音を立てて、肉が焼ける。脂の匂いが個室に満ちた。
レティシアが慣れた手つきで一番いいところを焼いた。きつね色に焼き上がった一切れを、ヘラで取り、ソフィアの取り皿にすっと置いた。
ごく自然な動作だった。まるで、いつもそうしているかのように。
ソフィアがその肉を口に運んだ。
その瞬間。
ソフィアの瞳に、何かが湧いた。
感情と呼んでいいのか、綾目には分からなかった。だが、確かにその瞳の奥で何かが揺れた。凪いだ水面に、小さな波紋が広がるような。ほんの一瞬。瞬きひとつの間に、それは消えた。
綾目はそれを見ていた。
ソフィアは何事もなかったかのように、肉を咀嚼している。表情は元の無表情に戻っていた。
だが、綾目は見てしまった。
(何かがあった。あの子の中に)
さっきの「いません」の、沈黙。そして今の瞳の揺れ。
(感情がない人間なんて、いないのかもしれない。ただ——閉じているだけで)
綾目は、もうこの子を「無感情な子」だとは思えなくなっていた。
向かいでレティシアがもう一切れ、肉を焼いていた。その目が、ソフィアを見てほんの少しだけ、和らいでいた。
◇
食事が終わる頃には、外の日が少し傾き始めていた。
会計はレティシアが済ませた。綾目が財布を出そうとすると、手で制された。
「いいの。お姉さんに任せなさい」
店を出て3人は停めてあった車に向かった。来た時と同じ、無骨な軍用車だった。
歩きながらレティシアが、綾目に身を寄せて小声で言った。
「ソフィアちゃんって、ちょっと愛想ない子だからさ。でも、悪い子じゃないから。仲良くしてやってね」
綾目は少し前を歩くソフィアの背中を見た。
小柄な背中だった。きちんと伸びた背筋。歩き方にも無駄がない。
その背中に向かって、綾目は声をかけた。
「ソフィアさん」
ソフィアが振り返った。
「これから、よろしくお願いします」
ソフィアはしばらく綾目を見ていた。それから、静かに頷いた。
「……よろしくお願いします」
綾目はその声を聞いていた。
(少しだけ声が違った気がする)
長官室で初めて挨拶を交わした時。あの時の声は、もっと機械的だった。録音された音声のように、平坦だった。今の「よろしく」は——ほんのわずかにだが、柔らかかった気がする。
(……気のせい、かもしれないけれど)
それでも、綾目はその微かな違いを心に留めた。
◇
車はまず綾目のマンションへ向かった。
「またね、アヤメちゃん」
レティシアが運転席から手を振る。綾目は頭を下げて車を降りた。
次に、車は騎士学校へ向かった。
「またね、ソフィアちゃん」
「……はい」
ソフィアが校門の前で降りる。小さな背中が門の向こうへ消えていった。
車内にレティシア一人が残された。
しばらく、レティシアはハンドルに手をかけたまま静かにしていた。
(とりあえず——今日でひとまず私の役目は終わりかな)
綾目を引き上げ、励まし、買い物に連れ出し、編入の話を取りまとめ、今日、ソフィアと引き合わせた。ここまでが自分の仕事だった。
(あとはあの子達が自分達で進んでいく)
短命種の15歳。長命種の自分から見れば瞬きのような時間だ。けれど、その短い時間の中であの子達は、これから自分の足で歩いていく。
(ソフィアちゃんも——綾目ちゃんなら)
レティシアはふと思った。
感情をうまく扱えない子。感情を表に出さない子。性質は違うが、どこか似ている二人だった。
(もしかしたら——初めての友達になれるかもしれない)
今日の食事の間、二人の間に確かに何かが芽生えかけていた。お好み焼きへの不器用な一言。瞳の揺れに気づいた綾目の目。別れ際のわずかに柔らかい声。
その全てを、レティシアは見ていた。
(……でも、お姉さんとしては)
レティシアの口の端が、少しだけ上がった。
(たまには、様子見に行かないとね)
それは温かく、ほんの少しだけ意地悪な、お姉さんの笑みだった。
車がゆっくりと走り出した。傾き始めた日の光が、フロントガラスに淡く差し込んでいた。




